『念処経』に見る一乗道

中部経典『念処経』にこうあります。

『この道は、もろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目の当たり見るための一道です。それは四念処です。』

 

ここは、長部経典『大念処経』も全く同じです。

 

ekayanoは、一道、唯一の道です。一乗道です。

 

さて、大蔵出版のパーリ仏典(片山一良訳)の補注に重要なことが書かれています。

 

『なぜ、世尊はこの経を説かれたか。クルの住民は深甚の教えを理解できたからである。伝えによれば、クルに住む比丘、比丘尼、男性在家信者、女性在家信者は、その国が季節や資具に恵まれていたため、つねに身心が健全であった。そのため、理解力があり、世尊はこれをご覧になって念処経を語られた。』

『また、この地方では、四衆(比丘、比丘尼、男性在家信者、女性在家信者)がごく普通に念処の実践に励み住んでいた。たとえ奴隷・雑役夫・従者であっても、念処に関する話のみを語った。』

 

つまり、釈尊は、涅槃に至る一乗道の四念処を、比丘だけでなく、比丘、比丘尼、男性在家信者、女性在家信者すべてに語ったということです。

それも、奴隷・雑役夫・従者であっても、釈尊が語られた四念処を実践していたということです。

 

原始仏教が出家至上主義で出家でないと悟れない、涅槃に至らない、というイメージは間違いなのです。

上座部仏教などの部派仏教の時代になって、出家は涅槃を目指し、在家は出家に布施をして功徳を積んでいいところに生まれることを願う、というような風潮になったのかもしれませんが、仏陀の在世中には、奴隷・雑役夫であっても涅槃に至る一乗道を実践していたと言うことです。