仏教についてのひとりごと 67

ですから、
無明⇒行⇒識⇒名色⇒六入
の中の【識】は
六識に分かれる前の識、すなわち【何かを意識しようとする意識】だと思いますよ。

未分化の意識、つまり、見ようとする意識、聞こうとする意識に分化する前は
【対象を意識しようとする漠然とした意識】のはずです。

【見る】というのは眼という感官によって意識することですから
眼が生じる前においては、【対象を意識しようとする意識】だと思いますね。

 

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<<仏教史にない発見を行うにはイノベーション発想の転換が必要という意味です>>

それであれば、全く発想は違います。
今までは、仏陀が仏教の開祖であるという視点で、仏陀を、後世のものが作り上げた仏教の教義というものを通して解釈してきました。
私は、仏陀を仏教の開祖とは思っていませんし、仏陀自身も特定の宗教の教祖だとは思ってもなかったはずです。まずは、その後世に付け加えられた夾雑物を取り除いていく形で仏陀の真意を探りたいと思っています。

<<苦諦や四諦は、すでに、仏教史にない形で解明されているのですか>>

苦諦については、理論的にはかなり進展はありましたし、実感としての【苦】、これはわかるようになりましたが、もっと実感でわからなければいけないでしょうね。
【苦】が本当にわかれば、仏陀の真意はすべてわかるでしょうから。

 

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苦諦をどなたが解明したか、という質問に関しては、苦諦を解明したとは言ってません。


あなたは、苦諦についての基本的な知識はあると考えていいですか?
知識として全くない状態であれば説明することができませんから。

あなたに苦諦の基本的な知識があるとして聞きますが
仏陀は苦諦の『苦』を具体的に8つ挙げています。八苦ですね。
四苦八苦の八苦です。
それでは、苦諦を解釈するうえであなたは八苦のうちどれが最も重要だと思いますか?

 

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<<先般のご質問ですが、四諦ももうすぐ分かるそうですが、どなたがそれを提唱されているのですか>>

誰も提唱してないですし、誰も師としませんし、どんな団体にも属しません。
解説本は多く読んできましたが、どれも物足らないので、自分でパーリ語原典を元に探求しています。
私の解釈が間違っているかもしれませんし、それはそれでいいのです。
自分が自分で納得するまで探求したいだけなので、それが誰にも認められなくても一向にかまわないのです。
探求できないかもしれませんし、全くの間違いであるかもしれませんが
自分がfeel good だからするだけです。

ただ、ひとつ確信があるのは、仏陀が悟ったときに、繰り返し瞑想していたのは
四諦の三転十二行相と十二縁起ですから、
表面的な教義ではなく、瞑想の中身そのものであった、ということです。
それを徹底瞑想して悟りに至るわけですから、深遠な内容だったはずです

 

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<<苦諦については、理論的にはかなり進展はありましたし、実感としての【苦】、これはわかるようになりましたが、もっと実感でわからなければいけないでしょうね。
【苦】が本当にわかれば、仏陀の真意はすべてわかるでしょうから。>>

進展はあったと言いましたが判明したとは言ってないですね。
『苦』が実感としてある程度わかるようにはなってきましたが、もっと実感でわからなければいけない、と書いています。
つまり、本当に実感として【苦】そのもの全部が分かれば、それを手放すことができるわけですから仏陀の真意はわかるだろうと意味で書いたのです。そして今は、快楽を含めた『苦』までを実感するに至っていません。また、時間の問題とは書いていませんね。時間がすごくかかるかも、この生では無理かもしれませんし、すぐかもしれませんが、時間の問題とは思っていませんし書いていません。

ところで、私は、明らかに悪意や誹謗中傷をしたいだけで書き込む人以外の人の質問にはすべて丁寧に答えようと努力していますが、あなたの質問がどういう本心から出ているのかが不明です。
真摯に探求したいという心からなのか、それとも誹謗中傷するためだけにその材料を探して質問をしているのか、どちらですか?
他の人に対するあなたのレスを見ると、後者なのでしょうか?

 

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そういう人のために
二河白道の向こう側からmicが手招きしてますよ(笑)

向こう側からなのか、火の河の中からなのかは知りませんけど(笑)

 

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あなたのその質問は『 そして、それに続けて、苦諦がわかれば、四諦も時間の問題でわかる、とされませんでしたか。』ですね?
その答えは、私はそのようなことは言っていない、ですが・・・

その答えとして、私の前の投稿文
【苦諦については、理論的にはかなり進展はありましたし、実感としての【苦】、これはわかるようになりましたが、もっと実感でわからなければいけないでしょうね。
【苦】が本当にわかれば、仏陀の真意はすべてわかるでしょうから】
を既に挙げています。

この文章を見れば、どこにも『苦諦がわかれば、四諦も時間の問題でわかる』とは書かれていないことは明白ですね。

 

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<<しかし、「苦が本当にわかれば、ブッダの真意はすべて分かる」のでしたら、四諦もわかりませんか?!>>

わかると思いますよ。苦が分かれば厭離に赴く、厭離に赴けば解脱に至る・・ですから。

仏陀の言う『苦』はある程度までわかってきました。
それは、仏教解説者が説くような『思い通りにならないから苦だ』とかいうようなものでなく
もっと根本的な苦でしょうね。
ただ、苦が実感として全部わかったわけではないですから、まだまだですが。

<<如来諸説は、最古の仏典ではありませんが、信頼されるのですね>>

私は仏陀の成道の場面は、相応部経典ではなく律蔵大品のほうを参考にしています。
最古の仏伝で非常に詳しいので。

 

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四諦は象の足跡で、ほかの動物の足跡は全部入る・・と言われていますから
四諦が本当にわかれば仏陀の悟りはわかるでしょうね。

 

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h2という人は、最初からしつこく絡んできましたが
最近は来ないですね。
気が小さいというか気が弱い感じの人でしたね。

micを見るといつも、
映画『ニュー・シネマ・パラダイス』に出てくる、
『ここは俺の広場だ!』と言って回っている男を思い出します。
こういう人はやたらと元気で、何十年も経って村の映画館を取り壊すときにも
相変わらず『ここは俺の広場だ!』と言って回ってましたね。
とても良く似てます。

micが言うには『大乗勉強しなさい』らしいので
micに大乗仏教の知識があるのであれば禅でも浄土でも法華経でも密教でも論じ合いたいですが
どうせ『ここは俺の広場だ!』としか言わないので、話し合いにはならないですね。

 

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こんばんは。
『自由に生きる』、ご紹介ありがとうございます。Kindle Unlimitedに入ってますので、ちょうど無料で読めるみたいです。読み終わりましたら感想書きますね。

『アップデートする仏教』、同じ著者の『青空としてのわたし』も読んでみました。

著者は、30年間日本で最も厳しい修行道場で曹洞宗の只管打坐を修行し、その後、ビルマでマインドフルネス瞑想を数年間本格的に修行した人ですね。
大乗仏教、日本仏教を『仏教1.0』とし
テーラワーダ仏教を『仏教2.0』として
どちらも悟りに至ることが出来ずに、その2つを統合または止揚した『仏教3.0』を提唱してますね。

日本仏教、大乗仏教の現状、テーラワーダ仏教の現状は、書かれているとおりだと思います。

その解決策として『仏教3.0』という、青空としての自分がsatiする、という結論に達しています。

結論は私とは違いますが、真摯に道を求めてきた著者の人生には共感します。
また、現状の、大乗仏教上座部仏教の分析もその通りだと思っています。

『自由に生きる』、読んでみますね。

 

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こんばんは。
おすすめのプラユキ・ナラテボー 著『自由に生きる』、読んでみました。
やはり、一生懸命に道を求める人は宗派を問わず、いいですね。
タイで出家された人ですから、テーラワーダスマナサーラとほとんど言っていることは同じです。
ただ、慈悲の瞑想に否定的なこと、七覚支の2番目『択法覚支』を身口意の行為を自分で選んで生きていくようになること、と訳していたこと、がスマナサーラと違う点でしょうか。

苦dukkhaは、やはり『思うようにならないこと』と訳していましたね。
確かに『苦』の表面部分はそのようなこともあるのですが、意識が広がっていくと、身体を持っていること、個体を持っていること自体の『苦』というものを感じられると思うのです。

この本で面白かったのは
ユーミンの『生まれた街で』という歌の歌詞を仏道的解説として解釈してたことです。
なかなか面白い趣向でした。

勧めていただいてありがとうございました。

 

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