無思考型と徹底思考型

Satya (49.104.4.37)  

ショーシャンクさん、こんにちは。 シャンカラからラマナ・マハルシ、ヨガナンダまで、そして大祓祝詞、懺悔などの過去の私の遍歴修行が、ショーシャンクさんの歩みと似通ってます。 仏教に関しては、随分と昔(一元論の学び以前)にゴエンカ氏のヴィパッサナーの10日間リトリートに参加したのが最初で、それ以降ティク・ナット・ハン氏の比叡山リトリートに参加、その他諸々の歩みがありました。 ショーシャンクさんの書き込みは、MANIKANAのHPで拝見したのが最初でしたが、見ている方向がほぼ似ていることもあり(株とか経済・経営に関しては、まったく足元にも及びません。)、ブログの書き込みを眺めるのが楽しみになってます。 たーぼさんの書き込みは、以前Noboruさんの(精神世界・瞑想・気功の)HPの掲示板で見たことがあったように思います。(違ったかな。。。) 先ほど調べてみると、以前の(精神世界・瞑想・気功の)HPは無くなっており、はてなのブログからツイッターに移行、そのツイッターも2019年10月以降の書き込みがないようです。 私もはてなのブログを長い間使ってましたが、2017~2019年までのブログをある事情から消去しました。 仏教の正法の期間が500年だったのは、女性を弟子にしたからだと述べる方がおられますが、一理あるように思います。
 
 
Satyaさん、こんにちは。
私は、歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)の教えがねじ曲ってしまったのは、仏陀の死後500年後ではなく、滅度の直後からだと思います。
弟子たちというのは、どうしても自分の師匠が一番偉くて、他の教えとは全く違った優れた教えだとアピールするものです。そのような排他主義がそれまでのインドの豊穣な土壌であったバラモン教の全否定となっていって仏陀の教えからバラモン教的なものを徹底的に排除していったと考えます。
また、仏陀は、出家してすぐアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタのところに行って無思考型の瞑想を教わりますが、師の境地にやすやすと到達した後『これは涅槃に至る道ではない』と去って行き、苦行の後に、十二縁起の瞑想などを繰り返して成道します。
このエピソードを見ても、仏陀は無思考型の瞑想では涅槃までは至らないと考えていたことは明白です。しかし、後世の仏教では、十二縁起を瞑想するなどの徹底思考型の瞑想ではなく、思考をなくしていくものだったり思考に『気づく』ものだったりばかりが盛んになっていきました。
仏教が成立した時点から、仏陀が本当に説きたかった教えとはかけ離れていったと思います。
 
四諦や十二縁起や三十七菩提分法を解き明かしていくと、仏陀の本質は徹底思考型の瞑想であると私は確信するに至りました。
 
satiも、今言われているような『気づき』ではなく、『理法を記憶して心に留めておくこと』『憶念』のことだと思っています。
 
そして、七覚支の『択法』とは、法=観念 を選ぶことだと思います。
これらの解釈はテーラワーダ協会とは全く違う解釈ですので賛同する人は多分一人もいないでしょうけど。
 
そして『筏』とは、仏陀の説いた理法のことで、それは彼岸に至る筏であって渡れば捨てなければならないものです。
仏陀の説いた理法も観念にしか過ぎなく、無量心に達することができれば不必要で捨て去るべきものなのでしょう。
このような筏を残してくれたことに本当に感謝します。
 
私はまだ無量に達していないので、この筏で達することができたときに自費出版しようと思っています。記憶の束をdeleteする作業が膨大で、まだまだ先でしょうけど。
 
 
 
 
 
Satya (49.104.35.158)  
ショーシャンクさん、こんにちは。 本人の記憶の束のdeleteは自分に智慧が生じればOKです。 智慧が生じるまでは、功徳をコツコツ積むことによるヴァーサナーの弱体化がいいように思います。
 
 
Satyaさん、こんにちは。
従来の仏教の考え方では、無思考になれば本来の智慧が輝き出るというように思われていますが、私は、智慧は徹底思考型の瞑想、例えば三十七菩提分法をしてその過程で記憶の束をdelete(慚愧懺悔)していって初めて現れるように思っています。
智慧とは無量感のことかもしれないと思っています。その無量感に基づいた見方、思考、言葉、行動、生活、四正勤、記憶保持、観念集中、が八正道のように思います。
これは私が考えているだけですが。