仏教、非仏教

  [No.23090] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/26(Tue) 17:46:00

石飛先生、続きを書かせていただきます。


> > 私はやはり、『すべては縁起であり空であって無常であるとするのが仏教で、無常でないもの、永遠であるものを立てるのが外道』という分け方は違うと思います。
> > そういう分け方をしてしまうと、その仏教学者のように、如来蔵思想は仏教ではない、大乗涅槃経は仏教ではない、というようになってしまいます。
>
> わたしのことばを、そういう意味にとらえるのは、ショ-シャンクさまの!理解だと思います。
> そういうことを言ってるつもりはありませんし、わたしのことばをそのように読まない人もいると思います。
>
> これまで、わたしは、こういう場面で、何とか訂正しようと躍起になっていたのですが、最近、そうしても自分の考えが正しく理解してもらえるとは限らない、と分かって、すっかり諦めてきました。
>
> たぶん、ショ-シャンクさまは頭の良い方ですので、わたしが、そういっているわけではないことを察知しておられるでしょう。

>
> 如来蔵思想については、特に研究して何かを言えるわけではないので黙っていますが、そこには、何かこだわりがあるのだろうと見ています。


その仏教学者が如来蔵思想を仏教ではない、と言ったのは、非常に単純な理由です。
仏陀は『唯一の実在たる万物の根源』を認める説に対して、そのアンチテ-ゼとして縁起説を説いた、とその学者は考えているからです。
大乗涅槃経のdhatu-vada を『唯一の実在たる万物の根源』であると見ているのでしょう。
私は、この仏教学者の説を知る前に、大乗涅槃経をしらべたときに、
仏性は『buddha dhatu』とありました。
dhatuは基盤のことですから、仏になる基盤ということです。
考え方として、かなり実在の方にぶれてるな、という気はしました。


私が思うのは、仏陀は、苦と苦の滅を説き、解脱した後に関しては無記としました。
滅や寂滅を説く仏教は、もともと断見、断滅のほうにぶれやすいものだったと思います。
特に仏陀は如来の死後を無記としたために、どうしても傾向として無に流されていったように思えます。
それは仏陀の真意ではないと、『虚妄ならざるもの、大いなるもの』を叫んだのが大乗仏教だと思います。
中期大乗となって特にその傾向が強くなり、如来蔵、仏性が全面に現れます。
仏陀の無常・苦・無我・不浄の正反対の常楽我浄が宣言されます。
そこにバラモン教の影響を強く感じる仏教学者もいます。

どのような宗教であれ、いろいろな他の宗教や思想に影響を受けつつ発展していきます。
禅も老荘思想がなければ、あのような形にはなっていないでしょう。

ですから、様々な宗教要素が入っているのに、仏教、非仏教と分ける意味があるのかが疑問なのです。
仏陀は、自分以外の神仏を他力として拝むことは説いていませんが、浄土教も仏教とされています。
仏教は時を経るごとにいろいろなものを取り入れて多様化していったのであって、
先生が言われるように、仏教は排除しない、受け入れるのが仏教だ、ということでしょう。
これは仏教だ、これは外道だ、という分け方はふさわしくないように思えます。

> > これを考えると、仏陀が、一切を厭離し解脱した如来がずっと存続するのか存続しないのかについては無記としたのは、なんと素晴らしいことかと感嘆せざるを得ません。
>
> そうそう、ブッダの説き方です。
> 龍樹は、こう言っています。
>
> すべては、あるがままである、あるいは、あるがままではない、そして、あるがままであると同時にあるがままではない。さて、あるがままでもなくまたあるがままでなくもない、というこれが、仏陀の教法である。(『中論頌』18.8)
>
> このとおりだと思います。ショ-シャンクさまの理解したところを見て、ショ-シャンクさまの考え方を知るわたしがいます。

『すべては、あるがままである、あるいは、あるがままではない、そして、あるがままであると同時にあるがままではない。さて、あるがままでもなくまたあるがままでなくもない』
私にはこの言葉は、さっぱりわかりません。
やはり、人間には向き不向きがあるのでしょう。

>
> > ここにおいて、仏陀が言う『私が説かなかったものは説かなかったものとして受け止めなさい』という言葉の重要性がわかってきます。
>
> 「すべてはあるがままである」
> 「すべてはあるがままでない」
> 「すべてはあるがままでありかつあるがままでない」
> 「すべてはあるがままでなくあるがままでないのでもない」
>
> この四つの言い方を人々の悩みに合わせて使い分けた、それがブッダである、ということだと思います。
>
> 「一つだけが正しい」と考えるなら、ブッダの法からこぼれ落ちますが、「わたしはこのように受けとめる」、とおっしゃるのなら、おっしゃるとおりだと思います。

 

 

 

  [No.23097] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/27(Wed) 11:53:44

続きます。

> > どのような宗教であれ、いろいろな他の宗教や思想に影響を受けつつ発展していきます。
> > 禅も老荘思想がなければ、あのような形にはなっていないでしょう。
> >
> > ですから、様々な宗教要素が入っているのに、仏教、非仏教と分ける意味があるのかが疑問なのです。
>
> おおっとっと!まて!
> ちょっとお待ちください。「な~んと、そこにいくのかい」ってのが、正直な気持ちです。
>
> 宗教現象に眼をうばわれましたね。ブッダ・ダ-トゥはないという立場をとられるわけですか。
>
> その程度のことを説くのだったら、ブッダは要らない、とわたしは思います。
> ショ-シャンクさまがいれば、宗教の開祖がたくさん登場してくるでしょう。


はっきりと言ってしまうと、仏陀が説いたことと真逆な事を説いたとしても受け入れてきたのが仏教です。
それは、仏教が中国に渡ったとき、中国ではインドで作られた経典かどうかだけで、仏陀の金言か偽経かを判断したからです。
インドで作られていれば、どのような内容の経典でも真の経典とされました。
ですから、インドで、いろいろな他の宗教や思想の影響を受けた経典が作られても、それを仏陀の言葉として受け入れてきた事実があります。
それを、許容と見るのか、いい加減と見るのか、豊穣と見るのか、受け取り方は違いますが。

ですから、私は、仏陀が本当は何を言ったのだろうと言うことを知りたいと思って、後世の仏教を白紙にしたのです。

ありのままに見ると、後世の仏教は様々な思想が入っていることは明らかなのに、仏教、非仏教と明確に分けていくと、その学者のように如来蔵思想も非仏教とならざるを得ないことになります。

もっとはっきり言うと、仏教はすでに何でもありの状態になっているのに、ここで何かの判断基準、物差しを勝手に作って、これは仏教、これは非仏教、外道としたところで、何の意味もない、というのが本音です。

>
> > 仏陀は、自分以外の神仏を他力として拝むことは説いていませんが、浄土教も仏教とされています。
> > 仏教は時を経るごとにいろいろなものを取り入れて多様化していったのであって、
> > 先生が言われるように、仏教は排除しない、受け入れるのが仏教だ、ということでしょう。
> > これは仏教だ、これは外道だ、という分け方はふさわしくないように思えます。
>
> なるほど、ショ-シャンクさまの立場だとそうなりますね。
>
>
> > 『すべては、あるがままである、あるいは、あるがままではない、そして、あるがままであると同時にあるがままではない。さて、あるがままでもなくまたあるがままでなくもない』
> > 私にはこの言葉は、さっぱりわかりません。
> > やはり、人間には向き不向きがあるのでしょう。
>
>
> 向き不向きではなくて、ただ、無明にあるだけだと思います。
> 失礼なことを申しあげたかもしれませんが、「みんな仲良くしましょう」とブッダは説きました、程度の理解におさまるな、と思います。



先生は、仏陀の言葉と龍樹の言葉とをすべて仏陀の言葉としています。
法性についても、仏陀は言っていません。
今回の『すべては、あるがままである、あるいは、あるがままではない、そして、あるがままであると同時にあるがままではない。さて、あるがままでもなくまたあるがままでなくもない』も龍樹が仏陀を解釈してそう言っているだけです。
仏陀の言葉ではありません。
龍樹を評価しないと無明であるというのもどうかなと思います。
もちろん、龍樹は仏陀の後継者で、全く同じ事を言っていると解釈するのは自由です。


> 多くの人は、誰でも、そう思っています。戦争のない世の中にしたい、みんなが幸せに暮らせる世界であってほしい、と、願いつつ、そうならない世界を嘆いているのです。
>
> なぜか? なぜ、みな望んでいるのに、そうならないのか?
>
> それを解明して、答えにたどり着いた人が、ブッダなのです。わたしは、そう思っています。
>
> 答は、無明であり、無知だからなのです。
>
> 一言で言えばそうなりますが、それを解決する方法を示したのが、仏教です。ブッダのダンマということになります。
>
> 苦をはらう方法には、個人に合わせて無数の方法がある、として、8万4千の法門が説かれた、と言われます。
>
> 歴史上のブッダは、実際、歴史を超えて、あらゆる心ある生き物たちに、その方策を示しています。
>
> 無記も説きました。無常も説きました。ブッダ・ダ-トゥも説きました。どんなことを聞かれても、そこから仏法に添って答えが導き出せるように人々に智慧を授けて、涅槃に入りました。
>
> あらゆる宗教が、人のために作られながらすべての人に合わないのは、宗教が人を選ぶからです。「この教えに賛同する人は幸せになれる」とするのです。
>
> ブッダは、発想が違うのです。「人々が幸せになるように教えを設定する」とする教えなのです。人に合わせて、何を言ってもいいのなら、バラバラな教えがバラバラに脈絡なく説かれることになるでしょう。
>
> しかし、そうではありませんでした。ブッダの教えは、やはり、一つあるのです。誰もが心の中で、ブッダの教えは一つであると思う、そういう教えなのです。
>
> そこで、仏教と非仏教に分かれるのです。
> 例外なく一切の衆生を救えるのがブッダであり、例外を設けて、残り一切の衆生を救うのが非仏教なのです。
>
> それは、自分自身が無明にあると知らないうちは、見えてこないものだと思います。
> 無明をはらった者たちだけが、ほんとうに一切の生類を救っていけるのだと思っています。
>
> ショ-シャンクさまが、気づかれなかったブッダのことば、一つには、これだと思います。
>
> > 私は、仏陀はこのような意味で『縁起』と言う言葉を使ってないと思っていますので、『縁起』の使い方には納得しませんが、それは後に述べます。
>
> これについては、人の思考の中にも、つまり、ことばにも縁起がある、ということに気づかない、ということだろうと思います。
>
> ほとんど誰も気づかなかったのですから、無理もありません。
>
> 歴史上!気づいた人は、少ないと思います。
> それが龍樹です。「虚妄なる法はしばしのものだ」と説けば、誰でも心の中で、「それでは虚妄でないのは何だろう」と思うでしょう。
> こうして、ブッダは「虚妄ならざる法は涅槃だ」と説いたのですが、ここにひっかかった人が龍樹なのです。ことばの順序に縁起があると見て、「空」にいきました。
>
> ブッダは完璧に説いたのです。
> その部分を、わたしたちは、「ブッダはこう説いた」と見ているのです。
> でも、その部分は嘘ではないので、そこを極めれば、ブッダのところまでいけるのです。
> ブッダ・ダ-トゥに気づければ、涅槃であり、苦のない境地、安楽の境地であるのです。


龍樹はそうでしょう。縁起の使い方も、そして縁起から空と結びつけるのも、龍樹です。
仏陀がそのように、縁起を説いた箇所が一箇所でもありますか?

 

 

 

  [No.23089] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/26(Tue) 10:27:59

石飛先生、おはようございます。

> ショ-シャンクさまは、仏教では、諸行無常を説いたと認めていますか。現象界の無常を説いてきた、と認めますか。

もちろんです。
生じたものは必ず滅する。
形成されたものは必ず滅する。
これが無常の意味だと思っています。
無常とは変化して止まないことではない、と思っています。
生じたものが滅するから無常は苦なのです。
変化するだけであれば、苦ということは言えません。


> もし、認めるなら、この法のあり方は、ずっと続いていて、この法のあり方が変わることはないと思いませんか。

生じたものが滅するというのは昔も今も未来もずっとそうでしょうね。
ただ、それを法則というものにして、その法則は永遠ではないか、常住ではないか、ということに意味があるとは思えません。
一切につき、ありのままに、『生じたものは滅する』と見ればいいだけではないでしょうか。


> 人間というのは、「変化」を教えられると、同時に「変化しないもの」をも考えるようになります。
> これも、縁起です。なぜ、仏教は、「無常」を教えたか?
> その前に、常住という考えがみんなの中にあったからです。そして、その考えが苦しみを生んでいると見たから、「無常」を教えました。『スッタニパ-タ』です。


私は、仏陀はこのような意味で『縁起』と言う言葉を使ってないと思っていますので、『縁起』の使い方には納得しませんが、それは後に述べます。

『 人間というのは、「変化」を教えられると、同時に「変化しないもの」をも考えるようになります。』と言われるのであれば、
『無常』を教えられれば、常住を考えるようになる、ということにはならないのですか?

私は無常とは生じたものは滅することだと考えていて、仏陀が無常を説いたのは、『苦』という真理に気づかせるためだったと考えています。衆生は苦の中にいるのに、苦を苦と考えていないからです。

>
> 757 なぜなら、こうだろうと考えていても、それは、それとは異なっているのです。
> 実に、それ(世間)にとって、それは虚妄であります。虚妄な法はしばしのものなのです。
> 758 虚妄ならざる法は涅槃であります。聖者たちは、それを真実であると知りました。
> かれらは、真実を現観するから、無欲となって、完全なる寂静にいます。
>
> 涅槃を「虚妄ならざる法」と教えています。流れがありますね。順序があります。
> こう教えられて、ブッダの考えに納得していったのです。思考の中にも、縁起があります。前のことを原因として、次に考えが結果します。


私は、スッタニパ-タのこの部分は、756から758までがひとつですので
『非我なるもの、名称と形態は過ぎ去るものであり、過ぎ去るものは虚妄なるものである。しかし、nibbanaは虚妄ならざるものである』という意味だと考えています。
この『nibbanaは虚妄ならざるものである』というような仏陀の言葉の数々から、灰身滅智に行きがちだった部派に反発して、虚妄ならざるものを強調した大乗仏教が興ったと見ています。



> もう、ここで、縁起からはずれてきましたね。「石飛が主張している」と見るなら、ブッダの教えをはずれてきています。法性などは、縁起したものを、語っているのです。

無常と言うことを法則として、その法則が常住、不変、永遠だということですか。


> > それでは、キリスト教の神とどう違うのですか?
>
> 全然ちがうと思いますが。
> 「始めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。このことばは初めに神と共にあった。」
> これを説かないのが、仏教です。全然ちがうでしょう。

 



『神』というのを法則とすれば、言ってることに違いはないのではないでしょうか。
実際、『神』とは法則だと思っている人もいるでしょう。
いやいや神は意思を持っているではないか、と言われるでしょうけど、
大日如来も意思を持っています。如来が常住なのであれば、常住なるものが意思を持つということでは、同じではないでしょうか。

このような神学的な理論や議論は、不毛なことです。
ですから、仏陀は、如来の存続に関しては無記としたのだと思います。




> ショ-シャンクさま、「ことばにとらわれるな」とは聞いたと思いますが、ご自分がことばにとらわれているとは夢にも思われなかったでしょう。
>
> 「常住」という語一つで、このように反応してしまうのです。
>
> ここに、一つのことばには一つの意味がある、誰が語っても、いつどこで語っても同じ意味だろう、と暗に思っているショ-シャンクさまがいます。
>
> 少なくとも、そのようにわたしには見えています。
>
> 一端、ここで切りますね。

いつ誰が使っても同じ意味だとは考えていません。
このように話すことで、相手の使っている意味が浮かび上がってくるものだと思います。


私もいったん切って、夕方にでも返信いたします。

 

 

 

  [No.23096] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/27(Wed) 11:05:40

> > 生じたものが滅するから無常は苦なのです。
> > 変化するだけであれば、苦ということは言えません。
>
> なるほど。。とはいえ、ちょっと考えちゃいますね。
> 「変化するだけで(滅しない)」ものは、変化というのか、とちょっと考えてしまいましたが、これ以上考えるのはやめましょう。
> 先に進まなくちゃ。



『なるほど』といわれるとは思いませんでした。かなり否定されると思っていました。
世の中では、無常とは変化して止まないことだというのが多くある解釈ですから。



> > 生じたものが滅するというのは昔も今も未来もずっとそうでしょうね。
> > ただ、それを法則というものにして、その法則は永遠ではないか、常住ではないか、ということに意味があるとは思えません。
>
> 法則にしているのかどうかは、わかりませんが、ブッダは必要があるから言うのでしょう。



仏陀は、生じたものは滅するとは言いました。
しかし、法性が常住だとか永遠だとかは言っていません。
先生は『龍樹は、「法性は涅槃のごとし、生じもしなければ滅しもしない」と述べています。法性とは、「法のあり方(ダルマタ-)」ということばです。』と書かれています。
そういう法性が永遠だとか常住だとかと言うこと自体に、意味があるとは思えない、と言ったのです。


> ありとあらゆるものについて、考えられ得る限りのものについて、認識されうる限りのものについて、問題にするわけですから、当然考えておかねばなりません。
>
> 言語で言われるものも、そして、その言語そのものについても、とにかく「諸行無常」と述べたのですから、諸行についてあらゆることを考える必要があります。
> 「その法則は永遠ではないか、常住ではないか、ということにに意味があるとは思え」なくても、それについて尋ねられたり問題にされたとき、「そこまで考えてませんでした」、ではすまないでしょう。
> それに、ウパニシャッドにおいても話題になっていることで、ちょっと抽象化して考えることは誰でもやっていたので、考えることは常識になっていると思います。
> 「~タ-」「~トヴァ」という接尾辞をつけると、「~であること」という抽象化した名詞を作ることは、よく行われていました。
> 「ダルマタ-(法性)」「イダ・パッチャヤタ-(此縁性)」など、たくさんのことばがあります。
> そうなると、ことばとことばが指し示すものはちがいますから、さらに、「法性」という語そのものと、そのことばが表すものとが、無常であるのかどうかを考えなくてはなりません。そう考えて行くと、「(縁起によって)作られたもの(有為)」と「作られないもの(無為)」という分け方も出てきます。

 


仏陀はそのように抽象論に傾くのを禁じたと思っています。それは涅槃に赴かず、解脱に赴かないからです。
しかし、部派も、大乗も、抽象論をさかんにして、煩瑣な理論を構築していきました。



> > 一切につき、ありのままに、『生じたものは滅する』と見ればいいだけではないでしょうか。
>
> 長爪論師という人がいて、ブッダにこう言いました。「わたしは一切を許容しない」とこのような見解をもつものです。
>
> それでは、おまえは、その「わたしは一切を許容しない」というその見解についてはどうなのか、それを許容しないのか、と聞かれて進退窮まります。
>
> 「一切を許容しない」という見解も許容しません、となると、見解はなくなってしまいます。また、これだけは許容する、と言うと、例外がでて「一切」については言えなくなり矛盾します。
> たちまち、こうなってしまうので、あらゆる点に注意しておかなければなりません。

 


『私は一切を許容しない』と言う言葉と『生じるものは滅する』と言う言葉とは全く違います。
『私は一切を許容しない』と言う言葉はどのような観点からも矛盾するからです。
一切を許容しないという私や私の身体は許容しているから存在しているのですから。


> > 『無常』を教えられれば、常住を考えるようになる、ということにはならないのですか?
>
> なりますね。人々の心に、「無常」を縁として「常住」が生じてきます。一つが、信心のある人に生ずる阿弥陀仏などが常住であるという思い、あるいは『法華経』において説かれる釈迦牟尼は久遠実成であるという思い、それらが、そうであると言えるかもしれません。


そうですね。ですから、大乗仏教は常住なるものを認めたということですね。


> > 私は無常とは生じたものは滅することだと考えていて、仏陀が無常を説いたのは、『苦』という真理に気づかせるためだったと考えています。衆生は苦の中にいるのに、苦を苦と考えていないからです。
>
> 『法華経』の中に出てくる「火宅の喩え」も、それですね。
> 『苦』を、ショ-シャンクさまは、真理と見ているのですね。なるほど、了解しました。



『形成されたものは苦である』『一切は苦である』『要するに五蘊の集まりは苦である』というのが『苦という真理』=苦諦です。
苦であると言うことが真理だとするのが仏陀であり仏教です。
ただ、部派になって、dukkhaとは苦や苦しみという意味ではない、空しい、価値がないという意味だ、とされてしまいましたが。
大乗も、無ということはほとんど説かず、仏教は空を説くとなりました。



> > 私は、スッタニパ-タのこの部分は、756から758までがひとつですので
> > 『非我なるもの、名称と形態は過ぎ去るものであり、過ぎ去るものは虚妄なるものである。しかし、nibbanaは虚妄ならざるものである』という意味だと考えています。
> > この『nibbanaは虚妄ならざるものである』というような仏陀の言葉の数々から、灰身滅智に行きがちだった部派に反発して、虚妄ならざるものを強調した大乗仏教が興ったと見ています。
>
> 「虚妄ならざるもの(アモ-サ・ダンマ)」ということばの中に、常住を見た人もいるでしょう。ここは、空を説くものだと思います。
>
> > > もう、ここで、縁起からはずれてきましたね。「石飛が主張している」と見るなら、ブッダの教えをはずれてきています。法性などは、縁起したものを、語っているのです。
> >
> > 無常と言うことを法則として、その法則が常住、不変、永遠だということですか。
>
> このあたりに来ると、どうも、ショ-シャンクさまは、ことばにとらわれてくるようだと思います。「法則」ということばに、強い思い入れがあるのかな、と思います。
> これも「ダンマ(法)」ではあります。
> 「諸行」もダンマと言われ、「無常」もダンマと言われます。そして、「諸行無常」もダンマです。そして、ダンマは無我と教えられます。「諸法無我」ですね。
>
> そうなると、諸行無常がダンマなら、そこに無我という教えもあるわけだから、このダンマのあり方は、いつも定まっているなあと気づくこともあるでしょう。
>
> たとえば、「生まれることに縁って死ぬことがある」という縁起について、ブッダは、「如来が出現してもしなくても、その領域(界、ダ-トゥ)は『法として決定していること(ダンマ・ニヤマタ-)』である」と述べました。
>
> 「~タ-」とあると、抽象化する名詞なのですから、法(ダンマ)のあり方を説いていることになります。
>
> この表現から、如来が出ても出なくても、法として定まっているのなら、常住だと見る人が出てくるのもわかるかと思います。
>
> しかし、ここで気をつけなければならないのは、「無常」に対する「常住」ということばが使われていないことです。法のあり方については、常住という語を用いなかったのも、ブッダなのです。そこで、ブッダの後を継ぐ者たちは、慎重にことばを選んで来たのです。



そうです。ですから、大乗涅槃経が『常住』を説いたとき、仏教ではないという学者まで現われたというわけです。



> たとえば、ショ-シャンクさまは、無記ということに注目されていますが、そうなら、ブッダは「世界は永遠である」ということにも「世界は永遠でない」ということにも、無記であったとご存知でしょう。
>
> 「永遠」とは「常住」、「永遠でない」は「無常」と置き換えられるのではないか、と思う人が出てきてもおかしいことはありません。
>
> 「世界は永遠でない」を「世界は無常である」と解釈すれば、ブッダの説いたことにはならないでしょうか。
> なぜ無記なのでしょう。どう思われますか。ここは、どう思うかお聞きしてみましょう。



これは、私がマニカナに初めて投稿した頃、ある方が私に質問されたので、それに答えたものがあります。

マ-ルキヤプッタが抱いた10の疑問とは、その当時のインドにおいて盛んに議論されていた哲学的、形而上学的な難題でした。
インド人は、特に古代においては高度に哲学的であり、そのような哲学的な議論が盛んだったのです。

その10の哲学的難題とは
1.世界は永遠であるのか(時間的無限論)
2.世界は永遠でないのか(時間的有限論)
3.世界は無限であるのか(空間的無限論)
4.世界は無限でないのか(空間的有限論)
5.生命と身体は同一か (霊肉同一論)
6.生命と身体は別個か (霊肉相異論)
7.如来は死後存在するのか
8.如来は死後存在しないのか
9.如来は死後存在しながらしかも存在しないのか
10.如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

つまり、時間と空間についての哲学的な議論と霊魂と肉体についての形而上学的な議論なのです。

ですから、
世界は永遠であるのかないのか=時間は無限か有限か
という哲学的な議論と
仏陀の説いた『すべての形成されたものは無常である』ということとは全く違うものであるのです。

相応部経典22・97に
爪の上に土をのせて語る場面があります。

弟子が『この世の物象にて常恒永住にして変易しないものがありますか』と聞くと
仏陀は『比丘よ、この世には、常恒永住にして変易しないものは、少しもない』と言って
爪の上に土をのせて
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのである。』
と示しました。
そして
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのであるが故に、私の教えるところに従って苦を滅することができるのである。』
と言われたのです。


マ-ルキヤプッタの質問とは
『時間は無限であるのか』という形而上学的な命題であり
仏陀の説く『生じたものは滅するものだ』という理法とは何の関係もありません。







原文では
sassato loko 世間(世界)は恒久(永久)か
asassato loko 世間(世界)は恒久(永久)でないか

この問いは、つまり、この世の終わりが来て何もない状態になるのかならないのか、という意味の問いです。
この世界に終わりがあるかどうか、です。

仏陀の言う
sabbe samkhara anicca
すべての形成されたものは無常である

というのは、生ずる性質を持つものは滅する性質を持つ、ということであることは初期経典にあり、最初期はこの一言を聞いただけで解脱した人がかなりいたことが記されています。

人間を見ても、これまでの長い歴史でも、『生じたものは滅する』という理法から逃れられた人はいません。みんな死んでいます。
しかし、生じるものも次々いますので、いまでも人間はいて世間は存続してます。
しかし、今生きている人間は当然すべて滅していきます。
生滅の法から逃れられる人はいません。

このように、世間が永久に続くのかどうかということと
『生まれたものは必ず滅する』という理法とは全く違うことなのです。




>
> > > 「始めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。このことばは初めに神と共にあった。」
> > > これを説かないのが、仏教です。全然ちがうでしょう。
> >
> > 『神』というのを法則とすれば、言ってることに違いはないのではないでしょうか。
> > 実際、『神』とは法則だと思っている人もいるでしょう。
>
> メッタ-さまですかね。


いえ。私はメッタ-さんを想定してはいません。一般的に神を法則と思っている人はいるのではないかと書いたまでです。

>
> > いやいや神は意思を持っているではないか、と言われるでしょうけど、
> > 大日如来も意思を持っています。如来が常住なのであれば、常住なるものが意思を持つということでは、同じではないでしょうか。
>
> 『神』と大日如来の違いを言えばよいのでしょうか。
> 神は、「物で像を造ってはいけない」(偶像崇拝禁止)、と自ら語りますが、大日如来は絢爛豪華な姿をしています。法を身体にもつ仏とされています。
>
> 実際に、言われたとおり、法を身体としているでしょう。
> 大日如来の像も、そのまま安置していれば、古びていきますし、壊れていくし、埃もたまってきます。諸行無常を示しています。



なぜ、仏像が古びていくことと関係があるのかがわかりません。
私が言ったのは『常住なるものが意思を持つということでは、同じではないでしょうか。』という一点です。



> > このような神学的な理論や議論は、不毛なことです。
>
> 神学的な議論と見るのは、ショ-シャンクさまです。「仏もまた塵」と言って去っていく老人は、法を見ているのです。如来が出ても出なくても、生まれることに縁って老いること・死ぬことがあり、苦しみが生ずることを見ているのです。
>
> > ですから、仏陀は、如来の存続に関しては無記としたのだと思います。
>
> 無記として納得する人もいれば、大日如来を見て、また、『法華経』を受持して、拝む人もいます。
>
> いずれか一つだけが真実であって、ほかは虚妄なのだから、信じてはいけない、と言ったのではありません。
>
> *世界は永遠だとも、永遠でないとも、わたしは言わない(無記)
> *「一切の行は無常である」と智慧によって観るときに、そこで、人は苦しみを厭い離れる。これが、清浄への道である。(『ダンマパダ』)』
> *虚妄な法はしばしのものである。虚妄ならざる法が涅槃である。
>
> 以上、どれも、ブッダの語ったことばなのです。
>
> どれかを選んで信じるとしても、それはそれであって、ほかを言わなかった、ということは言えないと思っています。
>
> 無記を良しとするのが、ショ-シャンクさまである、と今のところ伺っています。

 



仏陀が無記として、『私が説かなかったことは説かなかったこととして受け止めなさい』と言ったのです。
無記とした事柄につき、あれこれ断定し論じていったのが後世の仏教です。

 

 

 

  [No.23099] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/27(Wed) 18:07:32


> > > > 生じたものが滅するから無常は苦なのです。
>
> > > なるほど。。とはいえ、ちょっと考えちゃいますね。
>
> > 『なるほど』といわれるとは思いませんでした。かなり否定されると思っていました。
> > 世の中では、無常とは変化して止まないことだというのが多くある解釈ですから。
>
> 「変化して止まない(滅しない?)」という方が、問題が多いと思います。
> 転変説とか、そっちに行きそうです。
>
> コ-ンダンニャに法の眼が生じた時
> 「なんであれ、生ずるダンマのものは、滅するダンマのものである」と述べています。
> これは、仏教の大事なことばになります。

久しぶりに意見が一致した気がします(笑)


> > 仏陀は、生じたものは滅するとは言いました。
> > しかし、法性が常住だとか永遠だとかは言っていません。
>
> ほんとに言っていないのか、わかりやすいところにないか探しました。
> 『ウダ-ナヴァルガ』21.11-12(『真理のことば・感興のことば』岩波文庫)にありますね。
> ====
> 過去に悟りを開いた仏たち、また未来に悟りを開く仏たち、また多くの人々の憂いを除く現在の世の仏、――正しい教えの師であるこれらすべての人々は、過去に住したし、現在住し、また未来に住するであろう。これが諸仏のあいだの決り(ダンマタ-)である。
> =====
>
> 諸仏について説くところで出てきます。中村先生は「決り」と訳しています。如来の「法のあり方」は、きまりとなっているということがわかります。

この仏陀の言葉は、私は、過去にも、現在にも、未来にも、仏はこの世に出現する、という意味だと考えています。
仏陀が未来に生まれたら『生まれることはない』と言ったのが嘘になりますから、未来には別の仏が生まれるのでしょうけど。
各時代に諸仏が生まれることと、『生じれば滅する』という法則が常住、永遠だと考える考え方とは別のことです。

> > 先生は『龍樹は、「法性は涅槃のごとし、生じもしなければ滅しもしない」と述べています。法性とは、「法のあり方(ダルマタ-)」ということばです。』と書かれています。
> > そういう法性が永遠だとか常住だとかと言うこと自体に、意味があるとは思えない、と言ったのです。
>
> ブッダが自身が、そう言っていることです。ほかにも『サンユッタ・ニカ-ヤ』『長部』などにも出てきます。
> 確かに、過去七仏の悟りについては、みな同じ内容が繰りかえされています。『サンユッタ・ニカ-ヤ』12.4-9です。ここを見ると、確かに法のあり方は同じなのだなと分かります。
> これは、大事ですね。正等覚者(サンマ-サンブッダ)の思想につながりますから。ダルマタ-は当然意識しておかなければならない問題だと思います。



仏陀は、生じるものは必ず滅する、ということを言って、自分の爪に土をのせて、この土ほども、生じたもので滅することがないならば、自分の理法は成り立たない、という意味のことを言います。
それをわざわざ、法性という抽象語を設定して、法性は永遠だ、常住だ、と言うこと自体、爪の上の土のような例外を見出すことではないですか。


> もし、このあたりを「意味があるとは思えない」という理由で考えないことにすると、ずいぶん仏教の語る範囲は狭くなります。おそらく輪廻は、なくなりますね。現代人の、常識的な見方に近くなってくるかもしれません。形而上学を語らないにもかかわらず、形而上学的議論にも話がついていけるのが、ブッダなのです。形而上学を認識の問題へと引きずり下ろすことができるのは、ブッダだけだと思います。


輪廻とは関係ありません。
すべては無常である、生じたものは滅すると、ありのままに見ればいいだけで、わざわざ抽象的な概念を作り出して、『ほれ、無常でないもの、常住なものがあるぞ』とアピ-ルすることに意味を見出さないというだけです。


> > > そうなると、ことばとことばが指し示すものはちがいますから、さらに、「法性」という語そのものと、そのことばが表すものとが、無常であるのかどうかを考えなくてはなりません。そう考えて行くと、「(縁起によって)作られたもの(有為)」と「作られないもの(無為)」という分け方も出てきます。
> >
> > 仏陀はそのように抽象論に傾くのを禁じたと思っています。それは涅槃に赴かず、解脱に赴かないからです。
> > しかし、部派も、大乗も、抽象論をさかんにして、煩瑣な理論を構築していきました。
>
> 抽象論と見るのは、ショ-シャンクさまです。「ブッダは抽象論に傾くのを禁じた」とするのに、形而上学という考え方は認めるのですか。

だから、抽象論に傾くことも、形而上学に赴くことも禁じたと思っています。

> 過去七仏、あるいは、さらに多くの仏たち、また未来の仏たちについても、ブッダはしっかりと語っています。ここは、形而上学に見えそうですが、そうとらえてはならないと思います。

過去にも覚った人がいて、現在にも未来にも覚った人がいる、ということなので、形而上学とは思っていません。
いつの時代にも覚った人はいるだろうということなので。


> 宿命智・天眼智として具体的に得ているので、否定することはむずかしい。もし、否定しようとすれば、理論上の不備をあげて言うしかありません。そして、理論上の不備を探してみましたが、今のところ見つかっていません。認識の領域で、ブッダ自身は語っているのです。

自らの過去生、そして衆生たちの死後の世界をありありと見ました。
極めて具体的に見たということです。
そこから仏教は始まります。

> > そうですね。ですから、大乗仏教は常住なるものを認めたということですね。
>
> これも、偏見が強い意見ですね。大乗仏教は常住なるものを認めた、としても、ブッダが語っていたからです。認識の領域で語りうることとして承認し、諸行無常を認めています。
>
> 諸行無常を認めるから、常住なるものを語っているのだ、と分かると、仏法に近くなってきたかな、という感じがします。
>
> 大乗仏教は、“諸仏”の世界を見て行きますから、当然ダルマタ-(仏性)ということを問題にします。法として定まっていることを問題にして行くのは、当然だと思います。覚者だけではなく、等覚者を問題にするわけですから。
>
> まあ、部派も、目立たないですが、問題にしてきたのだろうと思います。大乗と部派の大きな違いは何か?
> 大乗は空を「説く」のです。説いて争いに行かない方法を編み出してきたからです。
> 部派は空を「説かない」ことをモット-にしているということだと思います。
> 空は瞑想の境地であって、説くと、争いを招くから、そのため「説かない」という態度に出るのです。
> >
>
> > 『形成されたものは苦である』『一切は苦である』『要するに五蘊の集まりは苦である』というのが『苦という真理』=苦諦です。
> > 苦であると言うことが真理だとするのが仏陀であり仏教です。
> > ただ、部派になって、dukkhaとは苦や苦しみという意味ではない、空しい、価値がないという意味だ、とされてしまいましたが。
> > 大乗も、無ということはほとんど説かず、仏教は空を説くとなりました。
>
> 部派が、あまり苦しみを説かなくなったのは、わたしは、輪廻を説かなくなったからだと思っています。はっきり、輪廻を打ち出して語ることをしなくなって、ブッダの理論は円満具足という感じではなくなってきました。



ここの『大乗も、無ということはほとんど説かず、仏教は空を説くとなりました。』は『大乗も、苦ということはほとんど説かず、仏教は空を説くとなりました。』の間違いです。
私は、後世、仏教が苦を説かなくなったのは、結局、仏陀のいうdukkhaが人類に本当には理解できなかったからだと思っています。仏陀在世中において仏陀の圧倒的な存在により、dukkhaを理解できた人が続出しましたが、仏陀やその弟子たちがいなくなって、dukkhaを本当にわかる人がいなくなっていったのが原因だと思います。
それほどdukkha=苦は、理解するのが難しいものだと思います。

 


>
> 大乗は、空を基礎におきますが、それは縁起から来るものです。空は、面だってはなかなか説けません。
>
> > > 「世界は永遠でない」を「世界は無常である」と解釈すれば、ブッダの説いたことにはならないでしょうか。
> > > なぜ無記なのでしょう。どう思われますか。ここは、どう思うかお聞きしてみましょう。
>
> > 世界は永遠であるのかないのか=時間は無限か有限か
> > という哲学的な議論と
> > 仏陀の説いた『すべての形成されたものは無常である』ということとは全く違うものであるのです。
>
> 時間が作られたものかどうかについては、どうですか。
>
> > マ-ルキヤプッタの質問とは
> > 『時間は無限であるのか』という形而上学的な命題であり
> > 仏陀の説く『生じたものは滅するものだ』という理法とは何の関係もありません。
> >
> >
> > 原文では
> > sassato loko 世間(世界)は恒久(永久)か
> > asassato loko 世間(世界)は恒久(永久)でないか
> >
> > この問いは、つまり、この世の終わりが来て何もない状態になるのかならないのか、という意味の問いです。
> > この世界に終わりがあるかどうか、です。
> >
> > 仏陀の言う
> > sabbe samkhara anicca
> > すべての形成されたものは無常である
>
> > このように、世間が永久に続くのかどうかということと
> > 『生まれたものは必ず滅する』という理法とは全く違うことなのです。
>
> まったく違うことだから答えなかった、と。
>
> 世界が作られたものかどうか、時間が作られたものかどうかには、なぜ答えなかったのか、とお聞きしたくなりますが、一応の答をいただいたので、これはこれで終わりましょう。
> 「まったく違う」という以外の説明の方法は、ないでしょうか。
>
> 無記は、答えないことで良いですか。
> >
>
> > いえ。私はメッタ-さんを想定してはいません。一般的に神を法則と思っている人はいるのではないかと書いたまでです。
>
> まあ、メッタ-さまは反対しているから良いでしょう。
> >
> >
> > なぜ、仏像が古びていくことと関係があるのかがわかりません。
>
> ええい、もう~、冗談はいやですよ。
> 今、仏像が古びていくことをはなしていたじゃありませんか。
> 「すべて形成されたものは無常である」が、ブッダの述べたことだとさかんにおっしゃってたじゃないですか。仏像が古びれば、無常だとわかるでしょう。眼で見て、理法のとおりだと知ることができるのじゃありませんか。
>
> > 私が言ったのは『常住なるものが意思を持つということでは、同じではないでしょうか。』という一点です。
>
> 大日如来の意思は、生類を救うという、ただこの一点にのみあると思います。阿弥陀仏も、ほかの諸仏も、生類を救う、即ち、苦を抜く、というこの点にのみあります。これが法です。法を身体にもつということは、法が生類に行き渡ることでもあり、そのために、大日如来は姿かたちをとっているのです。
>
> さらに言えば、「常住なるものが意思を持つ」ということに、矛盾はでないのでしょうか。
> 常住なのに、どうして意思という無常なものの限定を受けるのか、とか疑問が出そうです。
>
>
> ブッダが無常に対比させて常住を説いたり、虚妄に対比させて虚妄ならざるものを説いたりするとき、言語で言われる相対的な関係を意識しています。「ある」に対しては「ない」があります。しかし、最終的には、これらの相対的な思惟や想は、寂滅していくことを意識して、それらは説かれていくのだと思います。戯論寂滅が、理想の境地ですよね。
>
>
>
>
> > > 無記を良しとするのが、
ショ-シャンクさまである、と今のところ伺っています。
> >
> >
> > 仏陀が無記として、『私が説かなかったことは説かなかったこととして受け止めなさい』と言ったのです。
>
> ===============
> マ-ルンクヤプッタよ、なぜ、これがわたしによって語られたのか:
> なぜなら、マ-ルンクヤプッタよ、これは利益をともなうからである。これは、最初の清浄行のものだからである。これは、厭離に導き、離欲に導き、止滅に導き、寂静に導き、証智に導き、正覚に導き、涅槃に導くからである。それだから、これはわたしによって語られたのである。
>
> それだから、マ-ルンクヤプッタよ、ここで、わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。わたしによって語られたことは語られたことと憶持しなさい。
> ========================
>
> わたしの訳ですが、この前に、四聖諦があって、それに続いて、上記の文章があります。利益がないから、10の学説は、ブッダによって説かれなかった、とあるわけです。
>
> さらに、四聖諦は、最初の清浄行のものだ、とあって「わたしに縁って語られなかったことは語られなかったことと憶持しなさい(記憶し保っておきなさい)」とあって、経典は終わっているのです。
>
> わたしは、ここで最初の清浄行では、形而上学説は使わないという意味だと受けとりました。
> だけど、「記憶しておけ」とは何でしょうか。
>
> > 無記とした事柄につき、あれこれ断定し論じていったのが後世の仏教です。
>
> わたしは、「今は語らない」と読みました。そのうち出てくるだろうというニュアンスを感じますね。そして、やはり、語らなかったことは、やがて出てきます。
>
> 語らざるをえなくなって、縁起により、問題として浮き上がってくるのです。



う-ん、ここでも先生の力技が出ますね。
私は『説かなかったことは説かなかったことと受け止めて、二度とそのことで時間をつぶしてはいけない』と言っているように思えます。
仏陀が説かなかった事項に関してあれこれ考えることは、涅槃に赴かないからです。


>
> そこを説くためには、部派だけではもはや間に合わない、と思います。
>
> 時間論と諸行無常は全然ちがうという理由では、すまない事態が出てきます。
> 世界に終わりがくるのかどうか、無始の輪廻からどうして解脱ということが起こるのか、哲学的問題の根幹に何があるのかを探って行かねばならなくなります。
>
> 大乗は、ブッダの法と関係ないところから出てくるのではありません。すべてを語り尽くして、戯論は寂滅するのだと思います。
> そのために大乗があります。言語を問題にするのが、大乗の中心テ-マになってくるのです。
>
> ブッダの説き方からすれば、龍樹は、予定されていたのであり、空は説かれねばならないのであり、諸仏の世界は広がるようにできています。大乗や密教の世界が広がるように、既にブッダは設定している、としか思えません。
>
> 龍樹がでなければ、仏教は滅びていました。いまだに世界の宗教として通用していること事態が、奇蹟を示しています。



そうなのですかね。龍樹が出なければ、仏教は滅びたかどうかについては私にはわかりませんが、上座部仏教がいまだに存続しているのですから、滅びたということはないと思います。

 

 

 

  [No.23117] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/28(Thu) 11:42:50


====
過去に悟りを開いた仏たち、また未来に悟りを開く仏たち、また多くの人々の憂いを除く現在の世の仏、――正しい教えの師であるこれらすべての人々は、過去に住したし、現在住し、また未来に住するであろう。これが諸仏のあいだの決り(ダンマタ-)である。
=====

私は、この言葉は、やはり『正しい覚りを開くものは、過去にも現在にも未来にもいる。それがもののありようだ。』というくらいの意味だと思います。
次の言葉が『それゆえに、この世において自己を達成しようと欲し、偉大な境地を望む人は、仏の教えを憶念して、正しい教えを尊重しなければならない』となっているからです。
いつの時代でも正しい覚りは開けるのだから、常に正しい教えを念じ、尊重しておきなさい、という趣旨に思えます。


それが後世になると、『法性は過去、現在、未来にわたって常住している』というようになったのではないでしょうか。

こういうことはよくあって、そのすぐあとの言葉(21-16)
『如来なる仏はこの世で自ら現れたものであり』という言葉は、中村元の註によりますと「自分で悟りを開いたのでこのように呼ぶらしい。後代には形而上学的解釈が施されるようになった」とあります。

このように、仏陀が言った言葉とは意味やニュアンスがかなり変わってきて、どんどん形而上学的解釈がなされるようになったと思っています。

ですから、私は、後世の解釈をいったん白紙にしようと思ったのです。
ですから、先生と解釈が違うのは当然のような気がしますが。

 

 

 

  [No.23128] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/29(Fri) 11:17:26

石飛先生、ありがとうございます。

先生はこう書かれています。


> 過去にも現在にも未来にも仏はこの世に出現する、という法のあり方を、信じている人には「常住」と考えてもおかしくないだろうと、言うだけです。信じていない人のことまでは言っていません。認識論ですから。
> 常住というのは、無常と対になっていることばだからです。

ここに書かれていますように、常住とは無常と対ですね。つまり反対語です。

仏陀は、諸行無常=一切の形成されたものは無常である と言いました。

常住があるということは、一切の形成されたものに無常でないものがある、ということです。


> 過去にも現在にも未来にも仏はこの世に出現する、という法のあり方を、信じている人には「常住」と考えてもおかしくないだろう

過去に仏が出現したことがあるでしょう。
未来にも仏が出現することがあるでしょう。
しかし、それを常住とは言いません。
いつもこの世に仏が出現しているわけではなく、過去にいたこともあるし未来にもあるということです。
この世に仏が出現していないときもあるのですから、常住とは言えません。

例えば、仏陀が生まれる直前(直前ですから過去七仏でなく)にどんな仏が出現していましたか。
仏陀が亡くなって、今までの間に、どんな仏が出現しましたか。

未来仏の弥勒仏が出現するのは、56億7千万年後です。

もちろん、心の問題として、信じる人には、阿弥陀仏や久遠実成の釈迦如来が常住しているというのは、大乗の考え方でわかりますが、仏陀はそのことを言っているのではないと思いますので。

 

 

 

  [No.23130] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/29(Fri) 13:52:51



> ショ-シャンクさま 反応早いですね。
> わたしの方が、間に合わないわ。

はい。事務所にいる時は来客ない限り反応早いです(笑)。ただ、あと少しで出ますので、今日はこれで最後の書き込みになるかもしれません。


> > 常住があるということは、一切の形成されたものに無常でないものがある、ということです。
>
> 一切の形成されたものは無常です。常住な世界は、作られざる世界(無為)ということになります。


そうですか。先生は『認識の領域で、ブッダ自身は語っているのです。』と言われていました。
認識の領域というのは、『一切』ですよね。『諸行』だと思いますが。

> >
> > > 過去にも現在にも未来にも仏はこの世に出現する、という法のあり方を、信じている人には「常住」と考えてもおかしくないだろう
> >
> > 過去に仏が出現したことがあるでしょう。
> > 未来にも仏が出現することがあるでしょう。
> > しかし、それを常住とは言いません。
> > いつもこの世に仏が出現しているわけではなく、過去にいたこともあるし未来にもあるということです。
> > この世に仏が出現していないときもあるのですから、常住とは言えません。
>
> そこで、法を身体にもつ仏が考えられてくるようになります。法身仏です。
> 生身の仏は、歴史上に現れては消えていったでしょうけど、法を身体にもつ仏は、法が存続する限り、存続します。「常住」というのも、認識にかかる限りということで、実在論はとっていないのです。
>
> > 例えば、仏陀が生まれる直前(直前ですから過去七仏でなく)にどんな仏が出現していましたか。
> > 仏陀が亡くなって、今までの間に、どんな仏が出現しましたか。
> > 未来仏の弥勒仏が出現するのは、56億7千万年後です。
> > もちろん、心の問題として、信じる人には、阿弥陀仏や久遠実成の釈迦如来が常住しているというのは、大乗の考え方でわかりますが、仏陀はそのことを言っているのではないと思いますので。
>
> では、ブッダは、そのことでなければ、どんなことを言っているのですか。


ですから、『正しい覚りを開くものは、過去にも現在にも未来にもいる。それがもののありようだ。』
あるいは、『過去にも、未来にも、現在にも仏はいたし、出現するだろう。それが決まりなのだ。』
というような事実を言っていると考えています。

認識の領域であれば、一切であるはずです。
そして、一切は無常であるというのが仏陀です。
爪の上の土ほども、無常でないものはないのです。

もし、無為=作られざるもの が常住ということであれば、それで問題はありません。

しかし、『一切有は不生不滅の法性』と書かれていますし、
先生は『認識の領域で、ブッダ自身は語っているのです。』と書かれて、これを語っておられるのですから、
それでは、一切の形成されたものに無常でないものがあるということになってしまう、と言っているだけです。

 

 

 

  [No.23135] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/30(Sat) 08:36:07


> うおっ!ショ-シャンクさま 負けないぞ(笑)
>
> > はい。事務所にいる時は来客ない限り反応早いです(笑)。ただ、あと少しで出ますので、今日はこれで最後の書き込みになるかもしれません。
>
> そうか、よし、この隙に。。。とはいえ、わたしも、明日オンライン講義です。予習がまにあわないよぉ。


先生はお忙しいので、無理はされないように。返信は何日空いても拗ねませんから(笑)
オンライン講義の方が重要です。講義を受ける人はお金を払っていますから(笑)



> > そうですか。先生は『認識の領域で、ブッダ自身は語っているのです。』と言われていました。
> > 認識の領域というのは、『一切』ですよね。『諸行』だと思いますが。
>
> いや、涅槃があります。無為の世界が待ってます。



認識の領域=一切 には、涅槃はありません。
一切を厭離し解脱したところに涅槃があるのですから。



> ちなみに、ちょっと思い出したところによると、諸行の世界は、厳密に言うと、体系的に開いていると思います。
> 閉じた体系の「一切」ではありません。
>
> ですが、法の世界は「一切」なのです。こちらが閉じた体系なので、空は説きにくいのです。「一切(の法)は空である」となります。



諸行と諸法は違うと言われるのですね。これについては後ほど。



> > > では、ブッダは、そのことでなければ、どんなことを言っているのですか。
> >
> >
> > ですから、『正しい覚りを開くものは、過去にも現在にも未来にもいる。それがもののありようだ。』
> > あるいは、『過去にも、未来にも、現在にも仏はいたし、出現するだろう。それが決まりなのだ。』
> > というような事実を言っていると考えています。
>
> 事実か? 事実の正体はなんだろう、とひとり言風に言ってみます。

仏陀は、三明でありありと見たのです。
仏陀にとっての事実です。仏陀が想像して言っているわけではありません。
仏陀にとって事実だったと思われませんか?

> > 認識の領域であれば、一切であるはずです。
>
> お、先ほど述べたお話しが当てはまりますね。
> 認識の領域ですが、確かに「一切」です。
>
> > そして、一切は無常であるというのが仏陀です。
>
> こっちの一切は「行」についてです。無常は、行についていうのです。「法」ではありません。
> 行は、意思や意欲、志向作用などのことで、それらによって世界が作られていくので、現象や事象など、果ては「ものごと」などとも訳されます。
>
> 法は、ことばで言い表されるものごと、ことば、を指します。
>
> 行も法も、どちらも、下手をすると「ものごと」と訳されますから、こんがらがるかもしれませんが、ブッダ自身は厳密に分けています。


そうなのですかね。
そこは納得しかねます。
確かに、法と行は、出発点は違うのですが、どちらも、ものごと=現象という意味を持ち始めます。
現象=つくられたもの を法(ダンマ)によって現象しているものと捉え、
行によって現象しているものと捉えたりしたので、
どちらも、同じ『ものごと=現象』という意味を持つようになります。
ですから、私は、諸行と諸法は、『一切の形成されたもの』=現象 という意味で同じだと考えます。

> > 爪の上の土ほども、無常でないものはないのです。
>
>
> > もし、無為=作られざるもの が常住ということであれば、それで問題はありません。
> >
> > しかし、『一切有は不生不滅の法性』と書かれていますし、
> > 先生は『認識の領域で、ブッダ自身は語っているのです。』と書かれて、これを語っておられるのですから、
> > それでは、一切の形成されたものに無常でないものがあるということになってしまう、と言っているだけです。
>
> 『ウダ-ナ・ヴァルガ』26.21に、こういう詩があります。
>
> 不生なるものがあるからこそ、生じたものの出離を常に語るべきであろう。
> 作られざるもの(無為)を観じるならば、作られたもの(有為)から解脱する。
>
> 作られたものの世界(有為)と作られざるものの世界(無為)があります。
>
> 作られざるものの世界も現観することができます。悟りを開けば、ですが。
> 認識の世界ですよね。さらに、ことばや思惟の対象となる世界があります。これらが法の世界です。これらも、また認識の対象です。そして、法については、諸法無我という法(おしえ)があります。

私の大好きな箇所です。
ここにおいて、仏陀は、かなり踏み込んだ表現をされているなという印象です。
このような箇所を読み取った後世の人たちが大乗仏教を興したのではないかと思っています。

 

 

 

  [No.23147] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/10/31(Sun) 18:00:41


> 人々は因縁があって善い領域におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域にお
> もむくのである。人々は因縁があって、ニルヴァ-ナに入るのである。このように、このことは因縁にもとづいているのである。(『ウダ-ナ/ヴァルガ』26.9)
>
> 因と縁による世界を通って、因と縁によらない世界に到達する。

この因縁という言葉も、仏陀の使っていた意味からかなり変わっていった言葉のように思えます。
仏陀が使った言葉では、因も縁も原因という意味です。
違いはありません。もっと言えば、因も縁も直接的な原因です。
ですから、この文は、
人々は原因があって善い領域におもむくのである。ひとびとは原因があって悪い領域におもむくのである。人々は原因があって、ニルヴァ-ナに入るのである。このように、このことは原因にもとづいているのである。
ということだと私は考えます。
そして、その原因とは、kamma=身口意の行為 のことです。
つまり、
人々は行為があって善い領域におもむくのである。ひとびとは行為があって悪い領域におもむくのである。人々は行為があって、ニルヴァ-ナに入るのである。このように、このことは行為にもとづいているのである。
という意味だと考えています。

先生が『因と縁による世界を通って、因と縁によらない世界に到達する。』と言われているのは、
たぶん、二元的な世界を通って、一元的な世界に到達する、というような意味ではないかと思います。
かなり大乗的な色合いが強いように感じますが。




> > > 事実か? 事実の正体はなんだろう、とひとり言風に言ってみます。
> >
> > 仏陀は、三明でありありと見たのです。
> > 仏陀にとっての事実です。仏陀が想像して言っているわけではありません。
> > 仏陀にとって事実だったと思われませんか?
>
> 言いたいことはわかりますが、わかるからこそ!そうは思いません。
> ショ-シャンクさまの言う「事実」というのは、検証さるべきものだと思います。
> わたしたちがふつうに考えることを、ブッダが同じように考えた、という保証はどこにもないです。


帰依仏帰依法帰依僧です。
帰依仏は、仏陀が苦の消滅へと至る理法を説いた人であると絶対の信頼をすることだと思います。嘘をつかない、騙さない人だという信頼は当然のことです。
仏陀が三明で自ら見たというのであれば、それは嘘ではなく、仏陀にとって事実だったと信頼しなければ、そもそも仏教は成り立ちません。検証する前段階というか、前提として、仏陀の言うことは真実だと信頼することは当然です。


> そうとらえると界(ダ-トゥ)がわけわからなくなりそうですね。
>
> 五蘊の中に「色受想行識」と「行」があります。ここには法はありません。
> 六根・十二処の中に「眼耳鼻舌身意」「色声香味触法」とあって、ここに「法」が出てきます。
> さらに、十八界というのもあります。うえの十二処に、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を加えたものです。
>
> これらは、すべて、ことば(法)で告げられていますから、全部出てきたことばは法です。
> また、心の中で思われるだけでも「法」といわれます。
>
> 五蘊・十二処・十八界の中におさまるものはすべて、法であり、ブッダの言う「一切法」になります。
>
> だから、「行」について語るとき、「諸行は無常である」も、行について述べていますが、法として扱うこともできるのです。

『法』には様々な意味があります。どの意味も非常に重要です。
1,真理とか理法という意味
2,「色声香味触法」の法は、意の対象で、考える対象という意味。
3,現象という意味

このように大きく分かれますから、その時々でどの意味かを判別しないとわけわからなくなります。


> > ですから、私は、諸行と諸法は、『一切の形成されたもの』=現象 という意味で同じだと考えます。
>
> ここも、おっしゃっていることはわかります。そうとらえて良いところは大半です。一般の人にはそれで十分なのですが、覚りに向かう場合は、それだけではすまないのです。
>
> 十二支縁起があります。ものごとの原因を追及するためのブッダが考えた公式ととらえてもいいかもしれません。
>
> 無明に縁って行がある。行に縁って識がある。識に縁って名色がある。名色に縁って六処がある。………(逆観は省略)
>
> ここにある単語「無明」「行」「識」「名色」などは、法であります。ことばになってますから。そして、また、これら一々は、ブッダにより「界」とも名づけられています。「領域」とか「要素」とか訳されています。十八界の「界」と同じです。
>
> そうなるとですね、この十二支縁起の中で、界にはなっているけれど、法にならないと考えられるものが出てくるのですが、わかりますか?
>
> 無明と行の二つの界です。識は、界の中に名を刻んでいますが、法になっていないところもありますね。
> そうすると、無明・行・識の三つとしてもよいかもしれません。
> 名色は、名(ナ-マ)とありますから、ここは法と同じ外延をもつでしょう(論理学用語を使えばですが)。
>
> しかし、「行」というのは、十二支縁起の二番目に来るこの「行」は、ことばで言われるものからはみ出ています。識や名色の原因になるものです。言語を実は超えていることが想定されるのですが、そこは気づく人しか気づきません。
> さらに、無明は、もっともわかりにくいものです。ほとんどの人が何だかわかりません。これは、ただ‘ことばのみ’と見られるかもしれませんね。
>
> 十二支縁起にしても五蘊十二処十八界にしても、全部ことばでいわれますから、その意味では、みな法ではあります。ですから、「行」も「法」もいっしょ、と見ても、仕方がないかもしれませんが、覚りにいこうと思うなら、これはもう少し良く考えて、分けて見るべきです。
>
> 十二支縁起にある無明と行と識は、覚りに向かう人のためのものです。
>
> 二つの真理にもとづいて、諸仏の法の説示がある。世俗の真理(世俗諦)と第一義の真理と(第一義諦)である。(『中論頌』24.8)
> 言語活動によらずには、第一義を説くことはできない。第一義に到達しなくては、涅槃を獲得できない。(『中論頌』24.9)
>
> ことばを超えたところにある、というのは、実際そのとおりでしょう。ですが、見た目、わたしたちと違うところはありません。身体があって、意識があって、ごはんを食べたり寝たりしていても、涅槃にある人は涅槃にあります。
> ふつうの人と同じように暮らしています。
>
> 輪廻は涅槃とまったく区別なく、涅槃は輪廻とまったく区別がない。(『中論頌』25.20)


『法』を言葉と見るのは、いまの私には理解できません。

十二縁起の『行』は実に深い言葉だと思います。
ここの『行』が解明できたら、十二縁起は完全に解明できる感じです。
『行』という言葉に含まれる意味のすべてが当てはまるようでちょっと深遠過ぎます。
意志も潜在的形成力も行為も業力もすべてが当てはまりそうです。


> > このような箇所を読み取った後世の人たちが大乗仏教を興したのではないかと思っています。
>
> 「後世の」と言いたい気持ちは、法(ことば)の枠内で捉えることから生じてくると思います。
>
> 「はじめにロゴスありき」のキリスト教が、了解できないところを、仏教は観じているのです。
> 「大乗」は「後世」に生まれたのではなく、ブッダの出現以前からあった道である、とも言えます。
> 菩薩がでなければ、ブッダにはならない。声聞も辟支仏も、ブッダによって生まれてくる道とも言えます。
> 悟りを求める心が起こらなければ(=「行」がなければ)、ブッダに成ることはないのです。ブッダに成らなければ、ブッダの教えはありません。
>
> 「後世」もなければ「前世」もないと知るとき、わたしたちは、こうして、常識といわれるものの危うさを知っていくのだと思います。

ここですね。
先生が一番言われたいことは。
【 「大乗」は「後世」に生まれたのではなく、ブッダの出現以前からあった道である】
ここは重要でしょうから、しおりを挟んでおきます。


 

 

  [No.23156] Re: ショ-シャンクさま、 [No.23085] に答えて 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/01(Mon) 09:43:35


> 「行いによる」と言っても単純なことではなく、わずかに行いを変えることも、因と縁によることなのだ、と知っていくことでしょう。人間が、なかなか変われないのは、因と縁がないからですね。自分の行為を変えることがなかなかできないからですし、変わらない自分だからこそ、なかなか、そういう縁にもめぐりあわない、ということもあります。
>
> 全部因縁で網の目のようにつながっているのだ、と知るならば、ニルヴァ-ナは、ラクダが針の穴を通るようなものだと思うかもしれません。
> また、だからこそ、精進努力が必要なのだ、と思うかもしれません。


仏陀は、『因縁』と言う言葉を直接的な原因という意味で使っています。
因も直接原因、縁も直接原因です。
後世になって、因が直接原因、縁が間接原因または条件のようになってしまいましたが、仏陀はどちらも直接原因です。
先生は後世の解釈、特に龍樹以降の解釈で、因縁も縁起も解説されています。

ですから、解釈が違うのは仕方ないことで、これについてこれ以上論じるつもりはありません。
私はあくまでも、歴史上の仏陀が言った意味を探しているのです。



> 因と縁をよく知るためには、ア-トマンをもっているとうまくいかないと思います。(諸法無我)

私は、仏陀は存在の根源については無記だったと言ったまでです。
それを『ア-トマンを持つ者』と決めつけるのであれば、これ以上論じても意味ないです。



> > 『法』を言葉と見るのは、いまの私には理解できません。
> >
> > 十二縁起の『行』は実に深い言葉だと思います。
> > ここの『行』が解明できたら、十二縁起は完全に解明できる感じです。
> > 『行』という言葉に含まれる意味のすべてが当てはまるようでちょっと深遠過ぎます。
> > 意志も潜在的形成力も行為も業力もすべてが当てはまりそうです。
>
> ふうむ、悟りを得ようと思わないと、そんな理解になるのかもしれないです。
>
> 悟りを得たい人は、自分の出来そうな界を選んで、そこで実践すると思います。十二支縁起の全部を実践しなければならない、ということはないのですが、ある程度進んで来ると、下の方の界を滅して、うえの界だけが残っていくように観じるでしょう。
>
> 五支縁起が説かれたりするのも、それぞれの人のためだと思います。
> しかし、最後に滅しようとしてなかなか滅することがむずかしいのが、無明・行・識だと思います。残っている煩悩は、全体の中のわずかではありますが、ここが壊れるのは、ほとんどありえないに等しいくらい困難なことだと思います。
>
> それで、「因縁があってニルヴァ-ナに入る」とも言われるのだと思っています。


十二縁起についても、私とは全く違う捉え方をされていることがわかりました。

> 悟りを得たい人は、自分の出来そうな界を選んで、そこで実践すると思います。十二支縁起の全部を実践しなければならない、ということはないのですが、ある程度進んで来ると、下の方の界を滅して、うえの界だけが残っていくように観じるでしょう。

これはびっくりしました。
十二縁起は、十二個の修行項目ではありません。
私たちの存在が、自我を構築し、苦の集積に向かう、その有り様の全体を洞察するものです。
1個1個切り分けて実践するようなものではありません。

私の認識とは全く違うことがわかりました。
どちらが正しいとか間違っているではなく、全く違うと言うことです。

そういえば、三十七菩提分法についても、1個1個を実践したり捨てたりすることを言われていました。
十二縁起についても、三十七菩提分法についても、私の理解とは全く違うことがわかりました。

そして、これは違ってもいいと思いますし、どちらが正しいと論じることでもなく、
実践してみて、慧に向かうことができればいいのだと思います。

ですから、これ以上、論じることは無駄だと思っています。