『天上天下唯我独尊』の本当の意味

『天上天下唯我独尊』と言う言葉は、仏陀が成道してから初めて遇ったウパカに対して答えたときの偈から来ています。

【われは一切勝者、一切知者である。
一切の法のために縛せられず、すべてを捨てて、渇愛尽きて解脱した。
みずから覚りて誰をか師といおう。
われには師もない。等しい者もない。
この世にはわれに比すべき者はない。
ただひとりなる正等覚者にして、清く涼やかなる涅槃を得たのである。】

この【この世にはわれに比すべき者はない】が
【天上天下唯我独尊】の伝説になったと見ています。

 

片山一良訳の『聖求経』ではこうあります。

【神々をふくむ世界において 私に比肩する者はなし】

【私は世界の阿羅漢ゆえに  私は無上の師ゆえに 

 独り正しき自覚者ゆえに  精涼者ゆえ寂滅者ゆえに】

 

この【神々をふくむ世界において 私に比肩する者はなし】の言葉が

まさしく【天上天下唯我独尊】の意味です。

 

強烈な、【独り正しき自覚者】の自覚です。

【正しき自覚者】とは、sammasambuddha(正自覚者)の訳です。

正しく(samma)四諦(catu-sacca)を自ら(sayam)覚っている者(buddha)と言う意味です。

 

歴史上の仏陀は、ウパカの『師は誰か』という質問への答えとして、

『私には師はなく等しい者もない。無上の悟りを開いたのだ。』と言ったのです。

そして後世、仏陀が生まれた直後に『天上天下唯我独尊』と宣言したという伝説ができていきます。

質問の答えとしての偈の一部だけを切り取って、生まれてすぐ『天下で唯、我だけが尊い』と宣言したことになりました。



ウパカとの対話には続きがあります。
ウパカが仏陀にこう問います。
『尊者よ、あなたは何によって、自ら一切勝者であると認めるのであるか?』

仏陀は
『もろもろの悪しき法に勝てるが故に
われは勝てる者と称するのである。
なんじ、もろもろの煩悩を滅ぼさば
われとおなじく勝者と称するがよい。』
と答えます。

仏陀の真意、そして仏陀の教えの本質は、
この仏陀が言った言葉にこそ現れており、
煩悩を滅すれば自分と同じ勝者なのだ、ということです。


天上天下唯我独尊】の意味は、長らく仏教者が悩む原因となりました。

生まれて初めて口にした言葉とされ、しかし、その意味通りに解釈すると『この世で俺が一番尊い』となります。

無我を説く仏教からは相容れない言葉なので、仏教者はその解釈に苦労し続けています。

 

そこで、【唯我独尊】の【我】とは大我のことで、宇宙に我とはひとつしかないと言ったという解釈が生まれました。

また、別に誰かと比べて自分が上とか言っているのではなく、自らの個性は自分だけのもので『みんな違ってみんないい』という金子みすゞの詩のような意味を言ったものだという解釈が生まれました。

 

いまは、この2つの解釈がほとんどですね。

 

しかし、ウパカに言った言葉から考えると、この言葉の本当の意味は、独り正しき自覚者を指したものなのです。

 

成道の時に仏陀は、自ら覚った法は、今まで説かれたことがない法で、完全な正自覚に導く無上なものであるという強烈な自覚があったということです。

 

そして、仏陀の法の全貌がわかるにつれ、それはまさしくその通りだと思えてきます。

 

 

仏陀が生まれた直後に『天上天下唯我独尊』と宣言したという伝説は、荒唐無稽のような気がしますが、しかし、成道直後にはじめて会ったウパカという人の質問に答えたものであることが基であれば、成道といういわば第二の誕生の直後に【この世にはわれに比すべき者はない】と語ったということが、誕生の直後に『天上天下唯我独尊』と語ったことになったことに納得できる感じです。

さらに言えば、『天上天下唯我独尊』の伝説では、釈尊は生まれてすぐ七歩歩んで『天上天下唯我独尊』と宣言したということです。

仏陀は成道のとき、『この法は説いても無駄だ』と考えますが、梵天勧請により『説こう』と決意します。

そして、法を伝えるために歩き出します。

歩き出してすぐ、道でウパカという人と会って質問されます。

その答えが【この世にはわれに比すべき者はない】です。

このことが象徴的に、生まれてすぐ七歩歩んで宣言したことになったのでしょう。