仏陀の説いた法は『まのあたり即時に実現される、時を要しない法』(スッタニパータ)です。
即時に実現される法でなければならないのです。
いま、伝わってきている仏教なるものにそのような法はあるでしょうか。
残念ながらありません。
部派は説一切有部を中心に『無我』というところから起きた当然の疑問、『我がないのであれば善因善果悪因悪果の果を受けるのは何か?』という難問に答えを出すため煩瑣な理論に没頭していきました。
それに対して、『そんなものは仏陀の真意ではない』と叫んで現れたのが大乗仏教です。しかし、『小乗、小乗』と部派攻撃をするときに、四諦十二縁起という仏陀が残してくれた筏も捨ててしまいました。
かといって、それに代わる筏などありません。
仏塔を拝むか大乗仏典をひたすら読誦することが修行の主なものになっていきました。
一応、声聞縁覚に対して菩薩を上位に持ってくる三乗思想ができあがり、四諦の法を修行する声聞、十二縁起を修行する縁覚にたいし、六波羅蜜を修行する菩薩というようにしました。
しかし、六波羅蜜は具体性がなく、それまでの徳目を並べたものでした。
六波羅蜜をどう修行するのか仏陀が説いたことがあるでしょうか。
『まのあたり即時に実現される、時を要しない法』は、生滅の法です。
大乗仏典は、仏陀の真意を表現しようとしたものです。
説一切有部のように灰身滅智が理想ではない、大いなるものがあるのだということを主張していきました。
しかし、残念ながら筏はありません。
グレゴリー・ショペンがいうように、大乗仏教はひたすら大乗仏典だけがひそかに作られていったのであり、インドで大乗教団はありませんでした。
ゆえに、あくまでも修行というのは大乗経典を読誦することが主なものになっています。
大乗仏典があまりにも長すぎるので、それを読誦することなく同じ功徳をもたらすものとして口称念仏などがもてはやされました。
しかし、経典の読誦やそれに替わる口称念仏を唱えることでは、慚愧懺悔は生じず、我塊はそのままです。
やはり、仏陀の残した筏をいま甦らせないといけません。
筏がないというのは、どこにも行き着かないということです。