ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。
――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。
――影がそのからだから離れないように。
仏陀は心が主と言っています。
そして、
人は生まれによってバラモンなのではない。kammaによってバラモンとなるのだ。
と言っています。
kammaとは、身・口・意の行ないのことで、想い・想いに基づく言葉・想いに基づく身体的行為のことです。つまり、想い、です。
想いが主であり因であり、現象や環境は従であり果です。
仏陀が説いた教えは、布団をかぶってバカヤローと叫ぶような気晴らしではありません。想いによって環境を一変させる法です。大乗仏典によく出てくる、一瞬のうちに仏国土に変じるという記述は、想いによって現象が一変することを表わしています。
想いが無量から発したものなら無量のものが引き寄せられてくるでしょう。
諸天善神・諸仏諸如来など存在のすべてがサポートしてくれるはずです。
想いは創造のエネルギーそのものです。
仏陀が激流と言ったのは、私たちはひとつの想念を出すとその想念から連想が次々と出てきてそのストーリーに巻き込まれていくからです。
想念と想念の間には快楽や嫌悪が膠のような接着剤の役目をしており、連想が止むときがありません。
まずは、その連想の流れを断つことが重要ではあります。しかし、その連想をなくしただけでは、ただの虚無です。
いまの仏教は著しく唯物論に堕してしまいました。
因果という言葉を物理的な原因結果だと考えている人がいかに多いか、です。
縁起という言葉も、物理的な原因結果の連鎖と思っています。
全く違います。
因果の因とは想い、果とは現象です。
縁起とは、苦の縁って起こる原因のことです。
ここを間違えたために、『すべて因果なのだから自由意思はない』とか『すべて縁起だから主体はない』などという妄説が仏教だと考えるようになってしまったのです。
仏陀ほど、自由や主体、自己の確立を説いた人はいないのに、後世の凡庸な頭の者が真逆な虚無論にしてしまいました。
仏教は、ぐったりと死んだものになってしまったのです。
無量からなる想いを出せば、無量の神々が全力で応援してくれるでしょう。
如来秘密神通之力は世界に遍満しています。