仏教なるものは、仏教なるものが確立された時点から今日まで、歴史上の仏陀の真意とはかけ離れ続けていきました。
いま残されて一般にも使われている仏教用語のほとんど全部は本来の意味と全く違うものです。
仏教用語に『煩悩』と言う言葉があります。
一般的には、煩悩とは欲望のことだと思われています。
欲望をなるべく少なくしていくこと、足るを知るということが煩悩をなくしていくことだと言う人は多いです。
ところが本能も欲望です。食欲を否定すると死んでしまいますし、性欲を否定すると人類は絶滅します。
だから、欲望はなくならない、煩悩はなくならないものだろうということになっていきました。
もっと時代が下れば、煩悩はあるがままでよい、とか、煩悩がなければ菩提に近づけないとか言われ始め、煩悩即菩提と言う言葉が流行していきます。
私は、煩悩とは束縛のことだと考えています。
精神の自由を束縛するもの、
本来の無量の精神を限定させるもの、
これが煩悩の本質です。
精神に苦をもたらすもの、それが煩悩です。
自由をその本質としている精神にとって、束縛は苦なのです。
故に、煩悩の別名は、『結』であり『縛』なのです。
そして、最も下方(欲界)に結びつける結縛が、五下分結です。
五下分結は
有身見
疑
戒禁取
貪
瞋
です。
中部経典『五下分結経』によれば、四禅によってこれを捨断するとのことです。
とすると、
五蓋と非常に似かよった概念です。
五蓋も、初禅に入る前にこの五蓋を除去することが求められます。
五蓋は、
貪
瞋
疑
惛眠
掉悔
です。
『結』にせよ『縛』にせよ『蓋』にせよ、煩悩の本質をよく表わしている言葉です。
すべて、自由な精神でないようにしているものです。
これこそが、煩悩の本質です。本来の意味です。
ですから、後世に流行して、大乗仏教の旗印になった感がある、
『煩悩即菩提』という言葉がいかに煩悩の本質を見失わせてしまったか、です。