koboyukiさん、こんばんは。
仏陀の教えは、仏陀の死後、特に仏教なるものが確立してから急速に変容します。
最古層の仏典と後世の仏典では明らかに違っており、正反対の言説も多くなります。
最古層の仏典の特徴としては、1つは、バラモン教やジャイナ教の用語を肯定的に頻繁に使っていることです。
仏陀を『バラモン』とか『ヴェーダの達人』とか呼んでいます。
もうひとつは、自己の確立を強調していることです。
『自己こそ自分の主である。自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。』と言っています。
それが後世になればなるほど、無我論が蔓延り、無我だから主体がない、とされるに至りました。
仏陀が言ったのは、五蘊非我であり、その理法を念じることによって『ととのえられた自己』を主体として確立できると言うことです。
後世の弟子たちは、バラモン教への優位性、独自性をどんどん強調することになり、バラモン教の全否定が仏教だとしていきました。
よって、自己の根源という本来の意味のアートマンをも否定していき、無我=アートマンはない という結論へと進んでいくのです。
仏陀は、アートマンがあるかないかは、『無記』=言わない としました。
そのような抽象論は涅槃に赴かず解脱に赴かないからです。
さて、ゴーディカの自殺をどう考えればいいのでしょうか。
ゴーディカは6回解脱に達しましたが退転します。
何故でしょうか。
それは、五蘊が仮合しているこの身体というものを持ち、感覚を持っているからです。
感覚を持っている限り、毎日毎時間毎分毎瞬、五官が感受し経験します。その経験が記憶となって蓄積されていきます。その記憶の束を『私』と呼んで生活しています。
そうしないと1日たりとも日常生活できないからです。
『私の名前』自体、記憶です。その記憶がなくなったら、自分の名前を自分だと認識できなくなったら日常生活など出来ないでしょう。
日常生活していると言うことは、その記憶の束を『私』と認識することなのです。
そして、その『私』が害されたり馬鹿にされたり無視されたりすると怒りがこみ上げてきます。
私という中心から出る想念の流れに巻き込まれていくのです。これが激流です。
いくら座禅をして印可を受けても、元の木阿弥どころかかえって人格が悪くなるケースが多いのは、そのような見性の体験すら記憶の束のひとつとなってしまい、自我を形成するからです。
座禅や瞑想をして数十分間だけはワンネスの境地に浸ることは出来るでしょうけど、日常生活に戻れば転落してしまう。
『私はいつも想念に気づいている。いつも目覚めている。』ということをいろいろな掲示板でアピールしていた人がいましたが、その人は普通の人よりずっとすぐ感情的になっていました。滑稽です。そういうものです。『悟った』とか『目覚めている』とか、ただのまやかしなのです。それを自分のブログ以外のいろいろなところに首を突っ込んであれこれ騒ぎ立てること自体、自らの承認欲求の飢えから来ているのだと全く気づいていないのです。
ゴーディカは、どんなに『私という中心』から離れ無量に達しても、感覚を持っている限りまた激流に巻き込まれて元の木阿弥になることを認識していました。それで無量に達したときに、感覚を断ってしまったのだと思います。
しかし、私はやはり、ゴーディカも、感覚を持ったままで、理法を念じて、揺るぎない無量に達してほしかったと思います。仏陀によればそれは可能であるからです。