遠佐さん
輪廻転生は仏陀が説いた最も根本的な教説ながら、無我の考えと相反するように捉えられてきました。
それで、現代の仏教においては、輪廻転生は、勧善懲悪を説くための方便、例え話、お伽噺と見る仏教学者や仏教者で溢れています。
無我⇒我が無い⇒アートマンがない⇒霊魂がない⇒輪廻転生する主体がない⇒輪廻転生がない
という結論に達している仏教者だらけです。
しかし、仏陀は、成道の時、三明の宿住智によって、自分の数多くの過去生をありありと見ました。そして、天眼智によって、生きとし生けるものが自らのkammaによって自らにふさわしい環境が展開していきその境涯へと赴かなくてはいけないという真理をありありと見ました。
kamma=身・口・意の行ない こそがすべての因です。
そして、わたしたち迷いの衆生のkammaはすべて、『私という中心』から起きています。
kammaは行ないですが、仏陀が悟ったように、そのkammaによって身体や環境を形成しつつある潜在的な形成力でもあります。
私たちは、我見といって『我あり』と固く思い込んでいます。
私たちは、無明を脱していないために、つまり、五蘊の集まりを苦と見ないために、形成力によって五蘊を集めてしまいます。
それが今の身体です。
身体を持ったために五官を持ち、五官を持ったために感受が起き、感受が起きたためにそれを経験し記憶していきます。
こういうふうに、記憶の束がどんどん増大していきます。
その記憶の束を『私』と呼んでいるのです。
この『私という中心』を私たちはとてつもなく大切なものと認識しています。
この『私』を守るために、なんと命まで捨てる人がいます。
生き恥をかくぐらいなら死を選ぶと言って死んだ人は歴史上数多いです。
しかし、この肉体が破れたからと言って、何もなくなるわけではありません。
肉体がなくなれば何もなくなるというのは、断見です。
仏陀は厳しく、断見と常見を持たないように説きました。
いくら、肉体が破れ死んだとしても、kammaによる形成力は五蘊を集めます。
それが輪廻転生というものです。
『我あり』という思い込みから解脱するまでは、迷いの『私という中心』が、身体と環境を形成し続けます。
それはちょうど、太陽の熱によって発生した水蒸気の渦が台風となるように、そしてその台風は、太陽の熱が水蒸気を作ることがなくなるまでは消滅しないように、『私という中心』からなるkammaは、私という中心である身体を形成し続けます。
しかし、それも、無明を滅することができれば、渇愛も滅し、身体を形成する素因がなくなり、解脱します。
台風が消滅すれば、青空が広がるようなものです。
ですから、永遠に続く霊魂という実体があるという常見も間違い、邪見です。
太陽の熱による水蒸気によって台風があるように、そしてそれがなくなれば台風がなくなるように、無明に縁って『私という中心』があるだけで、無明がなくなればなくなります。