まず、簡単な質問から・・
【たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。】
これでは、摂取不捨にはなりませんよね?
これについてはどう思っていますか?
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逃げずに、ごまかさずに、答えてくださいね。
親鸞が根本経典としたのは大乗涅槃経ではなくて、大無量寿経などの浄土三部経ですね?
その大無量寿経に、『ただ五逆と誹謗正法とをば除く』と書いてますね?
五逆と誹謗正法は救わないということですよ。
これでは摂取不捨でないですね?
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親鸞が根本経典としたのは大乗涅槃経ではありません。
大無量寿経などの浄土三部経です。
しかも、浄土三部経の中で親鸞が最も重要視したのが大無量寿経ですよ。
その大無量寿経の中でも最重要なのが十八願ということは知ってますね?
その大無量寿経十八願に、『ただ五逆と誹謗正法とをば除く』と書いてますね?
五逆と誹謗正法は救わないということですよ。
これでは摂取不捨ではないですね?
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親鸞聖人は『教行信証』教巻の標挙に「大無量寿経 真実の教 浄土真宗」と書きましたね?
そして、大無量寿経を「まことにこれ如来興世の正説、奇特最勝の妙典、一乗究竟の極説」とまで言っています。
つまり、親鸞が究竟の極説としたのは、大乗涅槃経ではなく大無量寿経です。
ですから、大無量寿経のことを質問しています。
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一度も答えてないですよ。
逃げずに答えたらどうですか?
これだけ、人のスレッドに罵詈雑言の迷惑投稿しているのですから
そして、親鸞の教えを教えてやると言ってるのですから
ちゃんと教えたらどうですか?
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<<よく 考えなさい 道元 日蓮 全員が貪るように 読まれていた書>>
おかしなことを言いますね。
道元や日蓮が貪るように読んでいたから大乗涅槃経は大無量寿経より優れているのですか?
あなた、本当に、親鸞の教え、少しでもわかってますか?
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あなたは親鸞の教えが分かっているのですか?
親鸞聖人は『教行信証』教巻の標挙に「大無量寿経 真実の教 浄土真宗」と書きました。
それは知ってますよね?
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それならちゃんと答えてください。
親鸞が根本経典としたのは大乗涅槃経ではありません。
大無量寿経などの浄土三部経です。
しかも、浄土三部経の中で親鸞が最も重要視したのが大無量寿経ですよ。
その大無量寿経の中でも最重要なのが十八願ということは知ってますね?
その大無量寿経十八願に、『ただ五逆と誹謗正法とをば除く』と書いてますね?
五逆と誹謗正法は救わないということですよ。
これでは摂取不捨ではないですね?
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こんな簡単な質問にも答えられないとは思わなかった。
これは、親鸞が最も悩み苦しんだ問題の一つだし
彼は彼なりに解釈して解決している。
そのことも知らないのですか?
あれほど毎日大量投稿して親鸞の教えを宣伝しまくっていて、しかも浄土真宗の寺の息子であれば、こんな常識的なことは簡単に答えると思っていた。
私の本当の質問は、これに答えた後にあるのですが、これに答えてくれないとその質問にならないのですよ。
だから、この基本的な質問くらいは答えてもらえませんか?
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いま、必死でグーグルで調べているんだろうけど
親鸞の信者なら最低限知っている範疇のことなので恥ずかしいですよ。
迷惑ですからもう人のスレッドにアラシは止めてくれますか?
そんな嫌がらせをする暇があるのであれば、
あなたが信じる親鸞の教えをきちんと学びなさい。
あなたは親鸞の教えにあまりにも無知です。
親鸞の教えが最高でこれしかないと思うのであれば
親鸞の教えの最低限のことは学んでから書き込まないと
誰からも相手にされませんよ。
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【たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、
乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。】
親鸞は『たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし』と言ったらどうするか、と弟子の唯円に言いましたね。
唯円が一人も殺せない、と言うと
『これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。
わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし』
つまり、善であれ悪であれどのようなことであれ、宿業、業縁のなせるもので、阿弥陀仏の本願には影響せず、善であれ、悪であれ、本願ぼこりえあってもすべて救うのだと言いましたね。
また念仏しても、踊躍歓喜の心も起きないし浄土へ参りたい心も起きない、という唯円に対し
そう信じることができないのは、煩悩によるものだけれど、よく考えれば煩悩がある凡夫こそ救おうというのが阿弥陀仏の本願だ、そのような浄土に行きたい気持ちも起きないのが煩悩があって本願にかなうと言いました。
それであれば、阿弥陀仏を素直に信じることも過去世の業縁だし、信じないことも宿業、業縁のなせるものですね?
念仏を十念することも業縁だし、それができないのも業縁です。
信じることができないのも煩悩のせいでしょうし、業縁ですね。
とすれば、至心信楽できない凡夫も、十念することすらできない凡夫も、本願にかないますね。
それが絶対他力なのではないですか?
信じるものだけが救われるというのは、摂取不捨でなく、絶対他力でもないのではないのですか?
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<<これらはな 信後のことなんだね 信の一念 この時は 絶対なのよ>>
親鸞は言ってますよ。
『唯円、お前は私の言うことを信じるか?』
『もちろん、信じます。』
『それでは、人を千人殺してこい、そうすれば浄土に行ける、と言ったらどうだ?』
『それはできません。一人を殺す器量も私にはありません。』
『お前は、私を信じると言ったではないか?』『つまり、こういうことだ。人を千人殺すのも、一人も殺さないのも、過去の宿業、業縁による。善い心を持っているからとか悪い心を持っているからではない。すべては、過去の業縁で、殺す業縁がなければ殺さず、善い人でも殺す業縁があれば殺してしまう。すべては業縁によるもので、阿弥陀の本願を妨げるものではない。』
また、こうも言ってます。
『念仏を唱えても、歓喜の心も起きないし浄土に行きたい気持ちも一向に起きないのですが』
『唯円、お前もか。親鸞もそうなのだよ。しかし、よく考えたら、そう信じ切れないのも煩悩のせいだ。阿弥陀の本願はそのような煩悩にまみれた凡夫を救うことにあるのだから、歓喜の心が起った方が煩悩がなくなって阿弥陀の正客でなくなるようでこころもとない。』
あなたは、ほとんど親鸞のことを知らないし、深く読んでもないので、ここの根本問題が理解も出来ないでしょうが、親鸞の教えは、あなたが考えているような『信じれば救われる』というような単純なものではないのですよ。
業縁のために信じ切れない、煩悩のために浄土に行きたいとも思えない、親鸞に言われたことも実行できない人たちをも、阿弥陀の本願は救うという、あるいはそういう人たちこそ救うのだということで、あなたのごく表面的な理解を遙かに超えてますよ。
もう少し、親鸞のことを知っている人と話したいものです。
あなたは歎異抄も深く読んでなく、教行信証もほとんど読んでないでしょう。
もう少し親鸞を知ってくださいね。
でないと話になりません。
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はい。法然のときにすでに『本願ぼこり』は蔓延っていましたから。
『善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。』は親鸞の言葉だと思われていますが
実は法然が言った言葉です。
法然のときにすでに悪人正客、悪人正機の思想はありました。
親鸞は『本願ぼこりと誡めらるる人々も、煩悩不浄具足せられてこそ候げなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりという、いかなる悪がほこらぬにて候べきぞや。かえりて心幼きことか。』
といって
本願ぼこりによる悪行も本願にかなうと言っています。
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醍醐本『法然上人伝記』に
『善人なお以つて往生す、いわんや悪人おやの事。
私に云く。弥陀の本願は、自力を以て生死を離るべき方便有る善人の為におこし給はず。
極重の悪人、他の方便無き輩を哀みておこし給ふ。
しかれば菩薩賢聖も、これ付きて往生を求む、凡夫の善人も、この願に帰して往生を得、いわんや罪悪の凡夫もっともこの他力を憑むべしと云ふなり。』
とあります。
これにより、世間では、南無阿弥陀仏と唱えながら強盗したり、殺人するものも続出しました。
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『歎異抄』は蓮如が閲覧禁止にしたほど内容は生々しく内輪向けのもので
『教行信証』は経典の引用が多く対外的に自分の理論を展開した書ですから
摂取不捨はちりばめられていますが、本願ぼこりを肯定するようなものはなかったと思います
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はい。
法然は、阿弥陀仏という絶対のところから言っているのであって
しかしほとんどの衆生はそれがわからず、個々の自分からしか発想できないので
そういう悲劇が起きたのだと思います。
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確かに、遊女として売られていった貧しい農家の娘さんなどは
法然の言葉を涙ながらに聞いたようです。
法然は本当に優しい人でした。
泥棒に入ったときにたまたま法然の話を聞いて熱心な信者になった人がいましたが
その人は死ぬまで泥棒はやめられず続けていたと言います。
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それは、比叡山の僧侶が法然はけしからんと思って
法然のところに論争しに行った時の話でしょうね。
『お前の言うことはどの経典に書かれてあるのか、どこにも書かれてない。』というと
法然は善導の『観経疏』による、と答えたところ
僧は『そんなものは経典ではなく解説書に過ぎない』と反論したところ
法然は何も言わずに微笑んでいたということです。
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法然がなぜ反論せずに微笑んでいたか、というのは、私なりの考えがあり長くなりますから
また後で書きます。
まずはそのエピソードをよく出されているmicさんに聞いてみてください。
私の解釈はそのあとで。
この話には続きがあって、その僧は法然が黙って反論できなかったので勝ったと思い
自分のお寺に帰って得々と話したところ
そのお師匠さんから『法然という人は比叡山でも学識が第一と言われた人だ。お前などの及ぶところではない。』と言われてシュンとなったということです。
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考えは人それぞれでいいのではないですか?
他人の考えを無理やり自分の考えに従わせようとするのは間違いです。
あなたが親鸞の他力信心が自分に合っていると思うならそれで救われればいいではないですか。
私は何も邪魔しませんよ。
人それぞれ、自分が信じるところを進めばいいのです。
私は私で、大乗仏教をしてきて、大乗仏教では悟ったような気分になり救われたような気分にはなれるものの結局何も変わらないと思っているので
仏陀の真意を研究するために原始仏典を調べているだけで
それも自分の立てたスレッドの中だけで、投稿があればレスする形だけでしています。
誰かの投稿があればレスするだけですから、投稿数も少ないです。
自分のスレに時々自分の投稿をするだけなのに、何をそんなに大騒ぎしているのですか?
放っておいたらいいでしょう。
人のスレッドに連続投稿して嫌がらせする時間があれば、もう少し自分が信じる親鸞を学んだほうがいいですよ。
『唯除』も答えられないようでは、あなたは何も親鸞のことを知らないということです。