刹那滅とは

  [No.23115] 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:pocket  投稿日:2021/10/28(Thu) 10:45:49

ショ-シャンクさま、石飛先生

非常に本質的かつエキサティングな対話がなされていて、大変興奮しています。
横入りをお許しください

> > > もう、ここで、縁起からはずれてきましたね。「石飛が主張している」と見るなら、ブッダの教えをはずれてきています。法性などは、縁起したものを、語っているのです。
> >
> > 無常と言うことを法則として、その法則が常住、不変、永遠だということですか。
>
> このあたりに来ると、どうも、
ショ-シャンクさまは、ことばにとらわれてくるようだと思います。「法則」ということばに、強い思い入れがあるのかな、と思います。
> これも「ダンマ(法)」ではあります。
> 「諸行」もダンマと言われ、「無常」もダンマと言われます。そして、「諸行無常」もダンマです。そして、ダンマは無我と教えられます。「諸法無我」ですね。
>
> そうなると、諸行無常がダンマなら、そこに無我という教えもあるわけだから、このダンマのあり方は、いつも定まっているなあと気づくこともあるでしょう。
>
> たとえば、「生まれることに縁って死ぬことがある」という縁起について、ブッダは、「如来が出現してもしなくても、その領域(界、ダ-トゥ)は『法として決定していること(ダンマ・ニヤマタ-)』である」と述べました。
>
> 「~タ-」とあると、抽象化する名詞なのですから、法(ダンマ)のあり方を説いていることになります。

ここは詩偈だけではなく、石飛先生も龍樹真撰と認めておられる(私も真撰だと思っています)『無畏論』を参照するのが筋ではないでしょうか。
龍樹は何が「不生不滅で涅槃の如し」と言ったか?

sems kyi spyod yul gzugs la sogs pa dag ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs
「心の境である色等は不生不滅の法性であって涅槃と等しい」

don dam par dngos po thams cad ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs pa yin na
「勝義としては一切有は不生不滅の法性であって涅槃と等しいならば」

『無畏論』を参照する限り、龍樹の意図は、「法のあり方」が不生不滅と言いたかったのではなく、『般若経典』に基づいて、色などの「一切有」が不生不滅と言いたかったことになります。(『般若心経』はもっと進んでサルヴァ・ダルマ-(一切法)が不生不滅だと言っていますが)

詩偈という形式の制約上、分かりにくいですが、『無畏論』に依る限り、
anutpannAniruddhA hi nirvANam iva dharmatA
というのは、「涅槃の如く、不生不滅の法性である」と読むのが正しい読みだと思います。

【2021/10/28(Thu) 11:09:46 投稿者により修正されました。】

 

 

  [No.23116] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/28(Thu) 11:13:22

pocketさん、ありがとうございます。

> sems kyi spyod yul gzugs la sogs pa dag ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs
> 「心の境である色等は不生不滅の法性であって涅槃と等しい」
>
> don dam par dngos po thams cad ma skyes pa dang ma 'gags pa'i chos nyid mya ngan las 'das pa dang mtshungs pa yin na
> 「勝義としては一切有は不生不滅の法性であって涅槃と等しいならば」
>
> 『無畏論』を参照する限り、龍樹の意図は、「法のあり方」が不生不滅と言いたかったのではなく、『般若経典』に基づいて、色などの一切有は不生不滅と言いたかったことになります。(『般若心経』はもっと進んでサルヴァ・ダルマ(一切法)が不生不滅だと言っていますが)
>
> 詩偈という形式の制約上、分かりにくいですが、『無畏論』に依る限り、
> anutpannAniruddhA hi nirvANam iva dharmatA
> というのは、「涅槃の如く、不生不滅の法性である」と読むのが正しい読みだと思います。


ここのところを教えていただきたいのですが、
「心の境である色等は不生不滅の法性であって涅槃と等しい」という言葉は、
仏陀の『色等は、生じたもので滅するものである』という理法と正反対のように思えるのですが、
どういう意味なのでしょうか。

 

 

  [No.23118] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:pocket  投稿日:2021/10/28(Thu) 12:51:56

ショ-シャンクさま

> 仏陀の『色等は、生じたもので滅するものである』という理法と正反対のように思えるのですが、
> どういう意味なのでしょうか。

これは私の解釈であるという事を最初にお断りしておきますが、
刹那滅であって一瞬の間に生滅するので、もはや「色が生じた」とも「色が滅した」とも言えない、色という概念が成り立たないので不生不滅というのであろうと、今の私は解釈しています。

なぜかというと、龍樹の『宝行王正論』4:86に以下のようにあるからです。


> anutpAdo mahAyAne pareSAM zUnyatA kSayaH |
> kSayAnutpAdAyoz caikyam arthataM kSamyatAM yataH ||
> 空性は、大乗においては「不生」であり、他の者たち(部派)においては「滅(クシャヤ)」である。「滅(クシャヤ)」と「不生」は同じ意味である。それゆえ(大乗を)認めなさい。


不生(生じないこと)と滅(尽きること)は同じ意味というのは、よく分からないのですが、アジタミトラ註によると、滅(クシャヤ)とは刹那滅(クシャナ・バンガ)のことと注釈されているので、不生=刹那滅ということになります。


> skye ba med pa dang skad cig ma la don gyi khyad par 'ga' yang med do/ /ji ltar zhe na/ theg pa che las skye med ces bya ba la sogs pa gang smos te/ skye pa med pa ni stong pa nyid do/ /gzhan dag ni zad pa ste/ bskal par gnas pa ma grub pa kho na'o snyam du dgongs pa yin no/
> 不生と刹那滅(クシャナ・バンガ)は、意味の違いがまったく無い。どのようにしてか、と問うならば、(『宝行王正論』に)『大乗においては不生である』云々と述べる時に、(そこで言う)『不生』とは空性である。『他の者たち(部派)は滅(クシャヤ)である』〔とあっ〕て、「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。


このようなわけで、一瞬のうちに生滅変化するのだから色という概念すら成り立たない、という意味で「色は生じることなく滅することもない」というのだろうと思っています。

【2021/10/28(Thu) 13:07:05 投稿者により修正されました。】

 

 

  [No.23119] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/28(Thu) 15:40:22

pocketさん、ありがとうございます。

> 刹那滅であって一瞬の間に生滅するので、もはや「色が生じた」とも「色が滅した」とも言えない、色という概念が成り立たないので不生不滅というのであろうと、今の私は解釈しています。
>
> なぜかというと、龍樹の『宝行王正論』4:86に以下のようにあるからです。
>
>
> > anutpAdo mahAyAne pareSAM zUnyatA kSayaH |
> > kSayAnutpAdAyoz caikyam arthataM kSamyatAM yataH ||
> > 空性は、大乗においては「不生」であり、他の者たち(部派)においては「滅(クシャヤ)」である。「滅(クシャヤ)」と「不生」は同じ意味である。それゆえ(大乗を)認めなさい。
>
>
> 不生(生じないこと)と滅(尽きること)は同じ意味というのは、よく分からないのですが、アジタミトラ註によると、滅(クシャヤ)とは刹那滅(クシャナ・バンガ)のことと注釈されているので、不生=刹那滅ということになります。
>
>
> > skye ba med pa dang skad cig ma la don gyi khyad par 'ga' yang med do/ /ji ltar zhe na/ theg pa che las skye med ces bya ba la sogs pa gang smos te/ skye pa med pa ni stong pa nyid do/ /gzhan dag ni zad pa ste/ bskal par gnas pa ma grub pa kho na'o snyam du dgongs pa yin no/
> > 不生と刹那滅(クシャナ・バンガ)は、意味の違いがまったく無い。どのようにしてか、と問うならば、(『宝行王正論』に)『大乗においては不生である』云々と述べる時に、(そこで言う)『不生』とは空性である。『他の者たち(部派)は滅(クシャヤ)である』〔とあっ〕て、「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。
>
>
> このようなわけで、一瞬のうちに生滅変化するのだから色という概念すら成り立たない、という意味で「色は生じることなく滅することもない」というのだろうと思っています。



刹那滅の考えは、確か、部派、特に説一切有部において、無我説と因果説を両立させるべく、刹那滅の心の相続という理論が始まりだと思います。
心でなく、色についても刹那滅と考えるのですね。

色の場合、刹那で滅した後、すぐに同じ形態で生じるわけですよね。
この場合、色を前と同じ形態で生じさせる因は何になりますか?


> 空性は、大乗においては「不生」であり、他の者たち(部派)においては「滅(クシャヤ)」である。「滅(クシャヤ)」と「不生」は同じ意味である。それゆえ(大乗を)認めなさい。

ここは、わからないではないのです。間違っているかもしれませんが。
原始仏教においては、生じ滅することが尽きたとき寂滅となりそれをもって安らぎ(涅槃)、つまり不生なるものとするので、不生も滅も空性であるという言葉は理解できる気がします。


> 刹那滅であって一瞬の間に生滅するので、もはや「色が生じた」とも「色が滅した」とも言えない、色という概念が成り立たないので不生不滅というのであろうと、今の私は解釈しています。

とおっしゃっているということは、
心が刹那滅だから、ということでしょうか。
それとも、色が刹那滅だから、ということでしょうか。

 

 

 

  [No.23127] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/29(Fri) 10:36:38



> > > skye ba med pa dang skad cig ma la don gyi khyad par 'ga' yang med do/ /ji ltar zhe na/ theg pa che las skye med ces bya ba la sogs pa gang smos te/ skye pa med pa ni stong pa nyid do/ /gzhan dag ni zad pa ste/ bskal par gnas pa ma grub pa kho na'o snyam du dgongs pa yin no/
> > > 不生と刹那滅(クシャナ・バンガ)は、意味の違いがまったく無い。どのようにしてか、と問うならば、(『宝行王正論』に)『大乗においては不生である』云々と述べる時に、(そこで言う)『不生』とは空性である。『他の者たち(部派)は滅(クシャヤ)である』〔とあっ〕て、「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。
>
> この説明では、空性を使っていますね。 また、密意にとったところがさすがですね。
>
> > 「一時(の間)も住することが成立しない」(刹那滅)という密意である。
>
> ここは、実は、刹那滅というのが、厳密に言うと、矛盾(パラドックス)を引き起こしているとも言えるのですが、そういわないところが、仏教ですねぇ。ゼノンのパラドックスなどで扱われているものです。西洋論理では、パラドックスとして扱いますので。



そういえば、中学生の頃、アキレスと亀のことを知って得意になって言いふらしていたことがあります。

確かに刹那滅の考えは、それに似たところがありますね。

そもそも刹那滅は仏陀が言ったことではありません。

仏陀の死後、仏陀が言った諸法非我を諸法無我としてしまったため、『無我であるならば、因果の法で果を受ける主体がなくなってしまう』という矛盾を抱えてしまいました。
果を受ける存続する我を考えると、無我でなくなるからです。
そして考えに考えた末に説一切有部が生み出したのが刹那滅です。
心は刹那に滅するけど、すぐに生じて、また刹那に滅することを繰り返していて、連続しているように思えるけど、連続しておらず、業が相続されるだけ、という理論ですね。

かなり苦しい理論だとは思いますが、それでも、心の刹那滅はわからないでもないのです。
思考は、連続しているようで連続してないからです。
五官の感覚により生じ滅するからです。

しかし、それが、色の刹那滅となると、非常に疑問がわいてきます。
ですから私は
『色の場合、刹那で滅した後、すぐに同じ形態で生じるわけですよね。
この場合、色を前と同じ形態で生じさせる因は何になりますか?』
とお聞きしたのです。

 

 

 

  [No.23134] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/30(Sat) 08:13:19


> > 仏陀の死後、仏陀が言った諸法非我を諸法無我としてしまったため、『無我であるならば、因果の法で果を受ける主体がなくなってしまう』という矛盾を抱えてしまいました。
> > 果を受ける存続する我を考えると、無我でなくなるからです。
>
> これ、よくある解説ですよね。矛盾を抱えていたのではないです。ブッダは縁起によって説明していますから。縁起を説けば、必然的に無我に行き、中道が出てきます。


たぶん、ここが先生と私の違いなのでしょう。
私は、仏陀が言った縁起とは十二縁起を代表とする、苦の縁って起こる原因という意味だと考えています。
縁起を世界のありようにまで拡大したのは龍樹です。縁起⇒無我⇒中道となるのでしょうけど、私はそうは取りません。
無我というのは非我、一切の形成されたものを厭離したあとの形成されざるものについては無記、と考えています。
中道とは八正道のことだと考えていて、すべての両極端の中を取るという意味には取りません。

>
> 有と無のどちらかに偏ると、矛盾を抱えてくるのです。「無我」は、アナ-トマンという語です。正確には、「我ならざるもの」と言ったのです。諸法は我ならざるものである、言い、その意味を三つに分けて語りました。
>
> それは無我相経ほか、いろいろな経典に載っています。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/anattalakkhana.html
>
> 無常であり、苦である変化するもの(法)について、
> <これは、わたしのものである>
> <これは、わたしである(わたしは、これである)>
> <これは、わたしの本体(自己、attan)である>
> と見ることは、適当だろうか」
> 「適当ではありません、尊師よ」
>
> この三つが、ブッダの説いたことで、無我は、この三つの考え方を取らないことです。

はい。その通りだと思います。
しかし、これでは無我ではなく、非我ではないですか?
無常であり苦であるものを私、私のもの、私の本体としていいだろうか。
無常であり苦であるものは、私、私のもの、私の本体ではない、と見るのですから非我だと思います。



> > そして考えに考えた末に説一切有部が生み出したのが刹那滅です。
>
> いや、もともと刹那滅に行く要素はあったのではないかと思いますが、どうなんだろう。

たぶん最初に唱えたのは、説一切有部のような気がしますが。


> > 心は刹那に滅するけど、すぐに生じて、また刹那に滅することを繰り返していて、連続しているように思えるけど、連続しておらず、業が相続されるだけ、という理論ですね。
>
> パラパラマンガの説明が模式的によく使われます。法有を取ると矛盾するんですよね。
> だから、空を説かなくてはならなくなるけど、それが説けないわけですね、説一切有部ですから。
>
> > かなり苦しい理論だとは思いますが、それでも、心の刹那滅はわからないでもないのです。
> > 思考は、連続しているようで連続してないからです。
> > 五官の感覚により生じ滅するからです。
> >
> > しかし、それが、色の刹那滅となると、非常に疑問がわいてきます。
> > ですから私は
> > 『色の場合、刹那で滅した後、すぐに同じ形態で生じるわけですよね。
> > この場合、色を前と同じ形態で生じさせる因は何になりますか?』
> > とお聞きしたのです。
>
>
> 色の場合といっても、龍樹の『無畏論』においては、心の領域(チッタ・ゴ-チャラ)を述べていることがはっきりしています。心の対象としての色などについて語っています。
> 実在論をとっていないことに気をつけてください。(これは、ブッダから来ています))
> 認識されるものについて述べていると見てください。(これも、ブッダ以来同じです)
>
> 言い表されるべきものは消滅し、心の領域は消滅してしまう。法性というのは、
> 涅槃のごとくに、生じもしなければ滅しもしないことをいうのである。 (『中論頌』18.7)
>
> 先ほどの『中論頌』18.7を、少し変化させてみました。「ことをいう」を補ってみましたが、どうなのかな。もう少し考えてみます。
>
> 「心の領域」とあって、その対象が色などの法であることははっきりしているのだけれど、そう書いてしまうと、滅してしまうものについてあれこれ書くことになって問題の焦点がぼけると思ったかもしれませんね。
>
> 説一切有部の思想だと思いますが、龍樹は、『廻諍論』の中で非難しています。
> たいへんだったと思います、龍樹は。
> 仏教の中にも実在論的な法有を説く者がいるし、非仏教の中には、ごりごりの実在論者たち(ヴァイシェ-シカ、ニヤ-ヤ)がいます。また、ちょっと見た目はわからなくても、サ-ンキヤのような転変説を説く者たちもいる、といったように、ふつうなら仏教は存続するなんて夢のまた夢だったと思いますが、よく生き残ったものだと思います。
> 心清浄と智慧の宗教ですね。


つまり、色の刹那滅を言ったのではなく、あくまでも、心の刹那滅を言ったということですね。

 

 

 

  [No.23137] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/30(Sat) 10:03:54


> ふうむ、無為については無記ということですか。
> 『ウダ-ナヴァルガ』26.23-25の中で、安楽の境地(涅槃)をうたっています。
>
> 23 それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。
> 24 そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、私はよく知っている。
> 25 来るもとも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することもない。―― それが苦しみの終滅であると説かれる。
>
> さらに、まだ続きますが、このように無記ではなく、語っています。


一切のつくられたものがなくなったところが安楽である、というようには説いています。
一切が滅したところを寂静、苦の終焉として説いています。
あくまでも『何もなくなったところ』というように説いています。
ですから、後世、仏教は虚無論だとか、死んだら何もなくなるのが仏教だとか、何もない状態が仏教の理想の境地とか、勘違いされることが多くあります。
大乗仏典のように、悟りの世界をきらびやかな世界として説くことはありませんでしたし、それどころか、如来が死後存続するのかどうかについては無記としました。
如来の悟りの境地が死後も続くものかどうかさえ、説かなかったということです。
ただ、おっしゃるように、ところどころで、『無為はあるのだよ』というようなことは説いています。
ここは、断見にならないためには重要な言説だと思っています。




>
> > 中道とは八正道のことだと考えていて、すべての両極端の中を取るという意味には取りません。
>
> そんなこと言われても、ブッダ自身が説いているのですが。。
>
> 如来所説経
http://manikana.la.coocan.jp/canon/tathagata.html
>
> 中道は、八正道だとあります。

もちろん、そうです。
ですから、中道とは八正道のことだと私は言っています。
快楽と苦行という両極端を捨てて八正道という中道を歩む、ということです。
それを、後世では、快楽と苦行だけではなく、なんでもかんでも、すべての両極端に関して当てはめて中道だ、というようになりました。
仏陀の使った意味からするとかなり拡大解釈だと思っています。


> > > 無常であり、苦である変化するもの(法)について、
> > > <これは、わたしのものである>
> > > <これは、わたしである(わたしは、これである)>
> > > <これは、わたしの本体(自己、attan)である>
> > > と見ることは、適当だろうか」
> > > 「適当ではありません、尊師よ」
> > >
> > > この三つが、ブッダの説いたことで、無我は、この三つの考え方を取らないことです。
> >
> > はい。その通りだと思います。
> > しかし、これでは無我ではなく、非我ではないですか?
> > 無常であり苦であるものを私、私のもの、私の本体としていいだろうか。
> > 無常であり苦であるものは、私、私のもの、私の本体ではない、と見るのですから非我だと思います。
>
> 無常であり苦であり変化するものは、作られたものです。それすべてにわたって言えます。
> 一切について、<これはわたしではない>などが言えるなら、どこにも「わたし」はない、と知るでしょう。非我と無我は、結局は、同じことになると思います。個々に気をつけるか、最終的にまとめて言うか、という違いになるだけであって、徹底すれば、非我も無我も一つでしょう。
> そうなると、最後に「わたし」という語も消えていくでしょう。


無我というのは、我(ア-トマン)がない、存続する主体がない、ということです。
ア-トマンとは存在の根源のことです。
根源に関しては、仏陀は言及を避け無記としました。
無記と『無い』は違います。
存続する主体が無いとなると、断見に陥ってしまいます。
有るとすると、今度は、永続する霊魂のようなものを想定してしまいます。常見です。
ですから無記なのでしょう。

『わたし』という限定されたものが消えていくのは、無我も非我も同じですが。

 

 

  [No.23141] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/31(Sun) 07:33:59


それでは、仏陀の言ったことへの私の考えをまとめてみます。

それまでのバラモン教では、ア-トマン、ブラフマンを中心に説いていました。
ア-トマンは人間存在の根源、ブラフマンは万物の根源です。
ヤ-ジュニャヴァルキヤが現れ、ア-トマンは主体であり対象物ではないから『非ず、非ず』としか言えないと言いました。

そして、仏陀が現れ、苦の苦の消滅を説きました。
苦の消滅、すなわち解脱、涅槃に赴かないものは無記としました。
仏陀は、苦と苦の消滅のみを説いてきたのであり、矢を抜く最上の人であったからです。
一切は苦である、と言いました。
その一切を厭離した後、如来が存続するのは永遠なのか、については無記でした。
ひたすら、一切を厭離すると、苦の消滅の境地があると言ったのです。
苦の消滅の境地を涅槃ともいい、寂静ともいい、無為とも言いました。
ほれ、涅槃を説いているではないか、無為を説いているではないか、無記ではないだろう、と言われればそうですが
涅槃が永遠だとか、無為の世界は死後も存続するのか、などはあくまでも無記であり、それにつき説くことはしませんでした。
一切を厭離し解脱したら、苦の消滅の境地がある、といっただけです。

仏陀は、存在の根源つまりア-トマン、ブラフマンに関しても、無記でした。
仏陀が言ったのは、『無常であり苦であるものを私、私のもの、私の本体としていいだろうか』ということです。
私の本体が無いと言っているわけではなく、無常であり苦であるもの、つまり一切のつくられたものは私の本体ではない、と言っているのです。
つまり、諸法非我です。

これを、無我、という言葉にしてしまったために、我がない、ア-トマンが無い、主体が無い、ということになってしまいました。
無我説です。
しかし、存続する主体が無いのであれば、因果の果を受ける主体がないことになり、因果説が崩壊してしまいます。
そこで、心の刹那滅という、かなり苦しい理論が生み出されました。

仏教は、後世になればなるほど、バラモン教なるものを徹底的に排斥していきます。
最古層のスッタニパ-タでは、仏陀を『バラモン』とか『ヴェ-ダの達人』と呼んでいるのに、後世にはそのような呼称は全くなくなります。
仏教とバラモン教との違いが極端に強調されていきます。
その中で、無我説、仏教はア-トマンは無いと説き、バラモン教はア-トマンを認める外道だ、となります。

私は、仏陀は『わたしの本体』については無記だったと考えています。
ただ『無常で苦なるものはわたしの本体ではない』と言っただけです。


中道については、次の投稿にします。

 

 

 

  [No.23142] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/31(Sun) 07:58:30

続きます。
中道についてですが。

仏陀は、中道とは八正道のことである、と言いました。

快楽の道と苦行の道という両極端を取らず、中道たる八正道を行く、としました。

ここで苦行というのは、食を断つ断食行と息をしない止息行です。
つまり生命の否定です。生存の否定です。
生存欲に没頭する快楽の道と、生存欲を否定する苦行の道の両極端です。
この身体の生存の肯定否定の道によらず
智慧の道たる八正道による、としたのが中道の意味だと私は考えています。

有無については、
『生じているものであるから「無」とは言えない。滅するものであるから「有」とは言えない。』というほどの意味で、
有と無の中を取る、つまり生じたものは滅するということだと思っています。
確か、この中では十二縁起が説かれて八正道は説かれていません。

私は、仏陀がはっきりと中道として八正道を説いたのは、快楽と苦行の道の時だったと思っています。

それを、すべての二元対立する言葉に対して当てはめるのは拡大解釈だと思っています。

煩悩と菩提についても当てはめて解釈し、煩悩を滅するのではなく、煩悩即菩提だとなっていきました。
仏陀ははっきりと煩悩の滅によって解脱したと言っているのにもかかわらず。


 

 

  [No.23152] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/01(Mon) 07:37:24


私は、仏陀を教養としたいと思ったことは一度もありません。
歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのか、何を言ったのか、を知りたいと思っているのです。

もちろん、その言葉は、すでに原始仏典として残されています。

しかし、今の仏教解説書が言うような意味で仏陀は言っているのか、と思って探求しています。

その結果、愕然としました。

仏陀は、今の巷の仏教解説書や仏教者が言っている意味で、語っていないことに愕然としたのです。
真逆な意味であることもしばしばなのです。

例えば、
『縁起』・・・先生はことあるごとに『これも縁起です』と言います。
しかし、仏陀が『縁起』というとき、十二縁起を代表とする苦の縁って起こる原因のことを指しています。
先生がいわれるような『これも縁起です』というような使い方をしている箇所は一か所もありません。
今の日本仏教では、『縁起』は龍樹から始まった『縁起』の意味で使っています。
仏陀が何故縁起の公式を使ったのか、それに思い至って、今の仏教の解釈とは全然違うことを仏陀は言ったのだという確信が生まれました。

『因縁』・・・・これも仏陀は、いま解釈されている言葉とは違って使っています。因も縁も同じ直接的な原因であり、そして現象の原因はkammaです。これが因果です。

因縁も因果も業も業縁も、後世になればなるほどそして日本にきてなおさら、おどろおどろしい宿業、宿命論、運命論みたいになってしまいました。
これも、仏陀の言っていることと真逆なのです。
そのことにも愕然としました。

『苦』=dukkha に関しても、上座部仏教では、dukkhaは苦や苦しみではない、空しいとか価値はないという意味だ、としてしまいました。
大乗仏教では、苦の代わりに空が前面に来ています。

仏陀のいうdukkhaを理解し洞察することが仏陀の理法のかなりの部分を占め、それがわからなければ、絶対に仏陀の理法はわかりません。
しかし、今の仏教では、苦の理解はほとんどなされていません。
仏教の入門書に申し訳程度に四諦が書いてあり、苦諦が説明されているだけです。
dukkhaが理解できなかったからです。



>なるほど、「身体の生存」か。。
>ア-トマンをもつ人は、生存にこだわりを持ちます。
>「智慧の道」というのは「八正道」を飾ることばですね。特に、内容があるわけでもないですね。



なぜ、このような言葉が出るのでしょうか。残念です。
すでに、『ア-トマンを持つ人』というように決めつけています。
無ではなく無記だといっただけで、ア-トマンを持つ人になってしまいました。外道というジャンルに入れられるというわけです。

智慧の道をただ八正道を飾る言葉で内容がないという決めつけも酷いものです。
八正道の正見は智慧そのものだというのが私の考えです。
顛倒夢想を180度転回した正見解こそ、智慧だということです。
その正見を基に残りの7つがあります。
ですから、まさしく、八正道は智慧の道なのです。

先生は、龍樹が言った『縁起』『中道』『空』の解釈と違う解釈をすると、とたんに激しく抵抗され、外道という決めつけをされるように思えます。
それはそれで、いいのです。
龍樹が日本仏教のもとになったことは疑いもありません。
天才だったと思います。

しかし、私はあくまでも、歴史上の仏陀は本当に、縁起や空や因縁や中道などの言葉を今の仏教解釈のように使っていたのか、そういう意味なのか、ということを知りたいとしてきたのです。

 

 

  [No.23158] Re: 龍樹は「法のあり方が不生不滅」と言ったか 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/01(Mon) 11:03:16


> > 先生は、龍樹が言った『縁起』『中道』『空』の解釈と違う解釈をすると、とたんに激しく抵抗され、外道という決めつけをされるように思えます。
>
> そう見えるかもしれませんが、じつは龍樹が言ったものを良しとしているのではなくて、ブッダが言ったものを良しとしているのです。
> でも、龍樹は、ブッダを八正道によって正しく解釈したと思います。
> だから、龍樹をあげるのです。
>
> わたしは、もとは外道で、外道の見解をすばらしいと思っていました。西洋哲学・論理学より勝れている、因果をもつから、と思っていたのです。かれらは、鉄の法則因果律を壊さないように、哲学を組み立てていました。今でも、勝れていると思っています。
>
> しかし、その因果の法則も、ブッダから来たことを知り、あらゆるものがブッダに教えられて作られていることを知って、ブッダのもとに行ったのです。その間に、龍樹がいて、龍樹を伝って進んだら、最後にブッダに行き当たったのです。そして、龍樹の言っていることは、ブッダの言っていることだと知りました。
>
> こんなに綺麗に重なる場合も珍しいです。ブッダの器と龍樹の器はピッタリと重なりますが、龍樹は、菩薩と言われます。龍樹自身が望んだからです。
>
> わたしの理解は、こうですね。ほかの人がどう言っているのかは、あまりよく知りません。


先生のお立場はわかる気がしますし、素晴らしいと思っています。
ただ、私とは方向性が逆と言うことです。
私は、後世の宗祖たちの解釈をすべて白紙にして仏陀が本当は何を言ったのか、どういう意味で言ったのかを知りたいのです。
もし、仮に、龍樹が仏陀の言ったことと100%同じ事を言ったとして、同じ事であれば、直接仏陀の言葉を読めばいいだけですので、そこに後世の人の言葉を挟む意味が私にはわからないのです。

先生が、龍樹は仏陀の後継者として、全く同じ事を知っているという証明をされようとしているのは知っています。
是非、その証明をしていただきたいとは思っています。
しかし、私は、先生より遙かに後ろに歩いている者で、まずは、後世の解釈をすべて白紙にして仏陀を読みたいというところから始めているのです。



> 歴史上のブッダを知りたいのですよね。
> ほんとうに「歴史上のブッダ」を知りたいのであれば、歴史の限定をもっとしっかりと見据えねばならないでしょう。
>
> ほんと、
ショ-シャンクさまの理解は、「甘い!」と文句を言いたくなります、この点は!
>
> 「ヴェ-ダの達人」や「バラモン」は、当時のバラモン社会を知らないと、何とも言えないでしょう。どういう意味で、ブッダはそう言ったか、それにみんなはどう反応したか、歴史の限定をよくよく知らねばなりません。
>
> その点、わたしは、歴史上のブッダには、そんなに興味がないのですが、それでも、結局は歴史上のブッダを歴史に沿って調べています。その中に、普遍性が表れてくると思うからです。


私が指摘していることはごく単純です。
最古層の仏典スッタニパ-タには、仏陀を『バラモン』とか『ヴェ-ダの達人』と読んでいる場面が度々出ますが、それ以降の仏典にはそのような場面がどんどんなくなり、バラモン教の表現などは排除されていっています。
先生は仏陀が自分を『バラモン』と言ったと言いますが、それだけでなく、例えば、1065では、仏陀に対しバラモンと呼びかけています。
私が言っているのは、最古層の仏典では、そのようなバラモン教の呼称や表現が排斥されずふんだんに使われているのに、だんだん、それらは排除されていったということです。



> わたしは、
ショ-シャンクさまの問題点としては、顛倒と中道の順序が、逆になっているような気がします。
> それが、ひっくり返れば、部派の理解だと思います。顛倒と中道の順序を、ショ-シャンク
さまの説いているように考えると、そのまま考え続けていけば、大乗にいくような気がしますが。


順序が逆とは思っていません。
顛倒妄想しているのが衆生です。
そして、仏陀の理法に触れて、その顛倒妄想が間違いであった、今までの見方は180度顛倒していたのだ、という大きな気づき、転回があって初めて正見解をもつことができ八正道が歩めると思っています。
顛倒妄想に気づいただけでは、我見はなくならず、正見にもとづく八正道を進めば、ガンガ-の流れが大海に行き着くように涅槃に行き着くのだと思います。

どこも順序は逆ではありません。
それを部派だの大乗だのと分ける必要はないと思います。

龍樹と違う見方をしたら違うというのであれば、立場が違うのですから、これ以上論じても意味ないと思います。