違う地平へ

koboyuki (27.82.211.253)  

ショーシャンクさんこんばんは。ショーシャンクさんは大変仏教について詳しく、私はお恥ずかしいですがショーシャンクさんのおっしゃっていることの半分も解りませんが、具体的にどういった修行をどこまで実践し、その結果、どう実感し、今の見解に至ったのか詳しく聞きたいです。  

 

koboyukiさん、おはようございます。

 

まず、言っておきたいのは、私は今までされてきた仏教解釈を白紙にして、歴史上の仏陀は本当は何を言ったのか、言いたかったのか、を探求しているということです。そしていまも探求の途中です。

ですから、達成したものなど何もありません。

ただ、今までの仏教解釈、上座部仏教(部派仏教)とも大乗仏教とも全く違った解釈で進んでいます。

大乗仏教の修行は、経典読誦や口称念仏や題目を唱える、いわゆる読誦が中心です。私も経典読誦はしますが、修行としてではなく、気持ちいいからしています。ですからセクトに囚われず好きな仏典を読誦しています。

上座部仏教の修行は、いまはマインドフルネス、ヴィパッサナーばかりがすべてのようになっていますね。

私は、satiを『気づき』と訳してなく、『記憶』『憶念』と訳しています。

想念に気づいているだけということがもてはやされていますが、いくら想念に気づいていても、無思考型の瞑想と同じく雑念が少なくはなりますが、その想念の元である我塊=記憶の束はそのままです。

部屋の真ん中に腐ったものを置いたようなもので、そこから腐った臭いが出続けていて、その臭いに常に気づいて臭いを団扇で払い続けても、中心に腐ったものがある限り臭いは出続けます。

 

私は、中心を取り除くには、徹底思考型の瞑想、自己洞察型の瞑想こそが必要であり、それこそ仏陀が説いた筏だと思っています。

具体的には、四諦十二縁起や四念処を瞑想しています。

自己洞察している過程で慚愧懺悔が生じます。

マインドフルネス、ヴィパッサナー、黙照禅などの無思考型瞑想では、慚愧懺悔は生じません。

慚愧懺悔が生じなければ観の一大転回、180度転回は起きません。

 

それを瞑想していくと、不思議なことに、大乗仏典が本当にわかるようになってきます。読誦してもとても気持ちのいいものになってきます。

 

このことからも、仏陀の真意がわからなければ、大乗仏典の真意は絶対にわからないと思っています。

大乗仏教運動とは、失われた仏陀の真意の復興運動であったと思うに至っているからです。

 

いまは、スッタニパータにしても大乗仏典にしても、毎日新しい発見がある感じです。

ですから、もう少ししないとまとまったものは書けません。

自費出版の原稿にとりかかれないのは、そういう事情があり、数か月前と今とは違う地平が見えている感じです。

死ぬ一日前までには原稿を書けたらいいと思うようになりました。

新たな発見があるうちはこの流れに従おうと思っています。