(2019年11月にマニカナで石飛教授と話した私の投稿部分を載せます。抜粋なのでわかりにくいと思いますが)
さて、龍樹は、十二縁起につきまして次のように説いています。
一 無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)を自ら為し、その業によって迷いの領域(趣)に行く。
二 潜在的形成能力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る、そして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する。
三 名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。六入が生じてのち感官と対象への接触(触)が生ずる。
四 眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる。
五 色と識と眼との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生じる。
六 受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するときに四種の執著(取)を取る。
七 取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである。
八‐九 その生存はすなわち五つの構成要素(五蘊)である。
生存から<生>が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望―――これらは<生>から生ずる。このようにして、苦しみのあつまりが生ずるのである。
一〇 それ故に無知なる者は、生死流転の根本であるもろもろの形成作用(諸行)を形成するのである。それ故に無知なる者は【業を】つくる主体である。知者は真理を見るが故に【業をつくる主体では】ない。
一一 無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない。しかるに無明の滅することは、知によってかの【一二因縁の】修習(連続的念想)からくる。
一二 【一二因縁のもろもろの項目のうちで】、それぞれの前のものの滅することによって、それぞれの【後の】ものが生じない。このようにして、このたんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する。
ここで問題になるのは、名色と有と生 です。
上の文章であれば、有=生存=五蘊 となっています。
しかし、五蘊であれば、すでに名色があります。
また、生は「生まれること」ですから、ここにも五蘊の誕生があることになります。
私は、テーラワーダが教えていることにはどうしても納得ができないので独自で研究しています。
特に、テーラワーダ協会は、仏陀の教えの根本たる「dukkha」を「苦しみ」という意味ではない、と言っていること、そして、テーラワーダが盛んに喧伝する「sati」を「気づき」としていること、特にこれに関しては違うと思っています。
「dukkha」はまさしく「苦」であり、スマナサーラが言うような「苦ではなく虚しいという意味」とか「苦ではあるけど苦しみではない」とか「dukka=苦は、「不完全」「虚しい」「苦しみ」「無常」の4つの意味」とか、ころころ解釈が変わるものではなく、苦そのものでしょう。
「sati」も「気づき」ではなく「記憶」「憶念」または「憶念を保持すること」だと思っています。でないと、八正道の正念が7番目に来ることはないと思います。
さて、十二縁起ですが、これは本当に難解中の難解だと感じています。
これを本当に解き明かした人なんているのだろうか、というくらいです。
原始仏典でこれを詳しく解説しているのは、相応部経典「分別」ですが、この「分別」経典にとらわれるとどうしても矛盾が起きます。
十二縁起を解釈するときに最大の関門となるのは、(行)と(識)です。
古今の多くの解釈にあたってきましたが、今までのどの解釈でも矛盾が生じます。
私は今まで龍樹は研究していませんでしたが、龍樹の解釈にもあたって見ました。
龍樹の説くところでは
「行」につき
1、再生に導く三種の行為(業)
2、潜在的形成能力(行)
3、もろもろの形成されたもの(諸行)
の3つの意味を挙げており、バラバラです。
本当はどの意味なのでしょうか。
仏陀は成道の時に、十二縁起を繰り返し観じて、疑念がすべて消え去った、とあります。
「縁の滅を知ったので疑念がすべて消え去った」とあります。
無明が滅したために滅した「行」とは
1、再生に導く三種の行為(業)
2、潜在的形成能力(行)
3、もろもろの形成されたもの(諸行)
のどれなのでしょうか。
また、「無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない」「不生である」ということですが
無明が滅したとき、つまり四諦の理が明らかになったときでも、もろもろの形成されたものがなくなることはないと思います。
無明が滅した時に、もろもろの形成されたものが不生であると悟る、という意味であればわかりますが、そういうことでしょうか。
sati=念 に関しては、いま、全盛なのは『気づき』であり『マインドフルネス』ですね。
テーラワーダによると、すべての基本、根本にあるのが sati=念=気づき です。
気づきがすべてのところがあります。
もし、念=sati が『気づき』であるなら、八正道でも一番最初に来るものだと思います。
少なくとも、思や語や業の前に来てそれらをラベリングする『前提』であるはずです。
八正道だけでなく、三十七菩提分法すべてにおいて、念=sati を『気づき』でなく『真理の観念を選択して保持し臆念すること』と解釈するとすべてがつながりました。
これは今回の質問と関係ありませんからこの辺でおいておきます。
sati については、下のような説明もありましたので載せておきます。
http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/smrti.htm
dukkhaが苦しみではない、という言説は
ワールポラ・ラーフラの『ブッダが説いたこと』 (岩波文庫)
でも書いてありますので、テーラワーダではそういう解釈なのでしょう。
dukkhaが苦しみでないのであれば、四苦八苦をどのように説明するのでしょうか。
私はやはり、後世の比丘たちが仏陀の真意とかけ離れていったために、仏陀の真意の復興運動として大乗仏教が興ったと思っています。
輪廻、前世、来世については、私は否定してなく、あると思っています。 |
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確かに巷では、satiを『気づき』とする解釈や技法が溢れていますが、私は本当に歴史上の仏陀がsati=念 を『気づき』と言う意味で使ったかということに疑問を持っています。 |