現成公案

  [No.23241] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 08:25:01

> わたしは、 二十歳の時に、 “ 揺れている ” と 知った
> ( 揺れることなき わたしを得た )
>
> その時から わたしは、 揺れる道 を 歩んできた


> 岸が移る のではなく 、 川が流れるのでもなく 、
> 心が 揺れている
> 舟に乗る 心が 移り 揺れる
>
> ソウ で あっても
> 岸 は 揺れ動く




春間さんは、二十歳のとき、一瞬だけ揺れることなきわたしを見たものの
それからはずっと揺れ続けてきた、と解釈してもいいですか?(笑)

 

 

  [No.23250] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 10:59:09


> 人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
> 人、舟にのりてゆくに、目をめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる、目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。
>
> 人がはじめて法を求めるときは、法の終極(限界)を離れている。法がただしく自分に伝わったとき、たちまち法の本分はその人(自身)である。
> 人が舟に乗って進み、遠くに眼をめぐらして岸を見ると、まるで岸が進んでいくようにみえる。。眼を親しく舟に引き戻して見るならば舟の進んでいるのを知るように、身心が乱れた状態で思いながらあらゆる法を了解していこうとすると、自分の心や自分自身は常住であるかのように思いあやまる。もし、日常の行住坐臥をしたしく現にあるものとして眼をむけるならば、万法に我がないという道理は明らかである。(または、万法がわたしではないという道理はあきらかである)
>
> こんな風に読めるかと思うのですが、
>
> > > ソウ で あっても
> > > 岸 は 揺れ動く
>
> というのが、ようわからん、
>
> 世間とともに歩む、と言っているのかな、と思うけど、わかりません。



おっしゃるように、正法眼蔵の言葉やパ-リ涅槃経の言葉、六祖慧能の非風非幡などから成り立っているのでしょうけど


> > ソウ で あっても
> > 岸 は 揺れ動く


これで、尻尾が出てしまった感じに見えます。

仏陀や六祖慧能や道元の言葉には破綻がないのですが、
同じようなことを言っても、私たち凡人が言うと、どこかにほころびが見えてしまいます。

 

 

  [No.23256] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/03(Wed) 17:59:25


> 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
> このようにあって、「そうであっても、華は愛おしく散っていき、草はいやらしくおがってくるのだよ」とありますので、
> 「そうであっても、岸は揺れ動く」という言い方もできなくはないですが、そう知っても、自然界のできごとが変わるわけではない、ととるのかな、などと思ったり。。
> 解釈にはいろいろありますね。


先生は、春間さんが何か悟ってるという前提なので、私も突っついて反応を見てます(笑)
今のところ、いつもの決まりきった反応です。
もう少し、何かキラッとした著語の一つでも出れば、何かがあるとわかるのですが。

『岸は揺れ動く』を『華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり』に見立てるのはちょっと無理があるかもしれません。
華は散り、草は生えるのが世の習いですが、岸は揺れ動きませんので。

岸を、青山常運歩の意味で『動いている』と言ったのであれば、少し、『ひょっとして』と思ったかもしれませんが。

いずれにしても、『岸は揺れ動く』で道元が言っているのは、舟に乗って揺れている者は岸が揺れているように見えるということですので、
実際は揺れてないけれど迷いの衆生には揺れているように見える例えですから、春間さんが『岸は揺れ動く』と見るのであれば、乗ってる舟が揺れているだけでしょう(笑)

 

 

  [No.23263] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/04(Thu) 09:59:48


> > 先生は、春間さんが何か悟ってるという前提なので、私も突っついて反応を見てます(笑)
>
> 概して適切だと思います。ときどき自分でもわからなくなりますが(笑)
> ご本人が、マジなときとそうでないときがあるような気がしますね。混ぜてる感じ。


そうなんですかね。
まあ、祭りの露天のくじ引きでいい賞品が当たる確率のような気もしますが、時々くじを引いてみます。


> > 『岸は揺れ動く』を『華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり』に見立てるのはちょっと無理があるかもしれません。
> > 華は散り、草は生えるのが世の習いですが、岸は揺れ動きませんので。
>
> いや、そうではなく、「岸が揺れ動く」のと、「華が愛惜に散る」「草が棄嫌におふる」のは、相応すると思います。
>
> 自己を中心にみるとき、岸が動くように見えるわけです。
> 自己を中心にみるとき、華はいつまでも咲いていてほしいのに散っていき、雑草は生えなくていいのにどんどん生長するわけなのです。
> どちらも、自己を中心に見ている立場ですが、同じように見えても、ちがうときがあります。
>
> 初めは何も知らず、仏法には気づいていないときも、自分中心にみたり、人によっては見なかったりします。仏教の見方を学んで、そして、「迷悟あり修行あり」と知り、「万法の我にあらぬ道理あきらけし」となっても、そうであっても、なおも「岸が揺れ動く」ようにみ、「華が愛惜に散る」「草が棄嫌におふる」と見るのは、また一つの生き方だという気がします。
>
> ある種、ものの見方を得ているけれども、そうであっても、ほかの何も仏法を知らない人と同じように生きていくという生き方を選ぶこともできます。

咲いてる花を楽しみ、その散りゆく様を惜しむのはありだと思います。
庭の雑草は刈らなくては大変なことになります。
しかし、岸が揺れていると思い込む必要はないですね。
足下の舟に目をやれば舟が揺れていて岸は揺れてないことがわかると道元も言っています。
草を抜くのはいいのですが、岸が揺れ動くと思い込んでしまうのは巻き込まれているだけです。
周囲の人に合わせて岸が揺れ動いていると見るのはどうなんでしょうね。
周囲の人と、散る花を惜しむのは生き方としてはありでしょうけど。

> > 岸を、青山常運歩の意味で『動いている』と言ったのであれば、少し、『ひょっとして』と思ったかもしれませんが。
>
> これも、ことによると同じかもしれません。

やはり違うような気がします。
仏陀が岸の喩えをしてから仏教では岸というのは悟りの境地の喩えで、まともな仏教者であればそれを外してないでしょう。道元も岸が揺れ動くのではなく、舟が揺れ動いていると言います。
青山常運歩の意味で岸を使うのは、仏教者としては筋が悪い気がします。


> > いずれにしても、『岸は揺れ動く』で道元が言っているのは、舟に乗って揺れている者は岸が揺れているように見えるということですので、
> > 実際は揺れてないけれど迷いの衆生には揺れているように見える例えですから、春間さんが『岸は揺れ動く』と見るのであれば、乗ってる舟が揺れているだけでしょう(笑)
>
> そうかな?揺れてないんとちゃいますか。
> 「そうであっても岸が揺れ動く」というのは、わかったうえで、あえて自分で選んでそうしている、ということですから。
>
> こういう人は、いろいろと生き方を変えられそうだとも思いますね。

かなり凝り固まっているような気もしますが(笑)
二十歳のときに、見性のような体験、一瞥体験はあったのだと思います。
見性する人は禅を中心に数多いでしょうから。
ただ、その体験をほとんどの人は、自我に組み入れてしまって、『俺は悟った。偉いんだ。お前たちは悟っていない。俺が教えてやろう。』となってしまいます。
かえって自我が膨張してしまうのです。
悟った自分が一番偉いのですから、他者をことごとく否定して回ります。

なかなか生き方を変えるのは難しいでしょう。

 

 

  [No.23270] Re: 論ずること がなく ウダ-ナ がある 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/11/05(Fri) 10:10:47


春間さんが悟っているという結論が先にあって、その結論を読み込んでいったために、ちょっと違和感を感じる表現でも、『何か悟りに裏付けされた意味がある』と解釈されているような気がします。

春間さんは、私が指摘するまでは、さかんに『縁起を見る者は私を見る』もしくは『縁起を見る者は仏を見る』と言う言葉を多用していました。
仏陀は、『縁起を見る者は法を見る』とは言いました。
そして別のところで、『法を見る者は私(仏)を見る』とは言いました。
しかし、勝手にこの2つの言葉をごちゃ混ぜにしたとたん、台無しになりました。

それと同じ事が、下の文章にも起こっているような気がします。

> わたしは、 二十歳の時に、 “ 揺れている ” と 知った
> ( 揺れることなき わたしを得た )
>
> その時から わたしは、 揺れる道 を 歩んできた


> 岸が移る のではなく 、 川が流れるのでもなく 、
> 心が 揺れている
> 舟に乗る 心が 移り 揺れる
>
> ソウ で あっても
> 岸 は 揺れ動く



これは先生が挙げられた、道元の『 人、舟にのりてゆくに、目をめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる、目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。』と言う言葉と、
六祖慧能の『非風非幡』、
この2つを混ぜたものです。

『非風非幡』
六祖、因みに刹幡をあぐ。
二僧有り、対論す。
一は云わく、幡動く。
一は云わく、風動くと。
往復して曾て未だ理に契わず。
祖云わく、是れ風の動くに非ず、是れ幡の動くに非ず、仁者の心動くのみと。
二僧悚然たり


道元の喩えでは、岸と舟だけが出てきます。岸が揺れ動いていると見えるが、足下を見れば舟が揺れ動いているからそう見えるのであって、岸は動いていない、という喩えです。

これに、『非風非幡』の『心が動いている』を混ぜ合わせたものです。
幡という、見ている対象が動いているのではなく、心が動いているのだということを、『動く』ことが共通なので安易に混ぜ合わせたために、意味が曖昧模糊となってしまいました。

ごくごく短い文章に、『道』『岸』『川』『心』『舟』と揺れるものが5つも出てきています。

道元は、揺れる舟を心の乱想に喩えているのであって、舟という心の喩えがあるのに、ここに『心』を出してしまうと、どれも比喩として成り立たなくなります。
例えば、『舟』で何を喩えているのか『川』で何を喩えているのか、舟と川の違いは何かなど、重複するものを出せば出すほど意味をなさなくなっているのです。

禅語の何個かを適当に組み合わせていけば、仏教を知らない人には何か禅語っぽい、深遠な悟りを示唆するような言葉に見えてしまうかもしれませんが、違和感を感じる人もいるでしょう。

私は何か、この『詩』に、
『縁起を見る者は私を見る』という造語と同じようなにおいを感じてしまいます。


もちろん、これは私の勝手な感想を書いただけのことです。
先生の、この春間さんの『詩』が悟りに裏付けられたものだというお考えに反対して論争したわけではありません。

ひとつの『詩』への感想が、先生と私で違っているということです。

ご説明、ありがとうございました。