十二縁起は、仏陀の理法の根本ながら、今まで解読されてきませんでした。
私は、今まで読んだ本で、納得できる解説は一つもありません。
そのほとんどが、仏典に書かれていることを無視して、自分勝手に解釈しているものばかりです。
よくある解説では、十二縁起全部が相依性だと書かれています。
縁起とはすべて相依性のことだと決めつけているからです。
しかし、相応部経典によると、識と名色の間にだけ相依性が成り立つのです。
その他は、原因と結果の一方向です。
仏典を全部無視して自分勝手に解釈することに何の意味があるのでしょうか。
それは、仏陀の説いた十二縁起では全くありません。
『仏陀の真意』には書きましたが、なぜ、識と名色の間にだけ相依性があるのかという理由は、長部経典の記述ではじめてわかります。
それがあるがために、識は結生識であり、そして六識でもあるのです。
繰り返しますが、仏典に書かれているように、識と名色の間にだけ相依性があります。
それ以外の項目には相依性はないのです。一方的な因果関係です。
十二縁起は一方的な因果関係でない、すべて相互依存関係にある、などというのは、
全くのデタラメです。
それは断言できます。
なぜ、デタラメだと断言できるのかというと、すべての項目が相依性を持つのであれば、無明が滅したから行が滅し、行が滅したから識が滅し・・・・ということにならないからです。
なぜかというと、無明が生じたから行が生じるとともに、行が生じたから無明が生じる、という相依性があるのであれば、無明を滅したところですべての滅にならないからです。
いつまた行が生じるかもしれず、そうなるとまた無明も生じることになってしまいます。
ですから、縁起は、そして十二縁起は、相依性などでは全くないということです。
仏典にあるように、例外的に、識と名色の間にだけ相依性があります。
仏典に書かれていることを無視して、勝手に自分の妄想で解釈するのは簡単です。
仏典に書かれていることを踏まえるから、十二縁起は非常に難解なのです。
仏陀は、苦の集積を残りなく滅するために、苦の根本原因を探求していったのです。
それが十二縁起です。
そのために、縁起の公式を使いました。
そして、苦の根本原因を無明と見極めたのです。
もし、無明と行が相依性をもつのであれば、無明が行の根本原因であると同時に、行が無明の原因にもなります。
そこで、十二縁起は破綻します。