仏教についてのひとりごと 55

中国では、盛んにどの仏典が最高峰かを議論していました。
南三北七と言われるものです。
そして、華厳経が最高峰という説と涅槃経が最高という説に分かれていました。
南のほうでは涅槃経が最高という派が多く
北のほうでは華厳経が最高という派が多かったと思います。

日蓮はそれを大まかに「しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり」というように書いています。

天台はそれを批判して、法華経を最高として五時教判を立てました。
華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時 ですね。

それまで最高とされてきた華厳経は悟った直後の純粋だが経験がなく直球過ぎる教え、
涅槃経は、8年間法華経を説いた後、言い残したものを一日一夜で説いた落ち穂拾いのような教え、というようにしてしまいました。
これが物語としてはよくできていたので、日本においては主流となっていきました。

 

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天台もそうですが
すべての教相判釈は、どの仏典もみな仏陀が説いたものという大前提に立っています。

文献学や仏教学が進んだ今になると、
五時教判は歴史上の事実ではなく
全くのファンタジーだということは常識ですが。

 

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仏陀の死後、かろうじて100年間は仏陀の真意は伝わっていましたが
(それでもやはり少しずつ曲がっていっていましたが)
根本分裂が起きた第二結集以後の部派仏教においては
形而上学的思弁に耽って各部派で論争に明け暮れるようになりました。
自分たちの仏教をバラモン教ジャイナ教とは正反対の優れた教えと誇りたいため
ほかの宗教との違いが極端に強調され、同一な部分はどんどん削られていきました。

無我=アートマンの否定 という解釈もその流れです。
その流れは自己という主体の否定となり灰身滅智の考え方に傾いていきました。

そのような部派仏教(上座部仏教説一切有部など)のアンチテーゼとして大乗仏教が興りました。
大乗仏教は、仏陀の真意の復興運動とも言えるもので、主体性の喪失に陥った部派仏教を小乗仏教として蔑み、大我という主体を立てました。

部派仏教からは、猛烈な批判が出ます。
大乗仏教などと言うのは、第一結集からの伝承と全く関係のない言説を勝手に創作したもので
非仏説だという批判です。
大我などというものを立てるのはバラモン教の教えであり、おまえたちは外道の説だ、と罵りました。

部派仏教(小乗仏教)がバラモン教との同一性をすべて排除し独自性ばかりを強調したのと同じく
大乗仏教も、小乗仏教を蔑み下に見て排除していきました。
仏陀の残した四諦十二縁起という筏も捨ててしまいました。
大乗仏典は彼岸の有り様を描いたのですが、彼岸にいく筏がないため、どこにも行き着かない教えとなっています。

部派仏教(小乗仏教)のほうは小乗仏教で、四諦の苦や十二縁起の縁起を理解できず、
dukkhaというのは苦という意味ではなく虚しいと言う意味、とか、縁起を哲学的に相依性と解釈してしまい、縁起⇒無自性 縁起⇒無我  縁起⇒空  として膨大な形而上学的教理に赴き
四諦十二縁起を瞑想するところはなく、仏陀の残した筏を失っていきました。

ですから、仏陀の死後100年後からは仏陀の真意はどこにも伝わってなく
小乗仏教(部派仏教・上座部仏教)にも大乗仏教にも仏陀の真意はありません。

仏陀の言ったように、贋金が出回ったら真のお金は滅する、ということです。

これが、現時点の私の見解です。

 

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そうなんですよね。
『悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう』と解釈する人が出てくるのですよね。
親鸞の教えは易行道どころか、難解難入であり
鋭い洞察力で自己の内面の醜さを直視し、自分に絶望するところから始まるのです。
弥陀の本願に依らなければどう転んでも救われる見込みのない罪悪深重の自分を見なければならない教えです。
1000人のうち999人は中途半端に親鸞の教えにかぶれてしまい
ますます悪くなるのです。
ほとんどの人にとっては毒水となります。

 

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いや、親鸞の教えは、自分の心の中の醜さを徹底的に洞察し絶望する教えです。
そのどん底を見ない、中途半端な人間が親鸞をかじったら大変なことになりますよ。

本当に自分の中の醜さ愚かさを直視した人は
あなたのように他人を罵ることなど絶対にできません。
あなたはただ表面で親鸞の教えをもてあそんでいるだけです。

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大乗仏典が童話であるという認識は素晴らしいですね。
大乗仏典は素晴らしい芸術作品ですから、詩心で読むべきですね。

童話を『この童話が最高で他の童話は劣っている』と言い始めると混乱が起きます。
童話の字句一つ一つを抽出してドグマを作り上げるととたんに童話でもなく詩でもなくなります。
そうして来たのが人類ですね。

 

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白隠は若いころ法華経を読んで
『こんな例え話ばかりのもので悟れるなら講談本でも読んだ方がましだ』と考え捨ててしまいます。
それから修行を重ね40を過ぎて悟ったあと、何気に法華経を手に取って読んだところ号泣したといいます。

白隠は座禅により仏陀の真意を悟った後に、法華経を読んだからその意味、その有難さが本当にわかったのです。
大乗仏典は彼岸を描いているからです。
彼岸に到達したものが読むとすべてわかるでしょう。
しかし、此岸にいるものが、いくら彼岸の描写を読んでも想像にしか過ぎず
彼岸に至ることはできません。

山の中で生まれそこから出たことのない者が、大海を描いた書物を読んでも想像するだけで、大海に出ることはできない。
筏を作り、その筏で川を下っていってはじめて大海へと行き着く。
その『筏』とは何か、人類が捨ててしまった、仏陀の残した『筏』を探求しないと
今の仏教はどこにも行き着かない。

 

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仏陀は、自らの教えも『筏』と言いましたね。
彼岸に渡ったら、もうそれを抱えて歩く必要はない、と。
彼岸に渡ったら捨てなさい、と。

これは本当に素晴らしい考え方ですね。

 

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最古層のスッタニパータの内容は、仏教の思想と言われるものと大きくかい離しています。
ですから私は歴史上の仏陀が本当に言いたかったことは何だろうか、と探求しているのです。
後世になればなるほど、夾雑物、不純物が堆積していて、仏教全体がそのような大きな山になっているように思えます。
ですから、いったん、仏教思想と言われるものは置いて、直に仏陀の言いたかったことを探ろうとしているのです。
もちろん、日本は大乗の国で、私も学生の時から仏教に大きな興味がありましたので
大乗仏教に親しんできました。
このスレッドに大乗仏教の信者が押しかけてきて、自分の信じるところを声高に主張するので
その矛盾点を指摘することになって、結果的に親しんでいる大乗仏教を否定するように思われるのは本意ではありません。
しかし、どうしても押しかけられたらその矛盾点を指摘することになるのです。

最古層のスッタニパータを中心に仏陀の言いたかったことを探ろうというのがこのスレですから
押しかけてきて自分が信じるところを主張し、私が同調せず矛盾点を指摘したら勝手に激怒するようなのは迷惑ですし正直うんざりなのです。

ここに来られて大乗仏教の話をする人が多いのですが、その人たちがここに書き込まれている内容は既に私も知っているものです。
大乗仏教は知っているのですが、今は置いておいて、仏陀の真意を直に探ろうとしているのです。

わかってもらえませんか?