仏教についてのひとりごと 26

その通りです。
大乗仏教は、四諦の法を小乗の法、声聞の修行法として、軽視または無視してきました。
上座部仏教上座部仏教で、四諦十二縁起を解読し瞑想することはしませんでした。
五十歩百歩ですね。

 

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そうですね。
大乗仏教上座部仏教も、四諦十二縁起を捨て去ったか軽視してきた、
ということです。
少なくとも十二縁起を解読できた人はいないと思っています。
そして解読したいとは思っているところです。
捨て去られたところに注目しているということです。

 

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上座部仏教大乗仏教も、四諦十二縁起を捨て去るか、解読してこなかった、
と思っています。
私は四諦十二縁起を最も重要だと思っているので、解読したいと取り組んでいるということです。

重要視してこなかったことを批判しています。

 

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大乗仏教四諦十二縁起を軽視したのは
声聞といわれる仏陀の直弟子を権威とする上座部仏教のアンチテーゼとして
大乗仏教が生まれたからでしょうね。

 

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四諦の法を小乗として捨て去ったのは、歴史上の事実だと思いますが。
その事実を指摘しているだけですが。
また、十二縁起を解読した本があったら教えてほしい、私は今まで解読した本を知らないと言っているだけです。
もし、十二縁起の解読で納得がいくものがあれば書き込んでいただけますか。

 

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例えれば、ロゼッタストーンのようなものです。

ロゼッタストーンをただの石として捨て去るのか
それを解読しようとするのか、の違いです。

解読しようとするのは、ロゼッタストーンに価値を見出しているからではありませんか?

解読しようとするものが、今までの人はロゼッタストーンをただの石として捨て去ったという事実を指摘してはいけないのでしょうか。

 

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自慢などしていません。
大乗仏教四諦十二縁起の法を小乗の法として捨て去ったのが歴史上の事実と言っているだけです。
事実を指摘してはいけませんか?
また、原始仏教に精通している仏教学者も、今まで十二縁起を解明したものはいない、という見解を言っているだけです。
あくまでも私の見解です。
事実の指摘だけで何の自慢も介入してないですね。
今まで誰も十二縁起を解明してないので、それを解読したいと言ってるだけですが。
解読したいという希望を言ってもいけないのですか?

 

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ジュンクさん
はじめまして。

仏陀は王族で、極めて豊かな暮らしをしていたようです。
すべての召使にさえ、米と肉が与えられていたといいます。
あの時代に他ではそういうことはありませんでした。
夏と冬と雨期のそれぞれの季節用に邸宅があったといいます。

そのような、あの当時の地球上でも極めて恵まれた境遇でありながら
仏陀は『すべての人間は、終極においては違逆にあう』と見て、
すべてを捨てて家を出たのでしょうね。

 

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そうなんです。
その視点で大乗仏典を読むと面白いです。
釈迦の高弟たちがコテンパンにやられます。
例えば『維摩経』、在家の維摩居士に釈迦第一の高弟舎利弗もかたなしです。

大乗仏教は、上座部仏教に反発して誕生しました。
歴史上の仏陀は空想上の仏陀に飛翔します。
歴史上の十大弟子は、自分の悟りだけを追求して衆生の済度に興味のない利己主義者とされ
二乗として低い価値とされました。
そして、二乗のうち、声聞の修行法が四諦、縁覚の修行法が十二縁起とされました。

『二乗不作仏』とまで規定された二乗の修行法とされたのですから、四諦十二縁起をかえりみるものはいなくなりました。

 

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>>維摩経をネットで拾い読みしてみましたが、現実にあったことではなく戯曲というか小説ですね。>>

大乗仏典はすべてそうです。
他の大乗仏典でも、大地から無数の菩薩たちが湧いて出るなど幻想的なシーンばかりです。
歴史上の仏陀や直弟子は、空想上の釈迦如来や菩薩たちに取って替わられました。
ただ、大乗仏典は単なる絵空事ではなく、彼岸に達した意識たちが、煩雑で特権的になっていた上座部仏教に対抗して、次々と創り上げたものです。
ですから、哲学的には非常に深いものがあります。

しかし、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのか、を探究するには
原始仏典、それも最古層のものに拠るしかないでしょうね。

すべての仏典の上下や高低を判別した五時教判にしても、歴史上からは全くのフィクションですね。

仏陀が悟った直後に、悟りそのものを語ったのが華厳経
しかし、あまりにも高邁すぎて誰も理解できなかった。
だから誰にもわかるように、道徳的で低い教えの阿含経を説き
それから方等経典、般若経典と徐々にレベルを上げていき
弟子たちのレベルが上がったと見たときに
『今まで説いた教えは真実を顕していない。(四十余年未顕真実)』と言って
最後の8年間で真理そのものである法華経を説いた。
そして入滅する一夜にして、説き漏らしていたものを説いたのが涅槃経。

これが天台が唱えた五時教判で、未だにこの説によって宗旨を説明している宗派もありますが
これは歴史上からは全くのフィクションです。

 

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人類は仏陀の言う『苦』を理解しなかったから
四諦の法を捨ててしまったと思っていますよ。

そこまで人に言うのであれば
あなたは『苦諦』を完全に理解しているのですね?

それでは聞きますが
どうして釈迦は『一切皆苦』と断言したのでしょうか。

人生にはもちろん苦がありますが、楽しいこともいっぱいありますね。
毎日が楽しくて仕方がないという人もいます。
巨万の富を得て、身体も健康そのもので病気一つしたことがなく
多くの人に愛され、多くの孫に囲まれ『幸せな人生だった』と満足して死んでいく人もいます。
そうでなく普通の人生でも、苦もあるけど楽もある、楽しいこともあるのではないですか?
病気苦や借金苦で自殺する人もいます。
しかし、病気が快癒したら、あるいは借金がなくなったら、『苦』ではなくなりますね。
それなのになぜ釈迦は、『一切皆苦』と言ったのでしょうか?

あなたが『苦諦』をわかっていると言われるのであれば
答えていただけますか?