『仏陀の真意』第2章「仏陀の言葉の本当の意味」第9項『中道』

【中道】

 

初転法輪のときに、苦行の道でもなく快楽の道でもなく、中道を行く、と説かれます。このことから、中道とは、苦行と快楽の中間の道のことだと思う人が多いです。極端な禁欲生活でもなく、極端な快楽耽溺でもない、その中間のほどほど禁欲、ほどほど快楽で度を過ぎないことだろうという解釈です。

 

仏陀は、初転法輪のときにこう説きました。

 

なんじらは、まさに知るべきである。

世には二つの極端がある。出家の行者はそれを学んではならぬ。二つの極端とは何であろうか。

一つには、もろもろの欲に愛著することである。それは卑しく、凡夫のわざであって、聖ではない。益するところはない。

二つには、自ら苦しめることである。それは苦であって、聖ではない。益するところはない。

わたしはこの二つの極端を捨てて、中道を悟った。

それは、眼を開き、智を発し、寂静を得しめ、覚悟を与え、正覚に到らしめ、涅槃に赴かしめる。

すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つの正しい道が、それである。

 

 

中道は、眼を開き、智を発し、寂静を得しめ、覚悟を与え、正覚に到らしめ、涅槃に赴かしめる、と言います。

ほどほど快楽で度を過ぎないということだけで、智や正覚に達することはできませんから、そのような意味ではないことが分かります。

ここで説かれているように、中道とは、八正道のことなのです。

 

仏陀は出家前、王家の皇太子であり、極めて贅沢な生活をしていました。その宮殿では、召使いにさえ、当時貴重な食べ物であった米と肉が出された、とあります。

国王である父親の指示で、仏陀の住むところには女性のみをいさせました。

しかも、夏の住まいと冬の住まいと雨期の住まいは別々で、それぞれの季節で快適な場所に住んでいました。

生活のすべてが快楽に溢れていました。

ひとつの極端である快楽の道です。

 

出家後、仏陀は何年もの間、ひたすら苦行に邁進しました。

それは、息を止める止息行と凄まじい断食行でした。

どちらも、生存欲の滅を目指しています。

もうひとつの極端である苦行の道です。

 

しかし、他の誰もなしえないほど徹底的に苦行をしましたが、正覚に達することはできませんでした。

そこで、仏陀は智慧の道を行くことを決意します。

徹底的に理法を洞察し、自己の心を洞察する道です。

そこから生じる智慧に基づいて行く道です。

仏陀はその道を通って涅槃に到達します。

 

快楽の道も苦行の道もどちらも身体の道です。

身体の道を捨てて、智慧の道を行ったのです。

中道とは八正道、すなわち智慧の道なのです。