彼岸道品

  [No.21773] 「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い論文論文 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/09(Wed) 10:55:20

石飛先生、おはようございます。

先生の「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」」論文を読ませていただきました。

素晴らしい論文でした。
おっしゃるように、あの、短い問答をここまで深く掘り下げた考察は見事だと感嘆いたしております。

『有』の展開としての現象世界、ブラフマンの流出としての世界、諸々の流れはあらゆるところに向かって流れていく、
このように見ていたアジタにとって、
そのような流れを、『気づくこと』によって遮り、智慧によって止める、という仏陀の答えはさぞかし衝撃だったことでしょう。

それ以上に、『無明が頭であると知りなさい。明知が頭を落とすものであります。』という仏陀の言葉は
天地がひっくり返ったようなものだったでしょうね。

頭が裂け落ちると脅された師匠が十六人の弟子を遣わしたのですから、当然、弟子のアジタは、『師匠の頭が裂け落ちると大変だ。なんとかしなきゃ。』と強く思っていたはずです。

それをよりにもよって、仏陀は、無明が頭で明知が頭を落とすものだというとは、ここは後世の禅問答の発祥のようにも思えます。
相手の見解を根こそぎ奪っていますね。
驚天動地の大転回がそこにはあります。

短い問答の中で見落とされているヴェ-ダ思想の背景とそれに対する仏陀の鮮やかな答えを、ここまで深く切り込んで考察されているのは素晴らしいことです。

 

 

  [No.21775] 三十六の好楽のへの流れ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/09(Wed) 13:06:20

石飛先生、ありがとうございます。

ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか。

『339 偈にある【三十六の好楽のへの流れ】というのは,渇愛の三種類(欲愛・有愛・無有愛)と,六内処(眼耳鼻舌身意)とその対象,六外処(色声香味触法)を併せた十二処をかけ合わせた数である。』
と書かれています。

中村元訳註では、この三十六の流れに関しては、様々な説を挙げながらも、どれも典拠が不明でどれもが確定していないように書かれていました。

先生が、『三十六の好楽のへの流れというのは,渇愛の三種類(欲愛・有愛・無有愛)と,六内処(眼耳鼻舌身意)とその対象,六外処(色声香味触法)を併せた十二処をかけ合わせた数である。』
と思われているのは、どのような理由からでしょうか。

また、十二処を欲愛・有愛・無有愛の3つにかけ合わせた場合、どのような意味になるのでしょうか。
十二処における欲愛はよくわかるのですが、十二処における無有愛というのはどういうものと思われていますか。

 

  [No.21781] Re: 三十六の好楽への流れ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/10(Thu) 11:16:53

三十六の流れは渇愛の網羅ということですね。

それにしても、無有愛というのはわかりづらいですね。

有が生存ということから、生存欲否定、つまり自殺への衝動と解説している人もいますし
殺したい、破壊したいという願望と言う人もいます。

「無有」とはvibhavaという原語で、「生存を離れること」ということであれば、仏教の目指すところです。
有すなわち生存を滅することで苦が滅するのですから、vibhavaはいい言葉のはずです。


できれば、
欲界 色界 無色界 に対応して
欲有 色有 無色有 があるように
欲愛 色愛 無色愛 であれば、非常にわかりやすかったのにと思います。
言っても仕方ないことですが。

 

 

  [No.21776] 賊という褒め言葉 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/09(Wed) 18:08:32

> > それをよりにもよって、仏陀は、無明が頭で明知が頭を落とすものだというとは、ここは後世の禅問答の発祥のようにも思えます。
> > 相手の見解を根こそぎ奪っていますね。
> > 驚天動地の大転回がそこにはあります。


> ここ!おもしろいです!
> ショ-シャンク
さまは、ここに禅問答を見るのですねえ、な~るほど。
> 禅問答って、こんな感じなんですね、わたしも、なんとなく禅問答が分かって来たような。。



禅問答の痛快さは、相手の固定観念や見解を根こそぎ奪ってしまうところです。

禅問答では、よく、『賊』という言葉が出てきます。

賊というのは泥棒のことで、『この賊め!』などと言います。

日常生活では、『この泥棒め』というのは罵倒語ですが、
禅の世界では、『賊』というのは、最大の褒め言葉です.

ですから、『柏樹子の話に賊機あり』と言えば、褒めちぎったことになります。

アジタの問いでは、頭が裂け落ちたら大変だ、という固定観念を根こそぎ転回させています。
仏陀もなかなか賊の親玉ですね。

 

 

  [No.21780] Re: 「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」論文 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/10(Thu) 11:06:37

先生も書いておられましたが、アジタはどこに立脚しているのかわかりづらいところがありますね。

「有」の展開、生命が流れ出ること、ブラフマンの流出としての世界、
この説を、アジタは肯定的に見ていたのかそうでないのか、がはっきりしないまま、仏陀との会話で混乱している感じがします。

『ウッダ-ラカは,有(sat)を宇宙の根源とする。太初にはこの有だけがあって,これが多となろう,繁殖しようと考えて,創造をはじめると説いている。』と書かれていました。
この、多様となりたい、繁殖したい、という『有』の意思をアジタはどう捉えていたのでしょうか。


『あらゆる処に向かって流れるのが,諸々の流れなのです。諸々の流れを遮るのは何ですか。諸々の流れを防ぎ守るものを語ってください。何によって諸々の流れは防ぎ止められるのですか。』
とアジタは聞きます。
この言葉からは、『諸々の流れ』は悪しきもの、防ぎ止めるべきもの、と考えていたように思えます。


しかし、
『智慧と気づくことと,名称と形体とは,どこにおいて破壊されるのですか』と聞いていることが、アジタが考えていることの理解を難しくします。

『智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。

仏陀は明らかに、『智慧』と『気づくこと』が、『名称と形体』など多様への流れを止めると言っているにもかかわらず
アジタは、『智慧』と『気づくこと』と『名称と形体』を同列にしています。

アジタにとっては、『智慧』も『気づくこと』も『名称と形体』も同じく、『その途中で出て来る変異物』と考えていたのでしょうか。

 

 

  [No.21786] Re: 「『スッタニパ-タ』第5章「彼岸道品」における「アジタ学人の問い」論文 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/10(Thu) 15:16:31

> いや、そうとも言えないです。諸々の流れは、命我の流れでもあるように感じます。つまり、個人に存在するア-トマン(魂のようなもの)であって、それが流れている限り、その人は生きているという思想です。したがって、防ぎ止めないと、ア-トマンがさっていってしまうかもしれない、ア-トマンに出て行かれると、その人の命はないものとなって、身体はうち捨てられた衣のようなものになってしまう、と考えていたのではないでしょうか。


> 有(サット)という最高原理から名称が展開して、種々の現象界を生み出すという立場では、名称である「智慧」や「気づくこと」は、まず「有」から展開したものであることは明白だというところではないかと思います。

 


スッタニパ-タを読んでどうしてもわからなかったところが、先生のご説明によってわかりました。

アジタが言った『諸々の流れ』が、中村元訳のように『煩悩の流れ』という否定的に捉えた言葉でなく、生命の流れ、あるいはプラナの流れのようなものを想定していたとは、思いもつきませんでした。

そして、アジタの質問の
『智慧と気づくことと名称と形体とは,どこにおいて破壊されるのですか』の意味がどうしてもわかりませんでした。
名称と形体が破壊されることがあっても、智慧と気づくことが破壊されるとは、その意味が理解できませんでした。
アジタにとっては、智慧や気づきも最高原理から流出したものに過ぎないと考えていたのですね。

先生のおかげですっきりとしました。
ありがとうございます。



それにしても、ヤ-ジュニャヴァルキヤが言ったという
『無明を念想する者たちは,暗黒の闇に入って行く。だが一方,明智に愛着する者たちは,それより一層大きな闇に(入って行く)。』という言葉はすごくないですか。
先生は、ヤ-ジュニャヴァルキヤは小さな虫のようだとおっしゃいましたが、仮に虫としても9cmのオオクワガタではあるような気がしますが。

 

 

  [No.21790] 一無位の真人とは 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/11(Fri) 10:47:25



> > 趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師の心には境など存在しないのです。
> というところや
> > 天地一パイの柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。
> というところを読んで、もしかして、ブログを書いている方は、気づかずにヤ-ジュニャヴァルキヤに戻ったりしていないよね、っと、ちょっと心配してしまいました。まあ、禅の方なので大丈夫だとは思いますが。ことばづかいがちょっと心配です。


いまの禅の人は、このブログの人のように、『天地一パイの柏樹子』とか『天地一パイの自分』とか言うことが非常に多いです。
『大我』が前提のことが多いように思えます。
ワンネスやネオアドヴァイタ、ノンデュアリティそのものの禅者も数多いです。

『十牛図』では牛飼いの童子が逃げた牛を探しに行きます。
牛は、本来の自分のことです。
ところが、第7図以降は牛は登場しません。
第8図に至っては何も描かれていません。
ここが十牛図の優れたところなのでしょうが、ただ、やはりほとんどの人は牛を実体化して見ているのでしょう。

仏陀の教えの核心は、矢を抜くことだと思います。
本当に矢を抜くことができるのかどうか。
そこが禅に限らずすべての仏教あるいは仏教以外の宗教でも問われなければいけないところでしょう。

そもそも、自分に矢が刺さっているとはほとんど誰も気づいてないのですから、大変です。
仏陀が悟ったときに、『説いても無駄だ』と思ったのも当然な気がします。

禅で本当に矢を抜くことができるのか、それは少し疑問です。
見性をしたことを印可されても、その体験がかえって我塊になり矢になって刺さることも数多い感じがしています。
ごく少数の天才的な人は、禅で悟って矢を抜くことができたのでしょうけど。



> ヤ-ジュニャヴァルキヤを超えて、ブッダが登場したと思います。
> もし、ブッダが出てこなければ、いまだに、ヤ-ジュニャヴァルキヤがインド思想の頂点にいるだろうと思います。また、西洋的な思想も、インド思想の影響を受けて、そのエゴを膨らまし続けるだろうと思います。
> 今日、このように、ヤ-ジュニャヴァルキヤを乗り越えてブッダが出てきたことが忘れられると、またぞろ、芳和さまのようなことをいう人や、ちょっと心配な「絶対的な境涯」などということをいう人が出てくるのじゃないかと、案じています。
>
> 「庭前の柏樹子」が、境(認識対象)ではないのは、
> 絶対的な境涯 だからではなくて、ア-トマン(エゴ)が脱落している からではないかと。。。
> 道元でいえば、身心脱落 ということです。


最も根本的な問題ですね。

臨済に『赤肉団上に一無位の真人あり 常に汝等諸人の面門より出入す 未だ証拠せざる者は 看よ看よ』という言葉があります。
一無位の真人が、肉体の感官から出入りしているというのです。

この一無位の真人と無我との関係はどうなのか、一無位の真人とア-トマンはどう違うのか、
そもそもア-トマンとは何か、ブラフマンとは何か、自洲の『自』とは何か、ここは本当に難しく、この根本的なところで混乱を極めていると言う気がしています。

 

 

  [No.21793] 十牛図は幼稚かもしれませんが 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/12(Sat) 10:17:30



> う-ん、そうですか。ちょっとひっかかりますね。
> まあ、「空」でも、アドヴァイタ的理解をする人がたくさんいますから。
> こちらの方が、考えやすいということかもしれません。

確かに、アドヴァイタはわかりやすいですね。
頭で十分理解ができます。


> 第7図以降に牛が出てこないところが、何とか、仏教の面目を保っている感じですね。
> その分、第6図までの「牛」が、問題になるかと。
> 牛を「心」と見るなら、心で統一すればよいと思いますが、「自己」とか言われると、「なに?」とか思いますよね。「自己」は、本来、ふつうの意味での「自分」でしょうね。
> ざっくり言えば、変転する心を制御して、落ち着きを得て、利他の行いをしていこう、ということと理解してよいのだろうと思います。
> 「自己」とか「真の自己」とか、言う必要があるのだろうか。ここが、問題のように思います。


先生が、そこを問題とされるのは理解できます。
しかし、私のようなレベルのものは、『現在の自分と違う本来の自分』というものを設定したほうがわかりやすいことも確かです。
またそのような『化城』を設定しないと行こうという気にならないところがあります。

禅では、『父母未生以前本来の面目』を徹底的に考え抜きます。
もちろん考えても答えが出るわけはないのですが、これはある程度効果があるやり方だと思います。
私は、黙照だけの禅では、どこにも行き着かず、やはり仏陀の理法を洞察するやり方が最善だと思っているのですが
『父母未生以前本来の面目』は、知らず知らずに五蘊非我を観ずる結果になることもあるような気がします。



> 十牛図は、「人」を中心に語っていて、五蘊とか身心とかには触れていない見方をとっているようです。だから、「牛」と「牧者」なのでしょう。
> これなら、これで押し通した方がいいです。
> たえず「牛」を制御している「牧者」となってくる。そうなると、制御されるので「牛」が消える。 (図7)
>
> 牛は牧者と一体化した(?)と考える。(となると、「牛」は「自己」ではなく「心」と観るべきでしょうね)
> そして、牧者も消える。なぜなら、牧者である必要がなくなるから。(図8)
>
> 「返本還源」とあったけど、自然(外界)が再び現れるということは、牧者が復活したということだけど、牛はいないので牧者である必要はない。牧者でなければ何になるのか。。ということで、認識の対象だけがかがやく。(図9)
>
> 図9のように、認識対象があるなら、認識主体もあるだろう。見る目はどこにあって、それは、誰なのか。。ということで、他を救う布袋さん(図10)
> (これを見る目は、衆生の目か?)
> はっきりさせるべきは、「牛」「牧者」は消える、ということではないでしょうか。
> となると、「自己」とか「一無位の真人」も、消えるということですよね。
> これを消さないと仏教にならないな。
> 「ありのままの自然がある」(図9)というとき、自然を観察する目がどこかにあるはずですが、その目は「悟った人の目」※としてどこかにあるのか、「すべてを見渡す目」としてあるのかで、ちがって来ます。仏教にいくか外道にいくか、ということになりそうです。
>
> ※ちょっと訂正します。「悟った人の目」というのはないですね。
> そうではなくて、悟った人に救われる「衆生の目」というのが、合っているのではないかと思います。
> 「悟った人」であれば、もはや見ることもいらないかもしれません。「如来(このようにやって来た者)」といわれる理由にもなっています。常に、如来は、大衆が見つめる目線の先にいます。
>
> 牛に気をとられていること自体が、何か、問題の本質がずれてる感じがあります。
> 『十牛図』は、大きな声では言えませんが、どことなく素人っぽい感じのする図柄ですね。


確かに、先生からすると、十牛図は、幼稚で素人っぽいかもしれません。
牛を設定することなど必要ない、本質から外れてしまうと思われるのも分かります。
本来の自分とか、そういうものを設定するんじゃない!と怒られる気持ちもわかります。

第8図だけでいいのかもしれません。
しかし、それではとっかかりがありません。

最終的には、牛の設定も筏だったとわかればいいと思います。
まずは、彼岸に行こうとする意思を起こさなければ何も始まりません。


浄土教でも、やはり阿弥陀仏が実在していて蓮の花が咲いている浄土に仏像のような阿弥陀様が座っておられると信じるから救われる人も出てきます。
最初から、『弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり』というのが本当なのでしょうけど、『それを言っちゃおしまい』のような気がします。
『いやあ、実はネタでした。』とは言わないほうがいいと思います。



これから出ますので、また後から続きを書かせていただきます。

 

 

  [No.21800] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/12(Sat) 18:53:36



> 『現在の自分と違う本来の自分』と設定する、という、この「自分」とおっしゃるところに、わたしは興味をもつのです。
> これは、本当に、お釈迦さまが述べるところの「自分」ということばの意味ですね。
> 『ダンマパダ』などで「自分が自分の守護者である。他人が、どうして守護者になるだろうか。自己をよく調御するならば、得難き守護者を獲得するのである。(160)」と言われることばの使い方と同じですね。
> 「『本来の』自分」か、なかなか悩ましい表現ですね。罠の危険を回避しつつ、考えていかねばならない、ということか。。なるほどなあ。

 



よく言われる言葉に、『何かになろうとするのも自我』『いまの自分でない何かになろうとするのは間違っている』『自分は自分であればいい』などというのがありますね。
あるいは『悟ろうというのも自我』という人もいます。

ただ、いまはっきりわかるのは、『ありのままの自分でいい』というよく言われる言葉は全く違うということです。
ありのままの自分では絶対にいけないと思います。
ありのままでは、激流に押し流されたままです。
今まで積み上げてきた記憶の束が感覚に対して今までと同じように反応しつづけ、苦の集積へと向かうだけです。
この人間の真実をみていないものが、『ありのままの自分でいい』というのだと思います。

最後の最後まで、つまり解脱するまでは、自我はなくならないと思っています。
これは自力だ、これは自我だ、と言っていては、よくなろうという意志が生まれないでしょう。
自我であっても自力であっても、あがく必要はあると思います。

また、大我のようなものを設定することに危険性を感じておられると思いますが、
これもある程度途中までは仕方ないことのように思えます。
最後に、『これも筏だった』と捨てられればいいのではないかと思うのですが、どう思われますか?


 

 

  [No.21805] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/13(Sun) 08:50:46



> ふうむ、やはり、ショ-シャンクさまは、自力聖道門の人ですね。

 


聖道門というのは、大乗仏教を浄土門と聖道門に分けたものですよね。
私は、そのどちらでもないと思います。
と言って、部派仏教でもないです。

大乗仏教でも部派仏教でもなく、仏陀と直弟子の時代、仏陀は本当は何を言いたかったのかに関心がある人間です。

ですから、私は、大我というものは立てません。ア-トマンやプルシャもただのmohaだと思っています。

ただ、今思うのは、様々な人がいて、その人に合う筏というのがあるのではないかということです。
大我を立てる人も、最後にその考えが筏と見ることができれば、それはそれで一生懸命その道を進むこともいいのではないかと思ったのです。

私は、大我やア-トマン、ブラフマンは、立てませんが、強いて言うなら、本来の心の状態というのは無量心だと思っています。
この無量心が無明⇒行によって、五蘊が集まり、今の私のこの生があるのだと実感しています。



> 「十牛図」で悟ろうと思う人は、徹底して「空」に行くか「無我」に行くかしないと、ぐちゃぐちゃになりそうだと思います。
> その意味で、第10図に疑問を感じてます。
> 素人っぽい感じは、第10図があるからだと思います。
> 十牛図のYoutubeを見ていたのですが、第10図の説明がどうもよく分かりませんでした。
> 第9図までは、一貫していると思います。おっしゃるように、突然、最初から第8図を見いだすことはできないと思いますから。
> もし、第10図に意味を見いだすとしたら、それは菩薩の道だろうなと思います。
> 悟りを求める、というより、菩薩であり続けようという道のような気がします。



禅は仏陀の理法を洞察することがないので、私は禅の道を進もうとは思いません。
ただ、学生の時によく、禅の本は読んで公案は好きでした。
十牛図など懐かしい気分で思い出しています。
いまはあまり興味ありませんが。

私の解釈では、十牛図の第8図、第9図、第10図は、無量心の『体』、『相』、『用』なのです。

ですから、第十図は極めて重要だと感じています。
先生の言われる菩薩道を表わしたものでしょう。

 

 

 

  [No.21811] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/14(Mon) 08:07:19



> 禅は、あまり分かりませんが、道元はブッダの理法を洞察しているように思われて仕方ありません。
> 禅の心をもって到達したのかな、と最初は思っていましたが、実際は、すごくよく勉強しているんだなと思います。
> 若いうちに悟りを得ているように思いますので、巧みなのだろうと思っています。


今までの日本において、仏陀の理法、特に四諦十二縁起はほとんどかえりみられることはありませんでした。
それほど五時教判が強烈に支配してきましたし、文献学が発達していない時には、圧倒的な説得力を持っていました。
日本人がスッタニパ-タを読めるようになったのも、ここ何百年かのことではないかと思います。

道元は非常に優れた人ですが、やはり時代の制約は受けていたでしょう。
小乗という偏見なしに仏陀の理法を重視できたかどうか、わかりません。
ただ、三十七菩提分法をわざわざ取り上げているのは、さすがというしかありません。




> そうなると、第7図と第8図には、断絶がありますよね。

その通りです。
ここに、断絶があるのが、禅だと思っています。
禅の門外漢の私が言っても何の意味もないですが。

大死一番のところ、百尺竿頭一歩を進むところ、
ここにおいて、『人』はなくなるのだと思います。

『人』がいて、『牛』を探してきたのは、顛倒妄想ということです。

その顛倒妄想を断絶し大転回したとき、本来の『体』『相』『用』が現成するのだと思います。

と禅の門外漢が戯言を言ってみます。

 

 

  [No.21827] 五時教判の見事さ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/15(Tue) 10:32:43



> わたしは、最近、ようやく日本の仏教に入り込んできて、「なぜ、日本人は、ブッダの仏法をあやまたずに受けとめてきたのか」という問題を考えています。
> わたしの目には、すごくうまく仏教を受けとめてきたような気がしてなりません。
> 庶民の仏教理解が、特に善いのかなとか思ったりもしています。


そうですか。
私は、仏陀が本当に言いたかったことを探しているうちに、いかにいまの仏教は仏陀が言おうとしたこととかけ離れていったのかを知って愕然としているところです。
仏陀の直説を正しく伝えていると自負している上座部仏教でさえ、『dukkhaは苦という意味ではない』などと言っていますから、仏陀が悟ったときに『説いても誰にもわからないだろう』と説くのをあきらめたのも仕方ないことかもと思っています。
それほど、仏陀の見方は世間の見方とは真逆だと思っています。
ですからやはりかなりアレンジしないと世間には受け入れられなかったのだろうとは思っています。



> 五時の教判は、それなりにあたっているところもあると思います。なるほど、と思ったりもします。
> ブッダの教えを、巧みな方便(行法)として捉える捉え方だと思います。


五時教判は、見事というしかありません。
南三北七で、涅槃経と華厳経がそれまでの中国仏教でのツ-トップでした。

法華経をトップとする場合、華厳経と涅槃経をどう位置づけるか、このような命題を出されたとき、誰もが大いに困るはずです。
それほど、華厳経と涅槃経は優れているからです。
特に、華厳経の、悟りそのままとも言える最高度に純度の高い教えをどう位置づけるか、これは難題でしょう。

その回答として、五時教判は実に見事です。
華厳経を仏陀の悟り直後の教えとしました。
高くて純粋で悟りそのままの教えだけど、純粋無垢すぎて方便がなく何より教えが高度すぎて誰にも理解できなかったとしました。
そこで反省した仏陀は、誰にもわかるようにレベルの低い教えである阿含経を説いたとしました。

それから段階的に教えのレベルを上げていくのですが、その場合、最後の教えが最も素晴らしいという結論にならざるを得ません。
そうすると、最期の教えたる涅槃経が最高という結論になってしまいます。

ここでまたまたウルトラCを使います。
仏陀は最後に真髄たる法華経を説いたけれども、入滅のとき、説きもらしていたものを補足の形で説いた、落穂拾いのような経典が涅槃経としました。

なんともすごいスト-リ-テラ-です。

そして、確かに、その経典の特徴をうまく表現していて、まさしく匠の技という感じです。

他にも教相判釈は数多いですが、ここまで見事なスト-リ-仕立てになっているものはありません。




いったん、切って、あとで続きを書かせていただきます。

 

 

  [No.21838] Re: 五時教判の見事さ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 09:52:41



> わたしとしては、なかなかお話ししにくいところに入ってきてしまいました。
> ショ-シャンクさまとは、少しニュアンス的に異なる感触を得ているようです。

私は、今までの仏教理解をいったん白紙にして、歴史上の仏陀が言ったことは本当はどんなものだったのかを探求したいと思いましたので、大乗仏教や部派仏教の全否定を出発点としています。
ですから、様々な仏教者から反対意見をいただいてきたのですが、それでもそれを貫いてきたのでよかったと思っています。
仏陀の真意から見て、仏陀の真意の復興運動としての大乗仏教という、全否定から全肯定へと進みつつあります。

部派は、大いなるものを見失ってはいけないと思いますし、大乗仏教は、仏陀の理法、仏陀の残した筏を捨て去っては、どこにも行き着かないものとなります。
その意味で、わたしのなかでは統一できつつあります。

ただ、巷の仏教解説書で『dukkhaというのは苦という意味ではない』などと書いてあると情けなくなります。




> > それほど、仏陀の見方は世間の見方とは真逆だと思っています。
> > ですからやはりかなりアレンジしないと世間には受け入れられなかったのだろうとは思っています。
>
> 悟ったブッダは、別に衆生におもねる必要はないので、純粋に梵天との約束を守ってこの世で苦しむ人々を救うために、まさに「無知の闇に沈む世界で不死の太鼓を打ち鳴らし」たのだろう、と思っています。


これは、仏陀が世間におもねって教えをアレンジしたという意味ではありません。
後世の者が、仏陀の言った意味を理解できなくて、世間や自分の考えに合わせてアレンジしたという意味です。



> > 法華経をトップとする場合、華厳経と涅槃経をどう位置づけるか、このような命題を出されたとき、誰もが大いに困るはずです。
>
> 大乗経典は、何か意図をもって受けとられてきたように思いますので、困ることはなかったのではないか、という感じがしています。知らない人が、この経典を受けとったわけではなく、自分なりの必然性を以て探求して行った人がであったものだったのではないか、と思うのです。
> こういうものは、人為というのは、そんなにはたらいていないと思います。おのずと定まるべき位置におさまっていくのではないかという風に考えます。
> インドの伝統では、人間の手になるものではない、というのが、ヴェ-ダなど聖典の特徴です。
> 大乗などの経典類を受けとった者たちは、ブッダの教えに深く入っていき、信をもって受けとったでしょうから、受けとった経典がどこに位置づけられ、どんなものであるか心配することはなかったと思います。


大乗仏教では、大乗仏典の量が膨大であるため、すべてを所依の経典にすることができず、どの経典を最勝の経典として宗を立てるかで、教相判釈が盛んでした。
仏典の最高を華厳経にする派と涅槃経にする派に分かれていましたが、天台の五時教判は、そのツ-トップをたくみに位置づけてなおかつ法華経を最高としました。
ここは見事だと思っています。
教えの高低を判釈し、最高の教えを決定する教相判釈は、大乗仏教では一般的に行なわれていました。

空海の十住心論もそうです。
真言宗=大日経を最高とし
華厳宗=華厳経をその次に高い教えとし、
天台宗=法華経をその次としました。

大乗仏教で宗を立てる場合は、どの経典を最勝の経典とし所依の経典とするか、そしてその理由を示す必要があったと思います。

 

 

  [No.21840] dukkhaがわからない仏教では 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 17:11:03



> > ただ、巷の仏教解説書で『dukkhaというのは苦という意味ではない』などと書いてあると情けなくなります。
>
> これは、何ですかね??
> ほとんど概説書を読まないので、最近の風潮が分かりません。
> しかし、苦でなかったら、何なのでしょう。一切皆苦は、仏法の柱だと思いますが。


上座部仏教系の人たちは、dukkhaを苦しみという言葉に訳してはいけないと言っています。

たとえば、ワ-ルポラ・ラ-フラの『ブッダが説いたこと』では
『ドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。ドゥッカを一語で表わすのは難しい。そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。』
といっています。

スマナサ-ラも全く同じことを言っています。
『苦の見方』の帯には、大きく、『ブッダの「苦」は「苦しみ」ではなかった!』と謳っています。

空しさ、不完全さをdukkhaの本当の意味としたいようです。


私が部派に疑問を抱くのはこういうことからです。
『dukkha』こそ、仏陀の教えの核心なのに、それを曖昧にしてしまっています。
こんな説明をするようでは、本当には『矢』が何であるかを見ていない。
『要するに五蘊の集まりこそが苦(dukkha)なのだ』ということを見ていないですね。
dukkaは、まさしく、苦しみであり激痛です。
なにせ、毒矢に打ち抜かれているのですから。



ただ、私の、仏陀の教えの見方が絶対に正しいとは言い切れないとも思っています。
スマナサ-ラのほうが正しいのかもしれませんが、私には私の見方が合っているということです。




> 日本はおもしろいですね。空海や最澄によって、何でもありの密教が入ってきてから、鎌倉仏教の一つの行を進めるやり方が広まっていて、一見すごく奇妙なように見えながら、それをものともせずに取り込んできた一般の人々のパワ-と熱意に圧倒されます。


鈴木大拙は、鎌倉仏教をもって、日本的霊性の発現としましたが、私は、平安時代の比叡山のようなよく言えば豊穣な、悪く言えばごった煮で何でもありの仏教のほうが好きです。
プロテスタントのシンプルさより、悪いことばかりしたけどカトリックの荘厳な雰囲気のほうが好きなのと同じです。
ただ、道元にしても法然にしても親鸞にしても日蓮にしても、一つの行を絶対として選択したシンプルさは、平安の仏教とは比べものにならないエネルギ-を生み出しました。
すごいことだと思います。



> > 大乗仏教で宗を立てる場合は、どの経典を最勝の経典とし所依の経典とするか、そしてその理由を示す必要があったと思います。
>
> そうですね。でも、好みのままに選べるように何でもあるので、目移りしますね。
> どれも、かなりの程度に確立されています。
>
> 優劣というのは、自分の個性に合うか合わないかの選択に用いられるのであって、本当に優劣があるわけではないと考えます。どの教えによっても悟りにいけるのに、どうして優劣があるだろうか、という気がします。


確かにその通りなのですが、実際の仏教の歴史では、仏陀の時代でも、部派の時代でも、龍樹の時代でも、あるいは中国仏教においても、日本仏教においても、法論、法戦、宗論、論争、教相判釈、が極めてさかんに行なわれてきました。
相手を論破することで、自らの法が優れていることを証明してきたのが仏教の歴史であることも事実です。

仏陀も、ジャイナ教の開祖マハ-ヴィラを論破した経典もあります。
龍樹も説一切有部との論争に明け暮れていましたね。
中国では、華厳宗と天台宗の間の性起説と性具説の論争が有名です。
天台宗内部でも、山外派と山家派が論争していました。
日本仏教では、南都と北嶺の宗論の争いは何代にも続きました。
日蓮は念仏無間禅天魔真言亡国律国賊を旗印にさかんに法戦を挑みました。

平和的なイメ-ジが強い仏教ですが、こと、自らの法に関しては一歩も譲らない強さがあります。

穏やかで誰にも優しく柔和なイメ-ジしかない法然ですが、
師匠と違う考えを言ってたしなめられても頑として一歩も譲らなかったので、師匠にボコボコに殴られ血だらけになったことさえあります。

 

 

 

  [No.21828] Re: 危険を避けて行く道を模索する 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/15(Tue) 12:10:37



> > その顛倒妄想を断絶し大転回したとき、本来の『体』『相』『用』が現成するのだと思います。
> > と禅の門外漢が戯言を言ってみます。

> ショ-シャンクさまも、「門外漢」とおっしゃっているということは、この、禅という道からはずれていった、ということですね。
> 理解した最大の説明が、体・相・用の解釈だったと、いうことかと。
> う--ん、分からん!
> 「十牛図」は分からない、と、なりました。
> そもそも、自分の中では、断絶は起こりえません。
> ましてや、禅の行では、と、自分は思います。
> 区切りをつけるとすれば、サマ-ディということになると思います。


はい。ですから、禅の門外漢の戯れ言と言っています。

先にも書きましたように、禅は、公案禅でも黙照禅でも、仏陀の理法を瞑想することがありませんので、私は禅の道を進むことはありません。
仏陀の理法、具体的には四諦十二縁起、四念処、七覚支、これを洞察するのが仏陀の道だと思っているのです。

十牛図の私の解釈は、禅僧や禅者の誰の解説とも違います。
勝手に門外漢が戯れ言として言っています。

ただ、私の中では、こう見たときに、十牛図は実はとてもよくできていると感動したものですから、解釈の一つとして書きました。
先生は、やはり禅僧の解説で見られた方がいいと思います。

私は、仏教の解説書や禅の解説書でいままで納得したものが一つもないので、原典だけを見て自分なりの解釈をしているだけですから。

断絶が重要と書きましたのは、人間は誰でも、今まで積み上げてきた記憶の束を自分という『人』と思い込んでいます。
その『人』が発心し、その『人』が書物を読み、その『人』が修行をし、その『人』が『牛』という見失われた悟りの状態を見つけ、維持し、自分のものとなるまで格闘して、なんとか心の平安までいきます。
しかし、そのようなことの全体には、『私』という中心があります。
そのような『私』、そのような『人』というものはなかったんだと気づくこと、ここにおいて、中心の崩壊が起きて『空』そのものとなる、そこを断絶と呼んだのです。(私はあまり空という言い方はしませんが)

空と言う言葉を使うなら、第8図、第9図、第10図は、空の体、相、用、だと考えているということです。

たんなるサマ-ディではなく、中心の消滅を仮に断絶と言ったのです。

私は、禅の道を行く気は全くないので、ただの戯れ言です。

 

 

 

  [No.21799] ヤ-ジュニャヴァルキヤにないのは 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/12(Sat) 18:26:27


続きです。


> > 仏陀の教えの核心は、矢を抜くことだと思います。
> おっしゃる通りです。
> バ-ラドヴァ-ジャに語った「耕す牛」の説明なら、矢が抜ける事がはっきり分かります。



確かに、仏陀の言葉は、十牛図とは比べ物にならない鋭さがありますね。


> ウパニシャッドは、矢を抜こうとして、楽に向かったと思います。オオクワガタの道ですよね。それなりに、極めるとその通りになる道だと思います。
> しかし、ブッダは、「楽は苦のもと」として、楽に向かわず、苦の滅を目指しました。
> 楽に向かった人々が求めたものが、ア-トマン(我)でありプルシャ(真人)でありますから、それらを求めることなく、無我を説き、プルシャ(人)を五蘊と分析したのでしょう。


そうなんですね。
ヤ-ジュニャヴァルキヤもシャンカラもインド哲学では、というか世界の古今東西の哲学の中でも最高峰かもしれませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤもシャンカラも、矢を抜くことができない、これはもうどうしようもなくそうですね。
仏陀は言いました。
『わたしは矢を抜く最上の人である』と。
かれは、その意味で、天上天下唯我独尊です。
仏陀の理法、具体的には四諦十二縁起、四念処、七覚支ですが、つまり、自我の成り立ちを洞察しないと矢は抜けないと思っています。
その意味では、禅でも矢は抜けないでしょう。


> そうですね。だいたい「真の自己」を求めると、「楽」を希求することになりますから、ブッダの教えにはいけないことが多いのではないでしょうか。


自我というのは巧妙ですから、悟ったと思った瞬間、その体験がさらに強固な自我を構築してしまうでしょう。
いくら、坐禅の40分間だけ無思考でいることができても、日常生活に戻ると元の木阿弥です。
思考がないと1分たりとも生活などできませんから。


> 真の自己が残ってしまって、それがその人を苦しめるのかもしれませんね。
> 坐禅をするとかえって煩悩がましてしまうので、ちょっと困ります。


黙照禅も公案禅も、結局、仏陀の理法を瞑想することはありません。
自我の成り立ちを洞察することがありません。
ただただ、無理やり無思考状態になろうとするのは、危険な感じがします。
実際に、坐禅でおかしくなった人は結構いると思います。
また、社会に適合できなくなる人もいるように聞きます。
仏陀が残してくれた智慧が抜け落ちているのだと思います。


> > 臨済に『赤肉団上に一無位の真人あり 常に汝等諸人の面門より出入す 未だ証拠せざる者は 看よ看よ』という言葉があります。
> > 一無位の真人が、肉体の感官から出入りしているというのです。
>
> もろに、ヤ-ジュニャヴァルキヤのア-トマンみたいな解釈ですね。。すごいな。
> プルシャ(ア-トマン)は心臓内にある光明です。死ぬ時、それは、目などの身体の部分からでていきます。それが出て行くとき、プラ-ナ(生気)が後に従い、それにつれて他の諸機能もすべて出て行くのです。
> 眠るとき、このプルシャは、この世とかの世(ブラフマン界)を行き来すると言われます。
> また、この他に、後代のヨ-ガ学派では、ア-トマンは身体のあらゆるところに行きわたっていると解釈したりします。それを観ずることも冥想です。生気の流れとして皮膚の表面にまでア-トマンが行きわたっているのを観ずるのです。
> う-ん、ほとんど、ア-トマン論のようですね。
> もし、「一無位の真人」を観ているのなら、さっさと消した方がいいのではないかと思いますね。
> 「十牛図」でも消えてましたよね。
>
> こういう形而上学的な「ア-トマン」という意味を、決してもたないのが、ブッダの使い方です。
> 「自洲」は、「自分を拠り所にしなさい」ということだと考えてよいと思います。


確かに仏陀は、ア-トマンのような形而上的なものを説きませんでした。
これは、有効だったと思います。
ア-トマンにしてもプルシャにしても、やはり個我、個別の生命、個別の霊魂のようなものをイメ-ジしてしまいます。
これは最も自我を強める考え方でしょう。
大きな迷いに入ってしまいます。
心霊主義の人が唯物論の人より自我が強いことは多いですね。

ただ、それだけだと、解脱したときに何もないのか、虚無が広がっているだけなのか、となります。
常見も邪見で、断見も邪見です。

仏教が灰身滅智に傾いてきたときに、大乗仏教は『そんなものは仏陀の真意ではない』として興ったと思います。
煩悩の滅をもって涅槃と思っているがそうではないのだ、大いなるものがあるのだ、として
初転法輪に次ぐ、大法の転法輪、第二の転法輪を宣言したのが法華経だと考えます。

部派仏教からは、『お前たちの言っていることは外道の論議だ』と非難されます。
部派からは大乗仏教は完全に外道の説に思えたでしょう。

大乗仏教説く大我とバラモン教のブラフマンはどこが違うのか、
ここは、大乗仏教側が正面から答えなければいけないところでしょう。


 

 

  [No.21807] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤにないのは 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/14(Mon) 05:44:55



> 思考するということが恐ろしいことは、わたしでもよく分かります。
> たとえば、りんごを見て「あ、りんご」と思うだけでも、もう完全に煩悩のワザですから。
> それに気づいた時は、愕然としました。
> 研究するということは、それだけで、煩悩が増していくという作業なのです。
> しかし、いったんそうと分かると、また、それなりに対応する道もできるのが、仏法でもあります。



ここを教えていただきたいのですが、『対応する道』とは具体的にはどういうものでしょうか。

ヤフ-掲示板のとき、4年前くらいでしたが、東哲板にはじめて『歴史上の仏陀の真意を探している』としてスレッドを立ち上げたときに、数多くの人たちが投稿してきました。
『自分は悟っている』『自分は目覚めていつも気づいている』『自分は救われている』という人たちが数多く『教えてやる』として投稿してきました。
しかし、仏陀の言う『激流』の怖ろしさを見ている人は一人もいませんでした。

激流に気づかぬまま、激流に押し流されたまま、『自分は悟っている』と思い込んでいる人たちばかりでした。

日常生活で、何かを感受すると、それまで積み上げてきた記憶の束がその感受に反応して思考を生み出します。その思考は連想となり激流となって欠乏、苦の集積へと押し流していきます。

これを見たときに、安易に『自分は悟っている』『自分はいつも目覚めている』『教えてやろう』とは思えるはずがないのです。
それはただ、社会生活や家庭生活で承認欲求が満たされない人たちが、乾ききった承認欲求を満たそうとして『大活躍』しているのです。

私が見る限り、石飛先生は、その激流を見て、その激流の怖ろしさを心底知っておられる人だと思います。

私は、激流を止めるには、四諦十二縁起、四念処しかないように思えています。
つまり激流の源を洞察しないと、いつまでたっても元の木阿弥になるような気がしています。

それで教えていただきたいのですが
石飛先生の言われる『対応する道』とは具体的にはどういうものでしょうか。

 

 

  [No.21816] 仏陀は三明者 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/14(Mon) 10:43:37



> 十二支縁起は、四聖諦よりパ-スペクティヴが狭いと思っているのです。三明で悟れます。


これはよくわかります。

私も、仏陀は三明によって十二縁起を悟ったと思っています。
宿住智によって十二縁起を、宿住智と天眼智によって四諦を悟り、悟った四諦を観ずることによって漏尽智に達したと考えています。

私は仏陀の智とは三明のことだと思っていますので(三明ヴァッチャ経)、十二縁起だけでなく四諦も三明によって悟ったのだと考えているのです。


> 四聖諦には、ブッダの戦略があるような気がします。
> これは、ブッダが「言わない方がいい」というので、言いませんが、ものすごく巧みな方便になっているように思います。

これは、見当がつきません。
『方便』という言い方が気になりますが(笑)

ところで、先生は、仏陀の声が聴けるのですか?
もしそうなら、聞いていただきたいのですが、
私は、仏陀が80歳のとき、つまり入滅の年に語ったことは、それまでに言ったことのない、腹の中のものをすべて出したような気がしています。それを正しく聞いた後世の人たちが大乗仏教を興したように感じています。それで合っているか、聞いてもらえませんでしょうか。



> ここを文字通り認める立場は、四聖諦を駆使した大乗の立場だと思います。

ここも見当がつきません。
四諦の法を声聞の修行法として軽視してしまったのが大乗ですから、大乗で四諦を駆使するとは想像がつきません。



> これを、この世で明らかにした人が龍樹です。『中論頌』は、この『対応する道』を照らす灯りです。これは、苦しみをなくすための道具として、龍樹がブッダの教えを変形したものです。そのまま、ブッダの教えになっているのですが、みなさんは、ほとんど気づいていません。


それについて最もわかっていないのが私です。
仏陀の教えは、龍樹以降には(大乗仏教の国々では)すべて龍樹仏教に変形してしまったと考えているからです。
龍樹は天才であったが故に、龍樹の色一色になってしまいました。
物凄い影響力です。
ですから、私はことさら龍樹を避けて、龍樹の色のつく前の仏陀の教えを探求してきたところがあります。



> 言語を用いて語るなら、苦しみに行かないように語るためには、どうしても『中論頌』をマスタ-する必要があります。
> 後は、『方便心論』という論理を表した書も必要です。
> 両方そなえると、『(それなりに)対応する道』が見えてきます。
> 簡単に言うと、有と無の中間の道である、「中道」を、有効活用していくやり方です。


これは、龍樹を避けていた私にとっては難題中の難題です。
『龍樹をマスタ-』というのはハ-ドルが高すぎのような気がしますが。

 

 

 

  [No.21821] 身の毛のよだつ教え 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/14(Mon) 21:42:51



> > 私は、仏陀が80歳のとき、つまり入滅の年に語ったことは、それまでに言ったことのない、腹の中のものをすべて出したような気がしています。それを正しく聞いた後世の人たちが大乗仏教を興したように感じています。それで合っているか、聞いてもらえませんでしょうか。
>
> これは、ショ-シャンクさまが、ブッダからそうお聞きになっているのだろうと思います。
> これ、わたしも分かるような気がします。
>
> > 腹の中のものをすべて出したような
>
> というところ、何か、わたしも感じるものがあります。
> それまで厳密に論理を用いているのに、けっこう、最後の方では、論理も何もぶっ飛んだようなところがあって、切実に迫るものを感じます。

> 入滅の時だけではなく、最初に悟った時から、大乗への道は模索され続けていたのではないかと思いますが、そうは言ってもパ-リの『大般涅槃経』が果たした役割はものすごく大きなものだったと思っています。


大般涅槃経もそうですが、もっとすごいのは『大獅子吼経』です。
別名、『身の毛のよだつ教え』です。
大獅子吼経も大般涅槃経と同じく、仏陀が80歳の時の言説だとされています。
私は、この大獅子吼経と大般涅槃経のメッセ-ジを正しく受取った者が、後世、大乗仏教を起こしたと考えています。
これも私が独自で勝手に考えているだけですが。

入滅の年の仏陀は、特別なメッセ-ジを発しています。
それを感知して身の毛のよだった者が大乗仏教を興していったのでしょう。
法華経の『一大事因縁故出現於世』は、大獅子吼経から来ていると思います。
如来寿量の片鱗もあります。

阿弥陀経の蓮池などの浄土の様子もひょっとしたらここから来ているのかもしれません。



> 今、『中論頌』を翻訳解説しているところです。
> もし出せたら、読んでいただけると幸いです。

はい。必ず読ませていただきます。

 

 


 

  [No.21829] Re: 身の毛のよだつ教え 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/15(Tue) 16:06:26



> > 入滅の年の仏陀は、特別なメッセ-ジを発しています。
> > それを感知して身の毛のよだった者が大乗仏教を興していったのでしょう。
> > 法華経の『一大事因縁故出現於世』は、大獅子吼経から来ていると思います。
>
>
> 実際、おっしゃる通りだろうといわねばならないと思います。
> 先にお釈迦さまに尋ねてみて欲しいといわれた時も、「そのとおりです」といわねばならない気はちょっとしたのです。



中部経典『大獅子吼経』において、仏陀はこう言います。

『迷妄のない生けるものが、多くの人々の利益のため、多くの人々の安らぎのため、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安らぎのために、世界に現われている』
それが、私だ、と。


『私は、多くの人々の利益のため、多くの人々の安らぎのため、世界への憐れみのために、世界に現われている』
というような言説は、80歳のこのときまで、原始仏典ではなかったように思えます。


大獅子吼経といい、大般涅槃経といい、80歳の時の仏陀には、その心の底を吐露したと思われる言説があります。

 

 

  [No.21837] Re: 身の毛のよだつ教え 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2021/06/16(Wed) 09:11:56


おっしゃるように、中部経典『恐怖経』にも
『多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世界への憐れみのために、人天の目的のため、利益のため、安楽のために、迷妄のない生けるものが世に現われている』
という言葉がそのままありましたね。
見落としていました。
そして、確かに、霊園に住み、獣が来たりして、まさしく『身の毛のよだつ』ような場所です。

教えていただきありがとうございます。