仏教についてのひとりごと 27

私も空海は好きですよ。
日本史上最高の天才でしょうね。
空海以上の天才は日本には現れていませんね。

空海日蓮は、仏法でこの世を本気で変えようとしました。
空海はこの世を密厳浄土に、日蓮はこの世を仏国土にしようとしましたね。
言葉は違いますが同じ方向性です。

ただ、密教バラモン教ですね。
火をたく護摩は、ホーマーですしね。

 

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日蓮は、日本古来の神については、こういう考えでした。

この娑婆世界の主が釈迦如来で、娑婆世界のすべての存在は
釈迦如来の下で、法華経を広め護持する役目を担っている・・・という感じです。
ですから、曼陀羅の中に天照大神もありますし、
日蓮が龍の口で打ち首になろうとしていたときに、鶴岡八幡宮に助けるように要請しました。
三十番神という思想もあります。

ですから、日蓮は、日本の神々については身近なものと捉えていましたね。

 

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日蓮には『神天上』という考え方があります。
つまり、この世で、大衆が、法華経を信じず、念仏などの邪法を信じているから
神々も地上を嫌って天上に帰ってしまい、地上の人々を救おうとしない・・・
という考え方ですね。

まあ、みんなが法華経を信じれば、日本の神々も地上に戻ってきて神社に住まい
人々を守ってくれる・・・というわけです。

ユニークな発想ですね。

 

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私もそうは思いませんよ。
ただ、日蓮の考え方を言ってるだけです。

私の家は代々神道家ですし、神社には神々がおられると思っていますよ。
日蓮は、法華経のみというような考えでしたが
それはかえって、法華経を小さくしていると思っています。

華厳経の考え方では、文字になって我々が目にすることができる華厳経
最も下の華厳経だといいます。
南の海の中にある龍宮で、仏教の経典である『華厳経』のうちの下の巻(上中下の3巻があるとされている)を授かったとされています。

1.上本の華厳  十三千大千世界微塵数(宇宙全体を粉々にして、そのかけらの数ほど)の偈。
        一四天下微塵数の品からなる。

2.中本の華厳  四十九万八千八百偈、一千二百品ある。

この2本の経は龍宮にあり、閻浮提(この世界)には伝わっていない。

3.下本の華厳  十万偈、三十八品ある。これが我々が目にする華厳経


私が考えるところによれば
華厳経に限らず、法華経も、ほかの経典やバイブルも
上本は宇宙の響きそのもので、文字で見ている経典は一番下のものだと思いますよ。

 

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日蓮は本気では思ってなかったでしょうね。
念仏なんかを信じて法華経を信じなければ日本の神々も愛想尽かして守らなくなるぞ、という警告でしょう。
本当に神社に神がいないと思ったら、
龍ノ口に向かう途中で、わざわざ鶴岡八幡宮に向かって大声で神に助けるように要請しないですからね。

この人の考え方には過激なところがあります。
法華経の本来の包容性を説いたほうが良かったと思いますが。

 

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創価学会は排他的ですからね。
他の教えはことごとく否定するところですから。
創価学会に限らず、宗教団体は多かれ少なかれ独善的ですね。

クリシュナムルティのいうように
すべての宗教団体は牢獄ですね。

 

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仏陀は、最古層のスッタニパータで
『戒律によっても教義によっても清浄になるとは私は説かない』とはっきり言ってますね。

しかし、仏陀の死後、様々な『教義』が生まれて、自分のところが最高だと言い張っています。

仏陀が今の仏教(大乗仏教上座部仏教も)を見れば
『私、そんなこと言ったことないですけど・・・』と言うでしょうね(笑)
それほど、仏陀の真意と仏教はかけ離れていると私は思っています。

 

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スッタニパータでも、『それでは何によって清浄になれるのでしょうか、煩悩を乗り越えた人は誰なのでしょうか?』と言う質問があります。

仏陀は、
『この世において見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨て、また、種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々ーかれらは実に「煩悩の激流を乗り越えた人々である」と、わたしは説くのである。』
と答えました。

 

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仏教は『執着をなくす』ことだとよく言われてきました。

それでは、『執着』とは何でしょうか。
親が子供に対して健康であってほしいと思う、これは執着でしょうか。
おなかがすいたから、今日の昼は前に行って食べておいしかった蕎麦屋に行こうとしたとき
それは執着でしょうか。
オリンピックの出場選手が金メダルをどうしても取りたいと思う、これは執着でしょうか。
どうしても見たい絵画、どうしても聴きたいコンサートに行くこと、これは執着でしょうか。
コレクションの趣味は執着でしょうか。
それらが執着であってなくすとしたら、社会経済はガタガタになるでしょうね。商売は成り立たなくなり店は潰れます。
逆に、それらはなくすべき執着ではないのであれば、なくすべき執着とは何でしょうか。

しかし、執着をすべてなくしたら、1日でも生きていけるでしょうか。

 

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それでは、親が子供に対して健康であってほしいと思う、これは執着でしょうか。

自分の好きな食べ物を選択するのは執着ですか。
例えば、回転ずしに行って、目をつぶって皿を取る人はいませんね。
自分の好きな寿司を取りますね。なぜ好きかというと、過去に食べた記憶があり
それを快適と思いもう一度体験しようとしているからですね。
その選択は執着ですか?

金メダルを取ることが執着であれば、なぜ執着を捨てなければならないのでしょうか?
金メダルを取るためにつらい練習を続けられて、その結果が金でなくても
その世界でコーチなどしてやっていくことができますが
そういう執着をなくさなければならないとなったら、どの道でも達人になる人はいませんね。
執着をなくしたら、難関である医者への道も司法試験も合格はできないでしょうし。
目標を強く持ち、その目標に執着している人の方が充実してますね。
目標のない人はふわふわと生きているだけです。
そうであれば執着は必要でなぜなくさなければならないのでしょうか。

もちろん、あなたのいうように出家しか認めないのであればそれでもいいかもしれませんが
仏陀は在家を認めています。在家のために説いていますね。
また、出家して修行するのも、執着なくしては絶対に続けられないでしょうね。
仏陀も悟りにあれだけこだわったから、王子の地位を捨て、妻子を捨て、出家して
6年間も修行に打ち込んだのですね。
これは執着ではないのでしょうか。ないとしたら、金メダルを目標とすることと悟りを目標とすることはどう違いますか。

また、仏陀は、ガタガタになった社会を望むのでしょうか。

 

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必要以上とか必要以下、という線引きはどこですか?

医者になりたくて一生懸命勉強している人がいます。
しかし、人間は医者にならなくても生きていくことはできます。
最低限の生活費を稼ぐためだけにバイトで暮らす人もいるでしょう。
それ以上は生きるために必要ない『必要以上』なのでしょうか?

一般の人だけでなく、日本の仏教の坊さんもすべて生きるために必要なものだけでなく多くの必要以上のものに囲まれていますね。
これでは誰も執着をなくしていないということですか。
そうであれば、執着をなくすことなどできないことではないですか?

 

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もし仏陀の言う『中道』を、快楽主義と禁欲主義の中間と捉えるなら
そして、その『中間』の意味、線引きが、人それぞれであるなら
自分の『中道』は、自分が考える『中道』でいいということですね?

それでは、そこそこいい暮らしをして、そこそこ楽しんで、そこそこ生きれたら
それが自分の『中道』と思えば、それが『中道』ということで争いがなくなるということですか?

 

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自分が考える『中道』でよければ
今と同じですね。
今も、すべて、自分が正義だと思っていますね。
テロをして何十人と殺す人も、自分の中では『正義』『中道』でしょうね。
テロをする人は、快楽主義でも禁欲主義でもなく、その中間でしょうし
自らの尺度で正義を行なっています。
不倫疑惑の政治家も秘書に暴言の政治家も、自分が正しいと思っているから
立候補したのでしょうし。
今、ほとんどの人は自らが快楽主義でも禁欲主義でもないと思っていますね。
それでは、すでに、ほとんどの人は『中道』なのではないですか。

 

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【『中間』の意味、線引きは、人それぞれ。自分の『中道』は、自分が考える『中道』でいい】
というあなたの言う意味であれば、
そして、【快楽主義と苦行の中間地点を中道とする】のであれば
ほとんどどのような人も既に中道なのではないか、ということです。
極端な例としてテロリストを挙げただけで、ほとんど全部の人は、その解釈だと中道ではないですか、ということです。