仏陀はサンスクリット語を禁じた

マニカナで芳和さんが、私宛に投稿されていますね。

私のこのブログの文章に対してのレスのようです。

私にレスするよりは、石飛先生が芳和さんにレスされているのですから、そちらに返事されたほうがいいと思いますが、少しコメントしますか。

 

 

>ショーシャンクさ~ん。お元気そうでなりよりで~す。(^^)
>ヤフーの掲示板が終わる頃に「仏教ついてのひとりごと」のトピ主さんですね。
>ヤフー掲示板にいらしたようなので“ショーシャンクのブログ”で検索したらすぐ出て>きました。
>ブログをやれているようで、楽しんでください。

 

うーん、この小芝居、ちょっと下手ですね(笑)

今日初めてこのブログを見つけましたか?違いますよね。ずっと前から読み込んでますよね。

 

>失礼なことを言って誠に申し訳ありませんが、蒼龍の窟に下って、嫌われ者になりたいと思います。
>ズバリ申しまして、「ショーシャンクさんも「餓鬼」です。
>ただし、「も」すなわち、「貴方も私も」です。
>貴方が阿修羅なら私も阿修羅――仏の智慧は自他平等ですよね。

 

まあ、そうかもしれませんね。餓鬼界かもしれませんし、阿修羅界かもしれませんね。

 


>「諸行無常」の譬喩として六道輪廻が説かれますが、人の心は激流の如くに六道輪廻をしています。
>六道輪廻の中で、私は阿修羅性を強く、ショーシャンクさんは餓鬼性が強い。
>それは、損するか得するかのビジネスや株の世界に身を挺しているからではないのでしょうか。
>そんな世界におりますと、「もっと得よう」という貪欲に縛られてしまいます。

 

ビジネスも株も自分の利益最優先ですからね。結果が全てです。

いくら寝る間を惜しんで働いても、いくら人格者でも、どんなにいい人だと思われていても、会社を倒産させたら社会に大きな迷惑をかけたただの無能とされます。

株も結果だけが全てです。いくら頭がよくても理論が素晴らしくても、大損をして資産を溶かして無一文になったら無能の烙印が押されます。

いくら菩薩でも自分が経営する会社を倒産させたらその取引先に多大の損害を与えますし従業員は路頭に迷います。会社を倒産させる菩薩は、会社を倒産させない阿修羅・餓鬼に劣るのが現実社会です。

別に阿修羅でも餓鬼でもどちらでもいいですよ。

 

 

>ショーシャンクは、無我や無欲なんか仏教じゃない。
>仏教の中には、自分の欲望を満足させるものがきっとあるに違いない、と思っていませんか。
>涅槃に安住したい。というのも貪欲ですよ。

 

私が目指すのは、精神が無量であること、です。

精神が無量であれば、現象に無量が現れる、と思っています。

私に現れる現象がまだ無量でないということは、精神が無量でないからです。

欠乏感を抱く限り、現象には欠乏が現れます。

欠乏感の固まりが餓鬼界です。

まだ私に現れる現象が無量でないのは、精神が餓鬼界だから、つまり欠乏感を除去できてないからです。中心を持つ限り、限定が生まれ、限定がある限り欠乏感が生じます。無量になれないのです。

無量な状態を涅槃だと思っています。無量の状態に達したいというのが貪欲というのであれば、そういう貪欲ならおおいに起こしたいですね。

 

>テルゼさんの「消える自州」問題で、石飛先生が「中州」と言っていたのはある意味正解です。
>大河の中州で、激流をしっかり見つめて自己を制御する、と意味にもとれるからです

 

この文章を見ると、あなたは自州も中洲も激流も自己も、その意味するところが分かっていないように思えます。

中洲と言ったのは仏陀です。おびただしい水の中で現われている陸地というようなことで、島とも中洲とも訳されてきたのです。

中洲と言っても通常の川の中州のイメージではなく、川が氾濫して洪水になってその中にぽっかりと浮かぶ陸の部分というのが最もイメージに合います。

そして、その中洲とは何を意味しているのか?

激流とは何を意味しているのか?

芳和さんが捉えている意味と私が把握している意味とでは全く違うと感じます。

 

 

さて、「ブッダ最後の言葉」ですね。
ショーシャンクさんご自分の思いに合わない学者さんは信用しないようですが、私の初期仏教の師は
羽矢辰夫先生ですが、その著書『ゴータマ・ブッダ』にこうあります。

「修行僧たちよ。あなたたちよ、あなたたちに告げよう。もろもろの〔自己を〕形成〔する〕力は
無常である。怠ることなく修行を完成しなさい。(『ディーガ・ニカーヤ』2・156ページ)

と一般的な訳を示した上で、5ページにわたり緻密な解説がなされますが、最後がいいですね。

「ゴータマ・ブッダは最後の言葉を残して瞑想に入り、そのまま静かに亡くなったと言われます。
根底のところで転換がなされていたので、生きるも死ぬも同等に受け入れられ、静かに死を迎える
ことができたのです。」

心に染みますね。「生きるも死ぬも同等に受け入れられ」というところが核ではありませんか。
「生」と「死」を差別しない境涯となりなさいということです。
「スタート」と「ゴール」を差別しないということは、真実は始まりと終わりの途中の今にある。
要は、ゴールに多大なご利益があると「お得な彼岸」を目指すと石に躓くということです

 

芳和さんを見ていて思うのですが、芳和さんは、読んだ仏教学者の本の引用ばかりです。それはあなたの言葉ではありません。読んだ本などすべて消化して、自分の言葉で語ることが重要です。

私が食事をしているとします。食べ物を食べている途中でその口を開けてみせたらとても嫌な感じを受けるでしょう。

それと同じです。

その食べ物をのみこんで消化して自分の血肉にしたら、口を開けてもその食べ物はありません。

芳和さんが、仏教学者の解説書を夥しい量読んでいるのはわかります。

それを全部消化して、自分の言葉として語らなければ、口の中の食べ物を見せつけられているような気がします。

その言葉を見る限りでは、私はその羽矢辰夫という学者も凡庸な感じを受けます。

どうしてかというと『生きるも死ぬも同等に受け入れられ』のところです。

このことについてはまた詳しく書きます。

 

サンスクリット語にご堪能のショーシャンク大先生は、
>私が直訳するとしたら『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸によって行じなさい。』です。
とありますが、「行じなさい」というのは、苦集滅道の「八正道」だと思いますので行じて下さい。

 

仏陀最後の言葉

vayadhammā saṅkhārā  appamādena sampādetha

はパーリ語です。サンスクリット語ではありません。

仏陀は、自分の言葉をサンスクリット語にすること、サンスクリット語で説くことを戒律で禁じたのをご存じですか?

私はここにも仏陀の本心を見ます。

なぜ、サンスクリット語を禁じたのか?

ここを参究してみてください。

 

 

>明日の利養を貪らないで「今を真剣にいきよ」ということです。

 

今を真剣に生きる人は、目標や理想に向かっています。

例えば、仏陀は、『苦の消滅』という目標または理想を目指して修行しました。

オリンピックの選手は明日の金メダルを目指して今を真剣に生きています。

明日の理想や目標もなく今を真剣に生きることが果たして可能でしょうか?

苦の消滅も金メダルも自らの利益です。

 

>言葉を変えれば、諸行無常の先端を生きよということでしょうか。

 

諸行無常に先端も末端もありません。

形成されたものは必ず滅するのです。

三界は火宅なのです。

火宅の先端にいようが末端にいようが、どちらも焼け焦げてしまいます。

 

 

>「見落すことなく、その中に居よ」というはそういうことです。

 

紀野一義の訳

「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。

 見落とすことなくその中に居よ」

 

vayadhammā  saṅkhārā  appamādena sampādetha

 

vayadhammā = 衰滅の法  衰滅の性質を持つ
saṅkhārā = 行  事象  すべてのものごと 
appamādena = 精励  努め励むこと 不放逸
sampādetha  = 行ず  成功する  成就する

 

紀野一義がどのような考えを持とうが何の興味もありません。

ただ、vayadhammā  saṅkhārā  appamādena     sampādetha

『こころは移ろい易きものである。

 見落とすことなくその中に居よ』

と訳すなんてありえないのです。

上の単語のどこをどう訳すとそんなでたらめな訳になるのか、教えてください。