Amazonレビューについて

『仏陀の真意』を出版してから11か月が過ぎました。

すでに書きましたが、出版前の想定からは信じられないほど売れており、現時点(2023年2月23日)でAmazonレビューの数は90件となりました。

最高の星5つが75個。星4つが5個。星3つが4個。星2つが3個。星1つが3個。です。

出版前には、星1つが半分くらいあるだろうと予想していただけに、これも意外でした。

 

直近の1か月(2023年1月23日以降の1か月間)では、星5つが6個。星3つが1個。星1つが1個。と断トツに満点の星5つが多いです。

出版してから1年近くになりますから、最近に読んでいただいた方は、私を全く知らない人たちでしょうから、客観的な評価と見ていいと思います。

それが断トツに星5つの最高評価をしていただいているのは本当にうれしい限りです。

ありがとうございます。

 

私が出版前に、★1つの最低評価が半分くらいはあるだろうと思っていたのは、私の本が、大乗仏教側からしても、部派仏教側からしても、今までの考えと全く違うことを書いており、受け入れられない人たちが多いだろうと思っているからです。

 

確かに星1つや2つの低評価もありますし、そのコメントも読ませていただいており、さらに最近、星5つの最高評価でありながら納得できない部分があると書かれていましたので、それらにつき、私の考えを書かせていただきたいと思います。

 

 

2023年2月20日に日本でレビュー済み

Amazonで購入
この世の本体、物事の本性のことを「実体」といいます。

それを念頭に置いて、筆者の考えを見ます。

【十無記のうち、 7~10の4つは如来は死後存在するかどうか、です。 つまり、如来に実体があるかどうかです。】

ここで筆者は如来の実体の無記について説かれていると言いますが、

ここでは、如来が死後存在するかどうかについて言われているのみで、如来の実体(本性)の話などはしていないのがわかります。

「実体」という言葉は、死後には関係ありません。

如来の本性、本体の存在の有無の話が実体の有無の話であって、

如来の死後の存続の有無(解脱者の永劫性)の話とは、まったく=ではなく、別の話だとよく考えればご理解いただけると思います。

それを、筆者は【つまり、如来の実体があるかどうかです。】と、受け取ってしまっています。

筆者がこういう誤解を一つの原因として、

筆者の主張する「無記」や「非我」を万物に広げ適用した大乗仏教を、この観点から、「仏陀が無記とした実体について、実体は無いと仏陀の言ってないことを断言してしまった」と評価している所は、良い本を書かれているだけに残念だと思いましたが、まだ途中までしか読んでないので、これからが楽しみです。

※※※※※

 

こういうコメントはとてもありがたいですね。

仏教にとても詳しいかたのようです。

十無記は、如来は死後存在するかどうか、ということであり、如来に実体があるかないか、ということではない、とのご指摘です。

 

十無記とは、こうです。

(1)世界は常住であるか(sassato loko)、世界は常住ではないか(asassato loko)
(2)世界は無辺であるか(antavA loko)、世界は無辺ではないか(anantavA loko)
(3)霊魂と身体は一つであるか(taM jIvaM taM sarIraM)、

    霊魂と身体は別であるか(aJJaM jIvaM aJJaM sarIraM)
(4)如来は死後に存在するか(hoti tathAgato param maraNA)

  如来は死後に存在しないか(na hoti tathAgato param maraNA)

  如来は死後に存在しかつ存在しないか

          (hoti ca na ca hoti tathAgato param maraNA)

  如来は死後に存在するのでもなくかつ存在しないのでもないか

           (n'eva na hoti na na hoti tathAgato param maraNA)

 

 

確かにおっしゃるように、ここには、如来(tathAgato )が死後存在するかどうかを答えない(無記とする)と言っています。

 

『実体』とは何でしょうか。

『多様に変化してゆくものの根底にある持続的、自己同一的なもの』を指します。

もし、如来(悟った人)が、死後、存在せずに消滅するのであれば、死という変化の後に持続的なものがないことになります。

しかし、それは答えませんでした。

ところが、仏教は、後世において、仏陀が無記であったことから、死後の世界については否定的になるところが多くありました。

仏陀は、悟らない凡夫は輪廻し転生することを説いていますが、輪廻転生しない如来が死後も永遠に存続するかどうかは、無記としました。

永遠に存続する場合には、それは実体がある、という意味ですから、つまり、如来に実体があるかないかは、無記としたのが仏陀だったのです。

 

凡夫の場合、死んだあとは、その境涯によって天界などの善きところに生まれ、あるいは悪趣という悪いところに生まれ、またこの世に転生することは、仏陀が断言しています。

悟らない限り、輪廻転生を永遠に繰り返すと言っています。

それでは、悟った如来は死後どうなるのか、という問いです。

輪廻しないのであれば、輪廻する中心がなくなったのであれば、消滅するのか、どうか、という問いです。

つまり、死後も存続し持続する実体があるのかないのか、なのです。

 

 

 

 

 

2022年12月8日に日本でレビュー済み

この本で主張されている「仏陀の真意」へのアンチテーゼはどこへ向けられているのでしょうか?

上座仏教のいわゆる「初期経典」に基づいて大乗非仏説を唱えるのであれば、それは明治以来、繰り返されてきた議論でありますので、どこが「衝撃の書」であるのかよく分かりません。仮想敵(?)がどうもハッキリしないのです。

それから、『スッタニパータ』や『ダンマパダ』が仏典の最古層であるという説には近年では疑義が呈されていますので、そもそもの前提条件への吟味が不十分です。

最古層説を前提とするならば、近年の研究である下記の項目への反駁がやはり必要でしょう。とりあえず、3点挙げておきます。

1. 韻文であるから最古層とは限らない。仏教以前の『ウパニシャッド』などでは散文で伝承されているので、わざわざ制約の多い韻文で伝承された、という根拠が薄弱。

2. 『スッタニパータ』などで古形の表現が多いのは、まさに「韻文だから」。短歌や俳句は現代のものであっても、「なりけり」などの古形の表現を使う。したがって、古形の表現形式だからといって、最古層とは言えない。

3. 「三蔵に後から付け加えられた「小部」のスッタニパータなどが仏典の最古層であると推測するには無理がある(馬場紀寿著『初期仏教――ブッダの思想をたどる』p70)

なので、繰り返しますが、著者の主張する「仏陀の真意」の前提条件そのものが弱いので、その前提条件をもとに組み立てられた著者の論の展開そのものも危うい、ということになります。

とはいえ、アマチュアの仏教研究者がライフワークとして商業出版を果たした、という情熱には敬意を評したいと思います。その点を加味して星2つとしました。

※※※※※

 

 

星4つ以下の評価で、コメント付きは、今のところ3つだけです。

星2つのこのコメントと、星1つのコメント2つの合計3つだけです。

原始仏典を研究すると聞くと、必ず現れるのが、こういうコメントです。

大乗仏教側の人なのでしょう、原始仏典が古層とは限らない、スッタニパータも古層ではない、などと言う人です。

スッタニパータの第4章や第5章が最古層であることを否定した仏教学者を見たことがありません。

Aという文献があるとします。Bという文献の中に、Aの中の文が引用されています。

AとBではどちらが古層でしょうか。

当然、Aですね。これは疑いようがありません。

これだけが根拠ではないですが、スッタニパータの第4章第5章が最古層の仏典であるというのは、そういう文献学上の根拠があるからなのです。

決して、韻文だから古層だとか散文だから新しいなどということではありません。

相応部経典の神々の集成と勘違いしているようです。

スッタニパータの第4章第5章が最古層ではないというまともな仏教学者の論文があれば教えてほしいものです。

それでは、どの仏典が最古層だと言うのでしょうか。

 

このように、原始仏典が仏陀の肉声に近いということ自体から全否定してしまう大乗仏教の人がいますが、それでは、歴史上の事実に反してしまいます。

 

 

 

2022年12月17日に日本でレビュー済み

 
146ページ
『仏陀の言う苦がわかっているのでしょうか。(中略)そういう人の苦しみは、病気が治れば、経営する会社が儲かれば(中略)なくなるものです』という文章があります。
著者にとっての苦しみとはその程度の認識なのだなあとがっかりしました。もっと根源的な人生の苦しみについて悩んでないと話にならないと思い、途中で本を読むのをやめました。時間の無駄でした。
※※※※※
 
 
途中で読むのをやめられたそうですが、やめたその後に、核心が書かれているのですが。
該当の箇所は次の通りです。
 ↓
 

つまり、四諦とは、苦であるということ、苦の原因、苦の消滅、苦を消滅する方法について説かれた法であり、そのテーマは【苦】です。

四諦は苦について説かれたものです。

無明とは、四諦を知らないことです。

言い換えれば、無明とは苦を知らないということです。

苦であるということがわからないのを無明といいます。

苦というものがわからないために(無明)、行が生じ、識が生じ、名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死 となるのが、十二縁起です。

老死は、愁(soka)・悲(parideva)・苦(dukkha)・憂(domanassa)・悩(upayasa)とともに挙げられており(縁起経)、つまり、苦の集積ということです。

こは苦である、ということが本当にわかったなら、無明が滅するのです。

そういうとほとんどの人は、『苦なんかわかっている。苦しいか苦しくないか、など自分が一番わかっている。』と思うでしょう。

確かに、死ぬほど苦しみを抱えている人はいます。自殺する人はなくなりません。

それでは死ぬほど苦しんで自殺する人は、仏陀の言う苦がわかっているのでしょうか。

自殺するほど苦しんでいる人には理由があります。

病気の苦しみ、経営する会社が倒産しそう、学校でいじめがある、職場でパワハラがある、失恋した、などです。

しかし、そういう人の苦しみは、病気が治れば、経営する会社が儲かれば、いじめやパワハラがなくなれば、恋愛がうまくいけば、なくなるものです。

仏陀のいう【苦諦】は 、sabbe  saṅkhārā   dukkha   すべての形成されたものは  苦である 、ということです。

四苦八苦は

生苦(Jāti dukkha)  生まれる苦しみ

老苦(jarāpi dukha)  老いる苦しみ

病苦(byādhipi dukkha) 病気の苦しみ

死苦(maraṇampi dukkha) 死の苦しみ

愛別離苦(appiyehi dukkha) 愛するものと別れる苦しみ

怨憎会苦(piyehi dukkha)  憎むものと会う苦しみ

求不得苦(yampiccha dukkha) 求めるものが得られない苦しみ

五取蘊苦(pañcupādānakkhandhā dukkha) 要するに五蘊の集まりこそが苦である

 

生苦は、『生まれる苦しみ』です。狭い産道を通って圧迫されながら母体と切り離されるときの苦しみ、誕生の時の苦しみを言います。

そして、四苦八苦の核心は、五取蘊苦です。

7つの苦が説かれた後、『要するに』『略説すれば』と言って説かれるのが『五取蘊苦』です。

苦を要説したものです。 

pañcupādānakkhandhā dukkha を直訳すれば、五つの執着する要素の苦しみ、ということです。

五つというのは、色・受・想・行・識 です。

執着する、というのは、2つの意味があります。

執着=渇愛=tanha によって、5つの要素が集まって仮合したという意味。

それと、五つの要素が集まることによって、『守るべき中心』という執着の核が出来たことを言います。

病の苦しみや老いることの苦しみなど様々な苦しみはあるが、結局は、五蘊が集まって、守るべき中心を形成したことが『苦』なのです。

『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』ということです。

この言葉の力だけで、観の転換が起こる人には起こるでしょう。

それほど、深遠であり微妙である教説です。

 

苦とはつまるところ、無量感の毀損です。自由感の毀損です。

中心を持ってしまったために、本来の無量感を失ってしまったのです。

中心を持ったために、限定感が起き、欠乏感が起きます。

欠乏感が渇愛となります。

私たちは、肉体を持ち、感覚を持ちます。

肉体は生じた瞬間から滅に向かっています。

老いて衰弱して滅へと至ります。

感覚には心地よい感覚、つまり快感と、痛みなどの不快な感覚とそのどちらでもないか感覚があります。

楽受、苦受、不苦不楽受と言います。

楽受(心地よい感覚)を受けると、それが記憶となり、長く味わいたい、または再び味わいたいという執着になります。

しかし、愛着し執着している対象が壊れたり亡くなったりすると、激しい苦痛となります。これを壊苦といいます。

また、この執着は、精神を一点に固定させるものです。

束縛であり、結と呼ばれるものです。

ここにおいて、精神の自由感、無量感は損なわれます。

苦受(不快な感覚)を受けると、まずそれを避けたいと思います。そして不快な記憶となり、嫌悪の感情が生じます。

嫌悪の感情は、防御の壁を心の中に作っていきます。

精神はその嫌悪の壁によって閉じ込められ、本来の自由感、無量感は損なわれていきます。

不苦不楽受は、しかし、やがて肉体の衰えに従い、苦受に変わります。

これを行苦と言います。

しかし、このようなことを説明しても、あるいは四苦八苦のすべての苦を集めても、苦(dukkha)を本当にそして全的に洞察することはできません。

 

『海の上のピアニスト』という映画があります。船の中で生まれ、生涯船を降りることがなかったピアニストの物語です。一度、愛する女性を追って船を降りようとしますが引き返します。

もし一度でも陸地で生活すれば、船の中がいかに閉塞されて窮屈でいつも揺れていて不快なものかが分かりますが、船の中しか知らなければ、限定された船の空間が天地そのものです。束縛されているとは思いもよらず、船の中を自由に動いていると思っています。

私たちの状況もこのようなものです。肉体や感覚や記憶を持ったために束縛されているのですが、それを束縛と感じる人は稀です。やりたいように自由に生きていると思っています。

しかし、無量なる境地を少しでも知ってしまうと、『要するに、五蘊の集まりが苦なのだ』ということがわかってきます。

無量感の毀損、自由感の毀損こそが苦の正体です。

例えば、生まれた時からひもで縛られている人があってその人はひもの長さの範囲しか動けません。
 それを当然と思っていれば苦を苦と感じないかもしれません。
 しかし、いったん、ひもがなくなった状態を経験すれば、またひもで縛られた場合、とんでもなく苦痛に感じるでしょう。

ひもが悪い、とか、ひもに縛られている自分が悪いと考えるのではなく、縛られていること自体が苦に感じるので、ひもを解こうとします。中心を持つということはひもで縛られている杭があるということです。

 

よく現代の仏教解説書で、『苦とは思い通りにならないこと』と書かれていますが、それは苦=dukkhaのほんの一部にしか過ぎません。もちろん、思い通りにならないことは、直接的に無量感、自由感、全能感を毀損しますから苦であることは間違いありません。四苦八苦でいえば、求不得苦です。

しかし、仏陀のいう苦=dukkhaとはそのように浅いものではありません。

仮に膨大なお金を手に入れて、ほとんどの執着する対象を思い通りにできる立場になったとしても、執着すること自体、あるいは嫌悪すること自体、無量感の毀損であり苦であるのです。

苦という真理つまり苦諦を知ることは、仏教の第一歩でもありすべてでもあります。

苦諦すなわち無量感の毀損を知ることはその背後の無量なるものを意識することになるからです。

集諦は、苦の原因であり、苦の縁って起こる成り立ちです。これは、十二縁起の順観として詳しく説かれます。

滅諦は、苦が滅することで、十二縁起の逆観として説かれています。

十二縁起のところで詳しく説明します。

道諦は八正道ですので、八正道の項目を立てて説明します。

※※※※※

 

ここに書いた通りです。

仏陀が説いた『苦』というのは、実は極めて深い洞察なのです。

死ぬほど苦しんであるからといって、仏陀の説く『苦』のすべてがわかるということがないことがこ説明でわかるのではないでしょうか。

 

 

 

2023年1月31日に日本でレビュー済み

仏教常識を覆すとあるが、自分なりの仏教用語解釈の羅列に過ぎず、衝撃の書でも何でもない。会社経営者で、仏教研究家の書く本はこんなものかと思った。仏教の用語を全く知らない方には良いかも知れないが、ブッダの教えを知りたい人には価値がない。「仏教思想のゼロポイント」などの入門書の足元にも及ばない。

 

 

このコメントには、具体的な内容は全く書かれていないので、言いようがありません。

ただ、このようなコメントが来ることは想定していました。

例えば、本には『歴史上の仏陀はあまり空を説いておらず、原始仏典における空とは、生じては滅する、泡沫のようにはかないもの、という意味』と書きました。

これなどは、後世の大乗仏教の深遠な空の理論からすると拍子抜けするような感じかもしれませんが、歴史上の仏陀は本当は何を説きたかったのか、ということを原始仏典から探求するということで書いています。

いや、歴史上の仏陀はそう言っていないと言うことであれば、原始仏典を基に指摘していただきたいものです。

後世、如何に絢爛な理論を構築したとしても、歴史上の仏陀が説いたこととかけ離れたものであれば、まずは仏陀の真意から掘り起こしていかなくてはいけない、これが私の信念です。

原始仏典に基づいた考察から、歴史上の仏陀が本当は何を説いたのか、何を説こうとしたのか、がわからなければ、何故、大乗仏教が興ったのか、何故大乗仏教が興らなければいけなかったのか、は絶対にわかりません。

ただ、歴史上の仏陀とかけ離れた理論に陶酔しているだけになります。

 

 

 

(続きます)