唯識論は面白いですね。
私も学生の時に嵌まりました。
唯識論では基本、阿頼耶識=八識が蔵識、根本識となりますが
華厳宗や天台宗では、その上に阿摩羅識=九識という清浄識を立てたりします。
(密教ではさらに乾栗陀耶識=十識という大日如来の意識まで立てますが)
最近は唯識の本を見返すことはあまりないので、忘れているところが多いですが
理論上は八識の唯識論で完結していますね。
九識を立ててしまうと、八識と九識の関連性で論理的に苦しくなるところがあったように思いますが
私は九識論が好きでした。
結局、八識論では、阿頼耶識が転識して大円鏡智になるのであり、大円鏡智になった状態を九識論では阿摩羅識と名付けていると考えれば同じことなのですが。
ただ、阿摩羅識を八識とは別の独立した識と捉える説もあり、これだと論理的な整合性が取りづらい気もしますが、私はこの説が好きでした。
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真諦を祖とする中国の摂論宗が第九識=阿摩羅識を立てました。
真諦はインド出身の訳経僧です。
八識=阿頼耶識は真妄混合であり、悟りを開いたときに大円鏡智となるので
それで理論としては完結しているのですが
真諦は九識=阿摩羅識を別に立てて、如来蔵思想における仏性のようなものをイメージしたのでしょう。
唯識思想は極めて魅力的な思想ですが、それをいかに熱心に学んでも
おっしゃるように、家は昨日と同じく今日も客観的に強固な手触りで存在していて
とても識だけがあって対象物は存在しないとは思えないですよね。
識の中でしか肉体は存在しないと言っても腕を切られて平気な人はいません。
肉体の感覚は非常にリアルで強固なものなので、すべての人はそこに閉じ込められ制限されています。
唯識論をいくら学んでもそこから一歩も出ることはできないでしょうね。
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確かに、唯識思想は、瑜伽行派によって確立されました。
瑜伽行派はヨガの実践的な瞑想による一派ですから
唯識論は深い瞑想による真理の感得によってできたもので
理論的には真理に迫った非常に優れた思想だと思います。
ただ、身体のものすごい痛みでさえ感じないのは、感受作用も滅する滅受想定でしょうから
そこに行き着く人はまずいません。
われわれが、本で唯識論を読むくらいでは、腕を切るくらいの痛みが平気になることはないでしょうね。
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この文章は、あなたのひとりごとですか?
ひとりごとであれば、わざわざ干渉することもないのでそのままにしますので言ってください。
ひとりごとでなく、誰かに向けて書いたのであると仮定してレスしますが・・
<<仏陀が涅槃にあるのなら 涅槃は寂滅していて 真偽は起きません>>
仏陀はニルヴァーナに達して、そのニルヴァーナの境地を伝えようとした、と考えています。
そして、その仏陀の言葉だとして膨大な量の経典が生み出されました。
その中には仏陀の声を聴いたことも仏陀にあったこともない人が想像で書いたものも多く含まれますよね。
当然、真偽はありますね。
<<仏陀が 何を伝えているかは 聞く人の聞き方にあります
「 如是我聞 」と経は 始まります 仏陀に 真偽はないから 真意もありません>>
例えば、あなたが、『人の嫌がることを自ら進んでしなさい』とA君に言ったとします。
あなたは、人が嫌がってしようとしないトイレ掃除などの汚い仕事を積極的にするように指示したのですが
A君は、人が嫌がることばかり、つまり嫌がらせを積極的にし始めた場合
それはあなたの真意を間違って捉えたということです。
当然、真偽も真意もありますね。
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仏陀は、成道のときに、『この法は深遠で見がたく寂滅して微妙であり、世間の人々には説いても理解できないだろう』と思いました。
それを梵天が現れて法を説くように勧請したといいます。
そして人々に説き始めたのです。
伝え始めたのです。
仏陀が涅槃(ニルヴァーナ)に至る道を説いたのは、原始仏典から明白です。
大乗仏典では、仏陀が説いた筏をすべて捨ててしまいましたが。
例えば、相応部経典45,102では
『八正道を修めれば、涅槃におもむき、涅槃に傾き、涅槃に注ぎいるのである』とはっきり明言しています。
歴史上の仏陀は、人々を涅槃に導くために説いて説いて説きまくったではないですか?
それも知りませんか?
<<仏陀には 疑 がありません ないから あるがまま = 真>>
仏陀に疑があるとか、あなたに疑があるとか関係ありません。
仏陀にしても言葉で説いた以上、その言葉の解釈で、仏陀の真意からかけ離れることも多くあったということです。
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ダンマパダのその部分はこうですね。
『こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。』
中村元は、この文の解釈として、声を荒げないだけで安らぎに達するというのだから、ここでいう安らぎは楽しい境地というほどの意味であろうとしました。
確かに『ここでいう』安らぎは、究極の境地であるニルヴァーナという意味では使ってないという解釈も成り立ちます。
ただ、私は、もう少し踏み込んで、後半の文『もはや怒り罵ることがない』ということは、人格の大転換が必要で、その意味では、ここでいう「安らぎ」を究極のニルヴァーナと解することもできるかもしれないと考えています。
なぜなら、人間は、機械的な反応をするのであり、もし全く怒ることがないのであれば
それは人格の大転換がなされた後しかないからです。
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あなたは今日、初めて私のこのスレに書き込んだのですよ。
私は、あなたのその2,3の投稿にレスしただけです。
あなたが仏教学者なのか野球選手なのかカーリングの選手なのかもちろん知りませんし
レスするには関係のないことです。
しかし、そこまでパーリ語経典も読んでいるのであれば
当然、仏陀が涅槃を説いたことは知っていますよね?
しかし、あなたは『(ニルヴァーナを)どうして 伝えることが起きますか ?』と書いています。
パーリ語経典において、歴史上の仏陀は繰り返し涅槃を説いているではありませんか?
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あれ?
4314のコメント、あの人、削除してしまいましたね?
せっかく、レスしたのですが。
>>不都合を感じると、削除する人なのです。あの方は。
そうなのですか。
削除するなら初めから書かなければいいのに・・・
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あなたが、紀野一義も認めた仏教学者で仏教書を13,000冊も読んでいることはわかりました。
それでは聞きますが、あなたは仏陀は涅槃を『どうして 伝えることが起きますか ?』と書きましたね。
つまり、仏陀は涅槃を伝えていない、という認識なのですね?
しかし、パーリ語経典には、仏陀は涅槃について多くを語っています。
それはご存じですね?
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寂滅とは、生じては滅し生じては滅する生滅の法をも滅し尽くしたところを言うのであって
生滅の法を見極めていく先にあるものです。
決して、とっかかりがない、と言う意味ではありませんよね。
寂滅を『とっかかりがない』と言う意味にしている文献はありますか?
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寂滅という漢語は次の有名な詩に出てきます。
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂
この詩で明らかなように
諸行無常とは生滅の法であって
生じ滅することも滅し終えたところに寂滅の境地がありそれをもって楽となす・・
ということですよね。
また、涅槃には涅槃寂静という言葉があり
これは涅槃とは静かな境地ということを強調している表現ですね。
ただ、寂滅というのは生滅滅已の先にあるものです。
とっかかりがないわけではなく、諸行無常の理を観じることによってその先にあるものということでしょう。
涅槃に至る道を伝えたのが仏陀ですから
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<<諸行無常ってどういう意味だか知っていますか?諸行無常は真理であるという意味です>>
諸行無常は真理であるという意味ではありません。
sabbe samkhara anicca.
一切の形成されたものは無常である。
生滅滅已 寂滅爲樂 とは
生じては滅する=生滅の法=現象(一切の形成されたもの)
これが滅已したところ、つまり滅し尽くしたところ
これを寂滅と言っています。
つまりパーリ語経典で言えば
『一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である』
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<<>それをもって楽となす・・ということですよね<寂滅を楽と為すとあります 寂滅はもつことはできません>>
うーん、何かあなたは表面上の字句をつつくことばかりのような気がしますが・・・
『それをもって楽となす』と言った場合、『もって』は持つと言う意味でないことはわかりませんか?
例えば、宴会を開いているとき
『これをもって、お開きとします』と司会者がいったときに
あなたは『宴会は持つことはできません』『宴会はモノではありません』というのでしょうか?
本質的なことでないことは言われない方がいいですよ。
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真理は形成されません。
形成されないものが真理です。
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samkharaには多くの意味がありますよ。
私が形成したsamkharaとは何ですか?
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