仏教についてのひとりごと 32

それでは、受(感受作用)の中で、嗅覚を考えてみますと
自然の花の香がしているところも、無臭のところも、ヘドロのような悪臭がしているところもあります。
あなたが、金木犀の香りが好きで快適に感じるとします。
金木犀の香りが気持ちいいのは、ヘドロの強烈な悪臭を嗅いだ後でなくても気持ちいいですよね。それ自体が自分にとって快適なので、古い苦の消滅とは関係ありませんね。

視覚を考えてみましょう。
あなたにとって快適な環境、風景が目の前にあります。
それは花咲く風景かもしれませんし、高原かも、海かもしれませんが
その視覚は快適のはずです。
ゴミの捨て場のような風景もあります。
やはり快適な視覚はずっと続いてほしいとは思わないですか?
視覚的に気持ちのいい場所から離れてゴミ捨て場を視覚に入れたいとは思わないでしょう。

あなたの日常生活で
『楽は、新しい感覚により、他のかつてあった古い苦がなくなったからその分を楽に思うだけで、その感覚がずーっと続くと苦そのものの感覚でしかなくなる、つまり、感覚はすべて苦なんだ』の言葉は正しいと思いますか?

 

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仏教は無我の教えと言われてきましたが
仏陀は自己の確立を説いています。

無我なのであれば、仏陀いう「自己」とは何なのでしょうか。
『自己こそ自分の主である』
の「自己」とは何なのか、です。
その自己が、五蘊仮合の迷いの自我であれば
そのような迷いの自我を自分の主とするということに
疑問は湧きませんか?

 

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一切皆苦』の仏陀の言葉は原語では
sabbe sankhara dukkha. です。
sabbeは、『すべての』『一切の』という意味で
sankharaは、『行』『有為の法』『事象』という意味です。
『行』とは、形成作用、または潜在的な形成力と訳されます。
ゆえに、中村元は、
『一切の形成されたものは苦しみである』と訳しています。
これを歴史上、『人生はすべて苦しみである』と訳してしまったために
全く仏陀の真意とはかけ離れたものになっていったと考えています。

こう書きました。
sankharaには、人生という意味はないのにもかかわらず
sabbe sankhara dukkha.を『人生はすべて苦しみである』という訳をしてしまったために
仏陀の本意からはかけ離れてしまった、と言っているのです。

『一切の形成されたものは苦しみである』
が書かれた同じダンマパダに
『何ものかを信じることなく、作られざるものを知り、生死の絆を断ち、よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。』とあります。

一切の形成されたもの=苦しみ
作られざるもの=ニルヴァーナ
ということです。

 

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<<そうすると・・・・「一切の形成されたもの」というのには、人が「楽」と感じるものも入るのですか?
一切の形成されたもの、というからにはそうなりますよね?>>

そうですよ。
楽境はあります。
楽受も、苦受も、非楽非苦受も、あります。

 

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<<一方では、「一切の形成されたものは苦しみである」と言いながら、また一方では、
快楽は快楽として存在する、とおっしゃる。>>

あなたのその質問は仏陀の弟子も、仏陀に問いかけた質問です。

『受には、苦受も楽受も非楽非苦受もあるのに、なぜ仏陀は一切が苦であると言われるのですか?』と。

その答えは、既に、このスレッドで書きました。

 

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『受には、苦受も楽受も非楽非苦受もあるのに、なぜ仏陀は一切が苦であると言われるのですか?』
に対する、仏陀の答えのことです。

苦苦、壊苦、行苦ということです。

 

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バラモン教の不変な霊魂であるアートマンを徹底的に否定した』のは
仏陀ではなくて、後世に仏教なるものを作り上げた、仏陀に会ったこともない者たちです。

仏陀は、『無記』でした。

 

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>>いずれにしても、輪廻からの解脱というような教えは釈尊以前のバラモン教にはなかったでしょうね。>>

バラモン教、つまり古代インド思想では、輪廻からの解脱はメインテーマでした。
仏教と同時期に起こったジャイナ教も同じく、輪廻からの解脱がメインテーマです。
仏陀は、そのインド思想を基盤とする土壌に生まれ育ったのです。
そして、人は生まれによってバラモンになるのではなく、行為によってバラモンになるのだと説きました。
最古層のスッタニパータでは、仏陀のことをヴェーダの達人と呼んだりしています。

仏陀は、自分のことを、ただ昔の覚者たちが見つけた古城に向かう古道を見つけただけだ、と言っています。
インド思想の昔の覚者たちと同じ道なのだ、ということです。

それを後世の人たちがせっせと仏教という枠組みを作り上げて
仏陀を仏教の教祖に仕立て上げたのです。
そして、仏教以外の教えを外道と呼び、仏教とは全く別の教えだと強調し始めました。

このことこそ、仏陀が、スッタニパータで戒めたことです。
誰も自分の信じることだけが真理で他の教えを間違っていると言い合っている・・・
それこそが固執だと、繰り返し戒めています。
しかし、仏教徒たちはその仏陀の本意も無視して、バラモン教を否定した教えだと強調するに至りました。
これにより、仏教は仏陀の真意から全くかけ離れたものになってしまったと思っています。

 

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