仏教についてのひとりごと 66

十二縁起の中の『名色』ですね。

namarupaの漢訳が名色です。
namaが名。rupaが色。
namarupaとは、本来は、『名称と形態』のことで、ウパニシャドにおいては現象界を意味する語であったが、仏教に採用されて、両者で個人存在を意味すると考えられた。(中村元
五蘊の集まりが個人存在ですから、名色は五蘊(色受想行識)と捉えられ、名が『受・想・行・識』で色が五蘊の『色』と解釈されています。
つまり、色が物質的な要素、地水火風の四大であり、肉体。名が精神的な要素、感受作用や表想作用、意志作用、識別作用というふうに解釈するのです。

さて、
十二縁起は、無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死
ですが、
相応部経典『分別』に書かれているように、
『識』を眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識とすると
名色(五蘊の集まり・個人存在)そして六処(眼・耳・鼻・舌・身・意の感官)ができる前に
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識があることになり、矛盾するのです。

これが、相応部経典『分別』がバリアーになっているという意味なのです。

 

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十二縁起を解読するうえで、最も難しいのは
②行 saṅkhāra
③識 viññāṇa
です。
行を行為、識を六識と解釈するのが、最も多いのですが、個人存在が生まれる前に六識も身口意の行為もあるわけがないのに、そこはどの解説書も触れないか、あるいは、行を前世の行為と解釈する人が多いです。
また無明を人類の原初的な生存欲求と解釈する人も多いのですが、前世の行為にしても人類が持つ原初的な欲求にしても滅することができない存在であり、『縁の滅によって解脱する』ことが不可能になってしまうのです。

また、有(bhava=生存)⇒生(jāti=生まれること)
も非常に難解です。
既に、名色という個人存在が生まれているのに、ずっと後になって、有⇒生 が出てきます。
名色と有と生の関係はどうなのでしょうか。

ですから、今まで、十二縁起を完全に解読した人はいません。
すべて表面的な、お茶を濁す程度の解釈しかないのです。

 

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pipitさん
こんにちは。

ありがとうございます。
そうですね。
私には識が六識だとはどうしても考えられないのです。
感官器官の六処(六入)が生まれる前に六識があるのは絶対に矛盾します。

ただ、ブッダゴーサはこう言ってますね。
『識とは何か?仏陀は6種類の識がある、と言った。すなわち、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。
縁起を、三世輪廻の事として理解したい人は、(《清浄道論》までもがそういうのだが)識をば、結生識として解釈している。
そして、そのことによって、後期の論著もまた、識をば、結生識だと解釈している。
というのも、彼らは、6識を用いて、どのように三世輪廻を説明すればいいのか、分からないでいるからである。
これでは、本来の縁起が意味している事とは、全く別の事柄になってしまう。
仏陀の言う識は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。
それなのに、我々は、識を結生識と解釈してしまっている。』


私としては、識は、六識でも結生識でもないような気がしていますが
どちらかといえば結生識に近いような解釈になると思います。

 

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pipitさん
<<『識』を『知る働き』って考えたらどうかなー、と、思いました。>>

私もその感覚に近いです。
『識』は、感覚器官ができる前の、個人存在ができる前のことですから
六識とかではなく、『意識すること』しかも『一点を意識すること』ではないかと。

その解釈のためには相応部経典『分別』を否定しなければいけないので困っています。

 

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生⇒老死
は、もちろん、文字通りで全く問題はありません。

問題は
有(bhava=生存)⇒生(jāti=生まれること)です。

仏教史を見てもこの解釈も相当苦労したようで
生を来世生まれることと解釈することが多いようです。

しかし、その解釈では、仏陀が解決しようとした『老死』は来世のことになってしまいます。
仏陀が解決しようとしたのは、今の『苦』ですから
歴史上の解釈は全部間違っているのです。

 

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最古の仏伝によりますと
仏陀は、十二縁起を瞑想して完全な悟りに至りました。
『縁起の法を知り、縁の滅を知ったので、彼の疑念はすべて消え去り、太陽が天空を照らすかのように悪魔の軍勢を打ち破って立つ。』

ですから、十二縁起を本当に解き明かすことができ、それを瞑想することができれば悟りに至ることができるはずです。
しかし、何とも十二縁起は非常に難解です。
仏教におけるリーマン予想ですね。
素数の並びの法則性を探るように曖昧模糊としています。
だから面白いとも言えます。

今までの解釈のように、前世や来世に逃げてはいけないはずです。
仏陀は仏法を『まのあたりに実現する法』と言ったのですから、
そして縁の滅を実現することによって悟ったのですから
行は前世の行為という滅することができないものではないはずです。
また、今の生や老死という苦の滅を目指している以上、生や老死という苦が来世のものではないはずです。

そして、行も識も個体が生まれる前のものであるはずで、六識であるはずはありません。

仏教史で解釈されてきたすべての解釈は間違っていると思っています。

<<『識ること』を意識に分別することはだめですかね?>>

どういうことでしょうか?

 

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pipitさん
おはようございます。

pipitさんは、貴重なサイトをよくご存じですね。
このサイトも探求する上では素晴らしいものです。

苦しみを切り分けたら(分析したら)、(構成要因として)老死があった。
老死を切り分けたら、生まれることがあった。
生まれることを切り分けたら、欲有・色有・無色有があった。
欲有・色有・無色有を切り分けたら、欲取、見取、戒禁取、我語取があった。
取を切り分けたら、色愛、声愛、香愛、味愛、触愛、法愛(渇愛)があった。
六つの愛(渇愛)を切り分けたら、眼触所生の受、耳触所生の受、鼻触所生の受、舌触所生の受、身触所生の受、意触所生の受(六つの受)があった。
六つの受を切り分けたら、眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触(六つの触)があった。
六つの触を切り分けたら、六処があった。
六処を切り分けたら、受、想、思、触、作意と地水火風(名と色)があった。
名と色を切り分けたら、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識(六つの識ること)があった。
六識を切り分けたら、身行、語行、意行(三行)があった。
三行を切り分けたら、四聖諦に対する無知があった。

『切り分けたら』という訳、斬新で衝撃的でした。

私はずっと、十二縁起とは、無量心がこの迷いの生存に落ち込み苦の集積に至るプロセスのことだという確信があるのでその方向で探求していますが
pipitさんが提示されたこの訳文はちょっと衝撃です。

少し時間をかけて考えてみます。

 

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pipitさん
私は相応部経典全巻は春秋社の原始仏典で持っていて片山訳の本は持っていません。
ただ、『分別』は有名ですからダイジェスト版である増谷文雄訳阿含経典にも出ています。

相応部経典『分別』自体の訳はそれほど難しいものではなく、
十二縁起の十二支ひとつひとつを解説したものですね。
訳者による語句の解釈の違いはほとんどないですね。

問題は訳文の違いではなく、『分別』の内容そのものです。

無明⇒行⇒識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死
の十二縁起において
行を身口意の行為とし
識を六識としているのが、相応部経典『分別』です。

しかしそれでは
身口意の行為⇒眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識⇒五蘊の集まり(個体)⇒眼耳鼻舌身意の感覚器官
となります。

眼耳鼻舌身意の感覚器官が生じる前に、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識があることになります。

五蘊も集まっておらず個体がないのですから眼はなく、眼がないのに眼識があるはずはないのです。

ですから、やはり、相応部経典『分別』が後世に分析的に作られた経典だとしか思えないのです。
もし、この相応部経典『分別』の解説通りで十二縁起を解き明かしている人がいましたら教えてください。
『分別』にはどうしても矛盾があります。

 

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そうですね。
それはかなり真相に近づいた解釈だと思いますね。
私もそういう方向です。

ただ、五蘊がまだ集まっていない状態、つまり個体ができておらず、眼などの感覚器官もない状態ですから、六識に分かれていることはあり得ないと思います。
対象を意識しようとすること・・・ではないかと考えています。
意識しようとしたときに五蘊が集まって個体ができる・・・ということです