今の仏教にないもの

 たき (153.193.67.30)  
ありがとうございます!
大変勉強になります。
最近法事がありお坊さんとお話しする機会がありました。
彼は海外に行ってボランティアをしたり、児童養護施設のようなものを作っていると言ってました。
それは良いことだと思ったのですが、それと同時にもう歳だしそれが面倒だ、でも仕事だから仕方ないとも言ってました。
私はお坊さんが全員善人だと思っていませんでしたがいざ目の当たりにすると何故だろうと思いました。
仏教の教えに従って仏教に帰依し、葬式で般若心経を読み遺族の悲しみに触れてきたはずの方がそのような行いを義務や仕事としてやっていると言ってしまうのでしょうか?
私は悟りに至る為に必要なことが分かりません。
瞑想にも種類があると思いますが、どれをやってもそれが何故釈迦の教えと関係してくるのでしょうか?
どちらかと言えば思考によって至る場所のように思えます。
そして、思考していないし理解もしていない、だからボロが出てしまうのかなと今は考えています。
結局瞑想や禅など修行を重ねても知能的な頭の良さが何より大切になってくるのであれば、現状の宗教界にも納得は行くのですが、そのような事を釈迦が考えてないとは思えません。
何故瞑想が悟りに繋がり必要な事と言われているのでしょうか?
お坊さんはお経を唱え、禅や瞑想に励んでいるイメージがありますが、それでも悟りに至れないのはただ毎日やっているだけだからなのでしょうか?

 

 

 

たきさん、おっしゃる通りですね。

私はその点、キリスト教は素晴らしいと思っているのです。

リアルでは、熱心なキリスト教者の中には、本当に他人のために祈ろうと思っている人たちがいます。

そして、行動に移す人もいます。

私だけかもしれませんが、リアルでもネットでも、仏教をしている人で人格的に素晴らしいと思える人がほとんどいないのです。

何故だろう、というのが、私が仏陀の真意を探求したいと思った理由の一つでもあります。

 

今思うのは、今の仏教には、仏陀の理法、仏陀の智慧がごっそり抜け落ちているのではないかと言うことです。

 

大乗仏教は、短い言葉(真言や念仏)を唱える派と、禅定至上主義の派が大部分となっています。

上座部仏教は、とにかくsati=気づき の技法が主体です。感覚をラベリングしていきます。

しかし、それが仏陀の理法、仏陀の智慧とどう関係があるのか、そこが曖昧なので、仏陀の理法と切り離された技法となっています。特に西洋では、全く仏陀の理法と関係なく、マインドフルネス瞑想として独立しています。

 

仏陀が『気づいておれ』と言ったのは、三明により、人間の真実を見たからです。

感覚に記憶の束が反応して連想し妄想し激流を作ってしまい、人間は苦の集積に押し流されているのだということをありありと見たからです。

一瞬一瞬気が付いてなければ、あっという間に激流に流されてしまうのが人間だからです。

 

最も根源的な仏陀の智慧と全く切り離した技法だけのものになっているのが、今の仏教だと考えています。

 

 

 

 たき (153.193.67.30)  
取り上げていただきありがとうございます。
確かに瞑想や禅など自体に興味があったり、実践してる人はいても何故それが必要なのかには興味を持たないし、疑問も持たない人がとても多いですよね。
これは義務教育や現代社会で育った弊害なのでしょうか?
教えられた事をやるだけで、それ自体に対して考えることをしないのはやって無いと同じとは言いませんがやらなくても変わらないと思います。
私は読書家だと言いながら数を重ねるだけでその本について考えない人達と同じように思えます。
ですが、考えてもなかなか答えが出ないのも事実です。
釈迦など至った人達はどのようにして答えを得たのか私はとても気になります。
思考と瞑想や禅、ヨガはどのようにして繋がっているのか、本人達に聞いてみたいものですね。