有尋有伺さん、こんばんは。
大変詳しいコメントありがとうございます。
とても深く掘り下げておられますね。
大変、参考になりました。
satiは、『憶念する』と『意識を向ける』の2つの意味があると言われていますね。
その通りだと思います。
そして、2つに思えても、元は『意識を対象に向け続ける』という意味というのは卓見でしょう。
四念処にしても、身⇒受⇒心⇒法 と考えた場合、
肉体があり、肉体の感覚があり、感覚に反応して思考がわき上がり、思考の蓄積によって観念が出来上がる という一連の流れがあります。
そして、受=感覚 に反応した思考は、快楽や嫌悪が接着剤となり次々と連想を生みいつの間にかストーリーに没頭しています。
ここには気づいていなければいけないのだと思います。
肉体そしてその感覚に紐づいた思考、自動的に反応して起こる思考ではなく、自分がこのような思考を起こすのだという主体的な念を出すこと。
これが、sati なのだと思えます。
その観点からもsatiを『意識を対象に向け続ける』と解釈するのは卓見だと思います。
『択法覚支』については、択法を三十七菩提分法の中の自分に合った法を選択するという意味に捉えられているのですね。
択法覚支は、
念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨
で、念の次に来ています。
私は七覚支の念覚支は、四念処だと思っています。
四念処は
身⇒受⇒心⇒法 です。
最後の『法』はよくある解説では諸法の法、すなわち外界の物質的存在としているものが多いです。
しかし、私は、
身⇒受⇒心⇒法 を
肉体があり、肉体の感覚があり、感覚に反応して思考がわき上がり、思考の蓄積によって観念が出来上がる
という一連の流れだと考えていますので
法は、観念・記憶と解釈しています。
ですから、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 というのは
身⇒受⇒心⇒法⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 となり
よって、択法の法も観念のことだと解釈しています。
私の心にある観念のほとんどは、生まれて無数の感覚の経験をして思考がわき上がり蓄積されたもの、ほとんどが受に基づいたものです。
苦受は嫌悪の感情を、楽受は愛着の感情を伴っています。
しかし、ほんの少し、仏陀の言葉を読んだりして得た真理の観念も存在しています。
択法とは、自分の心の中にある観念を選択していくことだと思っています。
受に基づいた、嫌悪や愛着の感情を伴った観念を捨てていき、真理の観念を選択して残していくことだと考えています。
三十七菩提分法の中核は、七覚支です。
五根・五力は概説のようなものだと思っています。
信⇒精進⇒念⇒定⇒慧 ですから
仏法僧への信を入り口にして
三十七菩提分法の中身の、精進⇒念⇒定 を修行して
慧に至る
という道筋を示したものだと考えています。
三十七菩提分法を修行して初めて慧が生じます。
その慧こそが、八正道の正見=正見解 だと思っています。
慧=正見解 が生じて初めて八正道の実践ができ
慧=正見解 が生じるまでは、私たちは顛倒妄想している邪見解しかなく
八正道が実践できません。
七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 ですが、言い換えると
四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒捨
と考えています。
三十七菩提分法のほとんどの項目が七覚支にあるというのが私の解釈です。
三十七菩提分法は七科ありますが、
五根・五力は、概説。
七覚支の中に四念処・四正勤・四神足が含まれますから
結局、
七覚支⇒八正道
が三十七菩提分法の中核だということになります。
四念処を徹底瞑想して初めて、顛倒妄想を180度転回して慧=正見解に至る。
その、慧=正見解 こそが、八正道の正見で
八正道とは、正見に基づいた思(思考)・語(言葉)・業(行為)・命(生活)であり日常生活の実践です。
精進(四正勤)からは高度なものになります。慧=正見解に基づいた、潜在意識の大掃除となります。
四正勤とは、自分の心の中にある善法(真理の観念)だけをピックアップして、悪法(受に紐づいた記憶・観念)を除去していくことです。
強烈な懺悔慚愧が生じなければ、潜在意識のdeleteはできません。
今までの仏教、禅にしても浄土教にしても、あるいは仏教以外のノンデュアリティなどにしても、初期仏教で重要視されていた懺悔慚愧が全くありません。
ですから、いくら悟ったつもりになっても、潜在意識に我塊は厳然としてあり、何の役にも立たない、かえって悟った自分という自我を強めるだけになっています。
その点、キリスト教や神道は、不完全ながらも懺悔や禊、祓などがありますから、素晴らしいと言えます。
増支部経典『簡潔経』は知りませんでした。
四無量心や四念処が出ていてとても重要な経典に思えます。
非常に勉強になります。
ありがとうございます。
全文をじっくり調べてからまた書き込みたいと思います。