仏教についてのひとりごと 18

仏陀は先祖供養については何も言っていません。

死者に対して祈ったり儀式することが無駄なことは、池のたとえで言っています。
『池に石を投げて、池の周りで大勢の人が「石よ浮いてこい」と祈ったところで石は浮くだろうか。浮くわけがない。石は石の重みで沈むしかない。人も悪業の重みで地獄に沈む。』
『池に油を投じて、池の周りで大勢の人が「油よ、沈め」と祈ったところで油は沈むだろうか。沈まない。人は善業によってのみ天界に赴く。』

ただ、父母に対しては
『みずからは豊かで楽に暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人がいるーこれは破滅への門である。』
『母・父・兄弟・姉妹・義母を打ち、またはことばで罵る人ーかれを賤しい人であると知れ。』
と言っています。

輪廻転生からの解脱が仏陀の大テーマですから
輪廻転生は仏教の大前提です。
いまの日本の仏教では、無我⇒輪廻する主体がない⇒輪廻転生はない
というような論調があったりして大混乱していますが。

 

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仏教は、仏陀が説いたものとは似ても似つかないものになっています。
あまりにも仏陀の真意とはかけ離れています。

特に現代の日本は酷すぎる。
無我⇒アートマンの否定⇒霊魂がない⇒死後の世界はない
無我⇒輪廻する主体がない⇒輪廻転生はない

これを本気で言っている坊さんがあまりにも多いですね。
霊魂がないのであれば葬式は意味ないはずです。
そういう坊さんによれば、なぜ葬式をするかと言うと、
『死んだ人は霊魂などというもので存続するのではなく
遺族や友人の人たちの心の中や頭の記憶としてずっと存続する。
葬式は死んだ人のためではなく、生きているひとのためなのです。』
と必ず言います。

その説明だと、お経をあげることはないですし、戒名を授ける必要もない、
お供え物をする必要もないはずですね。
そもそも、生きている人のためなら、親しい人が集まって想い出話をすればいいので
高い金を払って坊さんを呼ぶ必要はないですね。
ですから、霊魂を否定していながら葬式で稼ぐ坊さんは詐欺です。

 

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霊魂はない、死後の世界もない、輪廻転生もない、
死んだ人は生きている人の記憶としてのみ存続する・・・
こういうことを言うのは、浄土真宗の坊さんが多いですね。
浄土真宗は死んだあと浄土に行くということを教えの根本としているのに。

浄土真宗に限らず、職業としても坊さんというのは必要なのだろうか。
仏陀の時は、職業につかずひたすら修行するために出家したのであって
職業としての僧侶というのは全く矛盾してますね。

 

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>>> 霊魂はない、死後の世界もない、輪廻転生もない、
> 死んだ人は生きている人の記憶としてのみ存続する・・・
これはそのとおりだと思っています。どうでしょうか。>>>

そう思っている人は多いですし、本当はどうであるかは生きている誰もわかりません。
しかし、僧侶がそんなことを言っていながら
葬式や四十九日法要などで高いお金を受け取るのは詐欺です。
霊魂がなく死後の世界がないなら戒名など必要もないですね。
生きている人の記憶にあるのは本名ですし。

第一、仏陀は死後の世界を繰り返し説いていますし、輪廻転生が前提で
そこからの解脱がメインテーマです。

私は、今の仏教には仏陀が言いたかったことは伝わっていないと思っています。
それは私が勝手にそう思っているだけなのですが、私の中では確信があります。
それは大乗仏教だけでなく、上座部仏教テーラワーダ教会など)もすべてです。

仏陀が本当に言いたかったことを調べるには、最古層のスッタニパータを基にするしかありませんが、そこに書かれていることと今ある仏教はまるで違います。

仏陀の直説に最も近いと思われているのは上座部仏教テーラワーダ教会ですが
ここで説かれているのは最初から最後までヴィパッサナー瞑想
その根本となるのが、sati=気づき と言う言葉です。
satiの漢訳は『念』です。

しかし、私は、sati=念 は、『気づき』ではないと思っています。
私は『意識的に記憶され繰り返される想念』を指すと思っています。

第一、もしテーラワーダ教会が言うようにヴィパッサナーが仏陀の根本であれば
スッタニパータに繰り返し出てくるはずです。

 

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