慧解脱と心解脱

マニカナでの、石飛先生との、『筏の喩え』に関しての議論とそれに付随しての慧解脱に関しての対話が終了しました。

ただ、終わった後に、私が書いた『慧解脱は、四諦という仏陀の理法を洞察することによる解脱です。ところが、禅は、黙照禅にしても公案禅にしても、四諦を瞑想することはありません。仏陀の理法を瞑想することはありません。禅定至上主義です。ですから、禅は心解脱だと思っています。』という文章に対するコメントがあったので、考えを書いておきます。

 

基本的に、慧解脱や心解脱というのは、大乗仏教にはないと思います。

『禅は心解脱だと思っています』と書きましたが、慧解脱ではないという意味で、本当には心解脱でもないでしょう。

正確に言えば、禅宗は、悟りや見性といったものを目指すものだと思います。

 

といいますのも、慧解脱にしても心解脱にしても、原始仏典には詳しく書かれており、非常にレベルの高いものであり、それぞれの示すものが厳格なのです。

たとえば、大乗仏教の場合、『智慧』と言う言葉は極めて曖昧です。

空についての智慧、縁起についての智慧があれば、もう智慧が備わり、慧解脱だ、などということを簡単に思っています。

しかし、慧解脱とは、三明に達し、四諦の法から漏尽智を得て煩悩の滅尽を成し遂げ解脱することです。つまり、もろもろの煩悩はすべて滅尽しています。

 

ところが、大乗仏教の場合、そもそも煩悩の滅尽はしません。煩悩即菩提が大乗仏教の旗印のひとつになっていますし煩悩はなくなる必要がありません。智慧にしても空や縁起を理解をして観をしていけば慧解脱だと安易に考えているくらいのものです。

 

心解脱にしても、原始仏典では、想受滅まで達したものを言うのです。

禅定と言っても並大抵のことではありません。

大乗仏教では想受滅はないはずです。

 

ですから、原始仏教と禅宗との目指すところは違うのです。

禅宗で三明を言うことなどないでしょう。

しかし、原始仏教、つまり仏陀と直弟子の時代には、『テーラガータ』を見ればわかりますように、弟子たちが『三明に達した』と告白している箇所が随所にあります。

 

仏陀は慧解脱に関して、厳密に説いています。

曖昧な認識で何でも慧解脱と言っているのではないのです。

 

『両者とも禅定は目的ではないです。禅宗は禅定を目的にするというのは、道元でも臨済禅でもないでしょう。曹洞宗は見性否定を徹底するところがあるし、公案禅も見性の先がある。』なんて書いている人がいますが、

四諦の理によって漏尽智を得て煩悩を滅して解脱しなければ慧解脱ではないのです。

というか、大乗仏教には慧解脱ということ自体、ありません。

 

仏陀が言った、倶分解脱、慧解脱、身証明、見到達、信解脱くらいは知ってからでないと、禅宗が慧解脱であるかどうかと言及できるわけがありません。