十二縁起とは

今までの仏教を全部白紙に戻して、仏陀の言ったことにもどる、というその仏陀の言ったこととは何ですか。それは、縁であり、その結実が十二縁起だといわれます。では縁とは何なのでしょうか。また、十二縁起で逆観により、行を滅すれば識を滅するといいますが、行とは何で識とはなにでしょうか。そして行を滅すると、識を滅すると現実的にどうなるのですか。また、苦とは何でしょう。

↑↑

上の質問に対し、今まで書いたことをもう一度載せてみます。

 

 

『縁であり、その結実が十二縁起だといわれます。では縁とは何なのでしょうか。』

『縁起』

仏陀の説いた縁起とは、苦の縁って起こる原因のことです。


これあればかれがあり、これが生じればかれが生じ
これがなければかれなく、これが滅すればかれが滅す

 

この四つの定理を使って、仏陀は、苦の原因を究明していきました。

 何故でしょうか。それは、その4つの定理に厳密に当てはまるものが見つかれば

それを滅することにより苦が滅すると考えたからです。

苦の消滅を目指して出家した仏陀は、
これあれば苦があり これが生じれば苦が生じ
これがなければ苦がなく これが滅すれば苦が滅す
というものを徹底的に洞察していったのです。
それが縁起です。

そして、その完成形が十二縁起です。

ゆえに、原始仏典に仏陀が説いている縁起の法は十二縁起を完成形とし五支縁起などの省略形はありながらもすべて『苦の縁って起こる原因』のことです。

 

縁起とは、苦の縁って起こる原因のことであるからこそ、仏陀が成道したときに繰り返し十二縁起を順逆に観じ、

『縁の滅を知ったので、疑念はすべて消え去る』と言ったのです。

 

もし、後世の仏教解釈のように、縁起とは『あらゆるものはそれ以外のすべてのものに縁ってできている』というものであれば、どこまで行っても『縁の滅』というのはあり得ないですね。

『縁』『縁起』が苦の縁って起こる原因だからこそ、仏陀は成道の時に『縁の滅を知ったので、疑念はすべて消え去る』と言ったのです。

 

 

 

『また、十二縁起で逆観により、行を滅すれば識を滅するといいますが、行とは何で識とはなにでしょうか。』

 

因果といいますが、歴史上の仏陀は因と言う言葉はあまり使っていません。
仏陀は、縁といいました。縁起です。
後世になれば、因というのは直接的な原因、縁というのは間接的な原因、などという解説が横行しています。
全く違います。
目覚めの偈にありますように、仏陀は『縁の滅を知ったので』目覚めたのです。
縁起とは苦の縁って起こる原因です。間接的な原因などではありません。
それが滅すれば苦が滅するとされる根本原因です。
縁起とは十二縁起です。
そして、根本原因は無明です。
無明とは何か、四諦を知らないことです。苦であることを知らず、苦の集起するありさまも知らず、苦の滅するありさまも知らず、苦を滅する道も知らない、つまり『苦』そのものを知らないことです。
それが『苦』であることを知らないから、『行』すなわち能動的な衝動というか形成せんとする意思というか、それが生じる。苦でなく好ましいことと思うから形成せんとする能動が生まれるのです。
それが五蘊を集合させ、感覚が生まれ、感覚の記憶が生まれ、記憶の反応としての思考が生まれ、思考が集まって観念となり、記憶の束・観念の束である『私』『自分という中心』が生まれる。

 

さて、
十二縁起は、無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死
ですが、
相応部経典『分別』に書かれているように、
『識』を眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識とすると
名色(五蘊の集まり・個人存在)そして六処(眼・耳・鼻・舌・身・意の感官)ができる前に
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識があることになり、矛盾するのです。

 

十二縁起を解読するうえで、最も難しいのは
②行 saṅkhāra
③識 viññāṇa
です。
行を行為、識を六識と解釈するのが、最も多いのですが、個人存在が生まれる前に六識も身口意の行為もあるわけがないのに、そこはどの解説書も触れないか、あるいは、行を前世の行為と解釈する人が多いです。
また無明を人類の原初的な生存欲求と解釈する人も多いのですが、前世の行為にしても人類が持つ原初的な欲求にしても滅することができない存在であり、『縁の滅によって解脱する』ことが不可能になってしまうのです。

また、有(bhava=生存)⇒生(jāti=生まれること)
も非常に難解です。
既に、名色という個人存在が生まれているのに、ずっと後になって、有⇒生 が出てきます。
名色と有と生の関係はどうなのでしょうか。

ですから、今まで、十二縁起を完全に解読した人はいません。
すべて表面的な、お茶を濁す程度の解釈しかないのです。

 

私には識が六識だとはどうしても考えられないのです。
感官器官の六処(六入)が生まれる前に六識があるのは絶対に矛盾します。

ただ、ブッダゴーサはこう言ってますね。
『識とは何か?仏陀は6種類の識がある、と言った。すなわち、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。
縁起を、三世輪廻の事として理解したい人は、(《清浄道論》までもがそういうのだが)識をば、結生識として解釈している。
そして、そのことによって、後期の論著もまた、識をば、結生識だと解釈している。
というのも、彼らは、6識を用いて、どのように三世輪廻を説明すればいいのか、分からないでいるからである。
これでは、本来の縁起が意味している事とは、全く別の事柄になってしまう。
仏陀の言う識は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。
それなのに、我々は、識を結生識と解釈してしまっている。』


私としては、識は、六識でも結生識でもないような気がしていますが
どちらかといえば結生識に近いような解釈になると思います。

 

上のように書いていますが、『行』は能動的な働き=形成しようとする意志 だと考えています。

『識』は結生識に非常に似ていますが、もう少しそれ以前の、『一点を意識すること』、だと思っています。

個を形成しようとする意志=行 があり、それに縁りて『識』=一点を意識することが起きる と言う流れです。

一点を意識することによって、『名色』=個体が生じる。となります。

 

 

つまり、十二縁起とは、私の解釈によれば、この中心=自我が形成されて苦の集積へと押し流されていく過程を洞察するものです。

私たちは、どのようにして自我という中心を持ってしまったのか、そしてその有り様を洞察することによってでしか、中心を滅して、中心のない無量の大海は現れないのです。

 

 

『また、苦とは何でしょう。』

 

苦とは、滅していくものに自己同化して守るべき中心を持ってしまうことです。

中心を持つと意識は限定され、無量の意識から離れてしまいます。

これこそが、『苦』です。

 

 

つまり、十二縁起とは、無量心である意識の状態=涅槃 から如何に苦の集積へと転げ落ちたのか、という洞察です。

そして、それがそのまま、肉体を持ち感覚器官を持ち感覚を感じ経験し記憶の束を持った過程の洞察ですから、記憶の束をdeleteすることになります。

この洞察がないと、中心を滅することはできないですし、中心があれば限定が生じ、限定が生じれば欠乏感が生じ、欠乏感が生じれば欠乏の状況が作り出されてきます。

ですから、いますぐ、無量の方へ舵を切らなければいけないのです。