brahmavihara

仏陀の在世時には、brahmanは、インドの共通認識として、存在の根源、宇宙の根源、創造神、究極のものを意味しました。
brahmanを人格神としてとらえるときは最高神でした。

しかし、仏陀の死後、後世になって神(天)のランク付けが詳細に行なわれるようになり、
brahmanの持つ根源や究極という意味は無視され、色界最下層の初禅に位置する神ということになってしまいました。
色界は、迷いの世界である三界の中の一つです。

バラモンはbrahmanの親族という意味で、人間の最高を意味しました。
仏陀は、『人間は行いによってバラモンになる』と言って、生まれでなく行為によって最高の存在になれると説いたのです。

つまり、brahmanもその関連であるバラモンも、仏陀在世のときは、『最高』『究極』という意味であったのです。

brahmacariya やbrahmaviharaも、究極の行いや究極の境地という意味であったのです。

また、仏陀が成道時に、brahmanからの声を聞きますが、これは宇宙根源からの声なき声だったと思います。
それが、伝説になって、色界最下層の梵天が下りてきて『説かなければ人類が滅びてしまうから説いてくれ』と勧請したことになりました。

pipitさんが言われることはよくわかるのですが、そして、pipitさんが貼ってくださった禅定の段階などはさすがテーラワーダで、ここまで具体的にはっきりと禅定の各段階を示せるのは原始仏教だからだと思います。

ただ、brahmanという言葉から『究極』『根源』という意味が失われていき、brahmaviharaも、究極の境地=涅槃だったと思っていますが、後世になっては、どんどん価値が下がっていき、brahmaだから梵天、梵天の世界には行けても涅槃には至らない、となってしまったのです。

 

私が、『brahmacariya やbrahmaviharaなど、brahmanがついている用語はすべて貶められランクが下がっていったのです。』と言った根拠は、中村元の「四無量心は本来、涅槃を実現する実践であったが、後に生天をもたらすだけ のものとなった」という説です。

スッタニパータでは『立っているか歩んでいるか、或いは座っているか、或いは臥してい ても眠りを離れている限り、この思念(etaṃ satiṃ)に人は踏みとどまる べきである。これ(etaṃ)を、brahman 神に連なる過ごし方だと、いまここで人々は言う。 また、見解に近づくことなく、よい生活習慣を有し、見ること を備え、欲望の諸対象に対する貪りを排除すべきである。というのも、 〔そうすれば〕胎児の寝床に行くことは、決して二度とないからである。』とあり、これが二度と生まれることのない涅槃の境地を実現するものであったという根拠となっています。

それが、他の経典では、
『 ahaṃ tena samayena Mahāgovindo brāhmaṇo ahosiṃ. ahaṃ tesaṃ sāvakānaṃ brahmalokasahavyatāya maggaṃ desesiṃ. taṃ kho pana Pañcasikha brahmacariyaṃ na nibbidāya na virāgāya na nirodhāya na upasamāya na abhiññāya na sambodhāya na nibbānāya saṃvattati, yāvadeva brahmalok’ūpapattiyā. DN19(II p.251)

「過去世において、私はバラモンMahāgovinda となった。私はかの弟子たちに、brahman神の世界において同行者たる為の道(四無量心)を示した。一方で知っての通り、そのbrahmacariyaは、厭離の為に作用せず、熱望を離れる為に〔作用せず〕、抑え込みの為に〔作用せず〕、鎮静の為に〔作用せず〕、理解(abhiññā)の為に〔作用せず〕、完全な悟りの為に〔作用せず〕、涅槃の為に作用しない。brahman 神の世界に到達する為に作用する ただその限りのものである』
となっていきました。

 

<<「梵行」という言葉は、出家者の生活を送ることと淫法を控えるという狭い意味だけで知られるが、それはただ一つの意味に過ぎない。
本当は、梵行はパーリ語で言えば、Brahma−cariyaだが、これはBrahma(最勝)にcariya(所行、生きること)を加えたものである。したがって、梵行は、「最勝に生きること」「最勝の生活をする」という意味で、簡単に言えば「最勝に生きること」である。>>

 

brahmacariyaは、後世において、ただの性的な禁欲と解釈されてきましたが
brahmaを最勝と訳しているのは素晴らしいことです。

ということは、brahmaviharaは、『最勝の境地』『究極の境地』で間違いないことになります。

brahmaviharaが涅槃を意味するというのが、私の確信ですから、非常に心強いです。