スッタニパータ(田を耕すバーラドヴァージャ)

  [No.17825] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/22(Tue) 20:47:16

石飛先生、ありがとうございます。

> ショ-シャンクさま、連休も終わりになってきましたね。わたしには関係ないですが(笑)

今日で連休も終わりですね。私も業種柄、連休と関係ないです。大学の先生も連休関係ないのですね。意外です。


> まったくです。教えを説かないブッダも出て来るのですから、ここで人々を救おうと思ってくれたブッダは、ほんとに、そのまま、救世主です。

教えを説くことを勧めた梵天様にも感謝してます。
そのまま教えを説かなかったら、仏教自体がなかったわけですから、ちょっと想像できないですね。


> スマナサ-ラ長老は、あらかじめいつ出るか設定しておくのだとおっしゃっていました。
> レンジでチンするみたいなものです、ともおっしゃっていたかな。

そうですか。誰かが側にいなくても大丈夫と言うことですね。設定というのも不思議な感じです。


> ここは、なかなか微妙なのでありまして、よくよく読みますと、スンダリカに教えているのは、ヴェ-ダ祭祀自体が効果があるかどうかではなくて、祭祀の供物の残りを誰に布施をすると効果があるか、というところが論点になっているのです。
> ヴェ-ダの祭祀でなくても良いんだな、とちょっと思わせられるのですが、ですが、スンダリカにとっては、ヴェ-ダ祭祀はとても大切ですから、その供物の残り(プラサ-ダ)も大切で、それを誰に布施するかも重大問題になります。
> そこで、ブッダがでてきて、清らかで汚れがなく寂滅している聖者に供物を捧げるなら、施主には大きな功徳がある、と述べているわけです。ヴェ-ダの祭祀を扱いながら、実質的には、ブッダの教えによる聖者がすぐれている、かれにお布施をすると大きな功徳がある、というのですから、実際、知らずに仏法に預かってもいることになります。
> そして、このような人に供物を捧げなさい、と、あれこれ聖者の特徴をあげて、法を伝えています。うますぎる説法だなと思っています。巧みすぎて、仏法を教えられたとも気づかないまま、スンダリカは、ブッダのような聖者に出合えて、本当に良かったと納得し、最後は、そのまま弟子入りしてしまいます。


スッタニパ-タは全体的に非常にわかりづらいですが、この箇所も難しいですね。
『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。
そうであれば、諸仏は、そのお供えの菓子を食べることができないですね。
古代インドでは、火の祭祀は動物の生け贄を焼き、それを後で食べるということがあったように読んだことがあります。
その頃は牛も例外ではなく食べていたとか。
しかし、ここでは供物はお菓子のようです。
『詩を唱えて得たもの』と『お供えの菓子』が同じなのか違うのかがわかりにくいのです。


 

  [No.17837] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/23(Wed) 16:35:33


> > 『詩を唱えて得たもの』というのは、バラモンが祭祀の時に世俗の人から献げてもらう食べ物のことでしょうか。
>
> たとえば、吟遊詩人のような人々は村や町をまわって生活のために即興で詩を作って吟詠するなどということが行われていたのではないかと思います。また、韻律をつけて語ると割りと抵抗なく会話が弾むと言うのもあったでしょう。『スッタニパ-タ』でも、「ダニヤ経」など、やりとりが詩をもってなされる場合があります。
> そうなので、ちょっとしたやりとりは、ひとり言ともつかず、対話ともつかないような感覚で、詩によって語ることが多くあったと思うのです。ブッダは、その場合、相手が感服してお布施をしようとしても、受けとらなかったということだと思います。
> 生活のために得るわけではない、ということを示しているのだと思います。
> 純粋のお布施によってのみ、生きるのであって、詩を唱えて相手を感動させたり、ということによって、お布施を受けるのは本意ではないということだと思います。

ご説明で大筋は分かりました。ありがとうございます。

ただ、一点だけ非常に紛らわしいのでお聞きします。

バラモンは
『あなたのようなヴェ-ダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。
梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくはわたくしから受けてください。
先生、ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。』
と仏陀に懇願します。

それに対しての仏陀の答えが
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。
バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。
詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。
バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いのしかた(実践法)である。』
と言います。

それに続けて
『全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。
けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。』
と言います。

この対話を見ると、
『お供えの菓子を召し上がってください』という願いに対し
『詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。』と拒否して
さらに
『他の飲食をささげよ。』と言っています。

これを素直に読めば、
つまり、お供えの菓子を『詩を唱えて得たもの』(確かに祭祀のときにヴェ-ダの詩句を唱えます)と考えて拒否したと受け取れる記述です。
祭祀のお供えの菓子ではない、他の飲食をささげよ、と言っているように見えます。

ここの記述がどうしてもつながらないのです。


 

 

  [No.17851] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/25(Fri) 09:50:57



> 全体を読んでみますと、「詩を唱えて得たものを、わたしは、食べてはならないのです」というのは、
>ヴェ-ダ祭式の際の詩を唱える行為を排除して言うのではなく、ブッダが詩をもって応答していることを指すことが、
>明らかなように思われるのですが、どうでしょうか。
> 『スッタニパ-タ』の第一章4「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経も読んで見てください。
>こちらの方が、よりわかりやすいかと思います。


よくわかりました。
確かにおっしゃるとおりです。

あれから、中村元の註を読んでみましたら、どうも中村元も私と同じように読み違えているようです。

『詩を唱えて得たもの』というのを、バラモンがヴェ-ダの詩句を唱えて布施を得ていたことの否定だと書いていました。

しかし、これは中村元の方の間違いですね。

「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経を読んでみますと、田を耕すバラモンの差し出す乳粥も拒否しています。
このバラモンはヴェ-ダの詩句を唱えてこの乳粥を得たわけではないのに拒否してます。
この場面でも、仏陀は詩を唱えています。

ですから、石飛先生が言われるように、これは仏陀が詩を唱えた対価として受け取ることを拒否したということだとわかりました。


ただ、少し釈然としないのは
そうであれば『他の飲食をささげよ』の『他の飲食』となぜ言ったのか?ということと
この乳粥がなぜ『如来とその弟子以外は食べることが出来ない』のか?
ここを少し自分で考えてみます。

ありがとうございました。


 

  [No.17857] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/26(Sat) 17:59:54

石飛先生、こんにちは。

> ここは、わたしも、自分なりに答を出したのですが、「少しご自分で考える」とのこと、しばし沈黙します。
> 何かわかりましたら、お教えいただけると幸いです。


スッタニパ-タは本当に難しいですね。
どうしても矛盾点が出てきます。

「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経で考えてみますと、

まず中村元の説で検証してみます。
バラモンはヴェ-ダの詩句を唱えて布施をもらっているので、
バラモンから回ってきたものはすべて『詩句を唱えて得たもの』だから諸仏はそれを食べてはいけない、
と解釈する説です。

しかし、「田を耕すバ-ラドヴァ-ジャ」経では、仏陀自らがこのバラモンから食を受けるために立っていたとあります。
これだと受け取ってはいけないのを知りながら受けようとしたことになりますから、矛盾します。

また、諸仏は食べてはいけない習わしでも、他の大多数の人たちは食べていいはずです。
なのに、この乳粥は如来と弟子以外は消化できないことになっています。これも矛盾です。

次に、石飛先生の説です。
仏陀が詩句を唱えたので、その対価としては布施は受け取ってはいけない、という解釈です。
しかし、それであればその食べ物(ここでは乳粥)には何の落ち度もないはずです。
仏陀が詩句を唱えなければ、その乳粥をもらうことはいいはずです。
しかし、『他の飲食をささげよ』と言います。
これは矛盾です。
また、この乳粥はなぜか如来とその弟子しか消化できないことになっています。
これも理由が見当たりません。


考えてみましたが、どう解釈しても、矛盾が起きます。

よろしければ答えを教えてください。

 

 

  [No.17867] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/27(Sun) 12:03:44

石飛先生、ありがとうございます。
素晴らしい解釈です。
すべて納得できました。
そして、疑問点の氷解以上の気づきがありました。


> 『スッタニパ-タ』は、バラモン文化にもある程度の関心をもっている必要がありますね。

これは本当にそう感じます。現代の日本の視点では絶対に分からないのではないかと思います。
その時代のインドに降り立った視点が必要となるのでしょう。
ですから、スッタニパ-タは難解です。


> この田を耕すバ-ラドヴァ-ジャは、農家の中ではかなり豊かな方ではないかと思います。

はい。非常に裕福なバラモンだったと思います。
『500挺の鋤を牛に結び付けた』とあります。
さすがに1頭の牛に500挺の鋤は結びつけませんから何百頭もの牛を所有していたということです。
牛はこの時代のインドでは資産の中でも最も価値があるものだったと思います。
非常な資産家ですね。

> バラモンとはいえ、職業として農業も営む人もいました。
> 祭式だけで食べていける人は、そう多くはなかったため、実際はいろいろな職業についていたことも考えられます。

確かにそうなのでしょうね。日本の神社の神主さんのようなものだったと思います。
祭祀だけで食べていけない人もいたでしょう。
ただ、このバラモンは非常に裕福です。これだけ資産があれば何もしなくても食べていける立場だったかもしれません。
このバラモンが田を耕しているのは、自分の信念からだと思います。
ですから、労働もせずに乞食している仏陀をたしなめたのでしょう。

たぶん、所有する牛は乳牛でも最も価値が高い若い牝牛だったのでしょう。
田でつくっていたのは米でしょう。
そこから穫れる大量の米と牛乳で乳粥を作り、多くの人に施していたのでしょう。



> そうなると、その食べ物は、もはやただの乳がゆを超えていると、考えられることになるのではないかと思います。
> 貧しい人が、心を込めて捧げた粗末な食べ物に、ブッダのような聖者は非常に価値を見いだします。心を込めたお布施というのが大事になってくると考えられます。
> ですから、ブッダに捧げたものは、ブッダが受け取らないなら、もはや、それは行き場を失ってしまうということではないでしょうか。

よくわかりました。
おっしゃる通りだと思います。
ありがとうございます。

今回、石飛先生の解説によって
仏陀とは福田であり続けることなのだとわかりました。
そして仏陀に捧げたことで価値の変換をもたらすのだとわかりました。

大学の先生は授業によって、学生に知識を与え、その対価として報酬をもらいます。
私などは、商品をお客に売って、その対価としてお金をもらいます。

しかし、出家者はそういう対価での取引でなく、すべての人にとっての福田でなければならないのですね。
その福田に種を蒔いた人(お布施をあげた人)が、多くの収穫、多くの功徳が得られるような良き田でなくてはいけない、
ここのあり方が実感としてわかった気がします。

本当にありがとうございます。


 

  [No.17884] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/29(Tue) 07:23:41

石飛先生はこう書かれています。
『バ-ラドヴァ-ジャがお布施をするのは、功徳を積んで来世をより善いものにしようという考えでしょう。熱心にお布施をするのは、自分の功徳を積むためだと思います。そうなると、バ-ラドヴァ-ジャがお布施しようという気持ちが大事になってくると思います。純粋にお布施をしようと心清らかになったその気持ちをもって乳がゆを、ブッダに捧げる、というその心の動きが大事になってくるのだろうと思います。
単に乳がゆという物ではなく、心を込めたお布施になると、もはや受けとる人はブッダに限定されています。
そして、ブッダのような聖者にお布施をすることは、大きな功徳を生むのであって、
そのため、福田(功徳を生む田んぼ)と高徳の聖者を呼んでいるわけです。
そうなると、その食べ物は、もはやただの乳がゆを超えていると、考えられることになるのではないかと思います。
貧しい人が、心を込めて捧げた粗末な食べ物に、ブッダのような聖者は非常に価値を見いだします。
心を込めたお布施というのが大事になってくると考えられます。
ですから、ブッダに捧げたものは、ブッダが受け取らないなら、もはや、それは行き場を失ってしまうということではないでしょうか。
乳がゆはすでに、バ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、
本来であれば、ブッダが食べるべきものとなってしまっています。
そこで、「功徳」という点からいいますと、もはや他の人が与えることのできないほど大きなものを功徳として与えなければならず、
そのため、「他の人には消化できない」と述べたのではないかと思います。』


私はこの解説に非常に感銘を受けました。
そしてこの事例を超えて、仏教そのもののあり方を仏陀がどう見ていたかが分かった気がしたからです。
仏陀は、衆生にとっての福田であるということ。衆生に功徳をもたらす良き田であること。
出家者、修行者は、福田になるように精進し、衆生は大きな功徳をもたらす福田を選んで種をまく(供養をする)のだと。

そして、バ-ラドヴァ-ジャの乳がゆはすでに、バ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので
仏陀以外には消化できないものとなり、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出したという解釈です。

それであれば
「乳粥の熱」が、「この私が、自分の所有している物を、与えてやったのだ」という自己へのこだわりで、逆に我執を強めて善行の底にも潜む末那識という燃えるような我執によるもの、
燃える我執によってチッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙を出したという解釈とは正反対です。
これだと、我執による布施である乳粥に落ち度があることになります。


どういう解釈をしてもそれは自由です。
ただ、『その解釈は解釈でわかるけど、自分の解釈とは違うものだ』ということははっきりさせないと
道に真摯ではないということになります。


実際、自分の功徳を求めないお布施などあり得ないのです。
仏陀は、むしろ、自分の功徳を積むことを奨励し、その最も大きな功徳が仏への供養としました。
それで仏教システムは今日まで東南アジアでは存続しています。
大パリニッバ-ナ経にも、
『悪い行いをする者には、5つの禍いがふりかかる。
まず、財産を失う。次に、悪い評判が広まる。それから、人と会えばおどおどしてしまい不安が離れず、死ぬ時には恐怖で精神が錯乱する。そして、死後は地獄に堕ちる。
これが、悪い行いをする者にふりかかる5つの禍いである。それとは反対に、善い行いをする者には5つの善果がもたらされる。
まず、品行が善いことで富を得る。次に、善い評判が広まる。それから、どのような人と会っても堂々としていて、
死ぬときも恐怖にのたうちまわることがない。そして、死後は天にのぼる。』
と言っており、自分に利益があるから善行をしろと言っています。そんな我欲で布施をするなとは言っていません。

我執が少しでもあるお布施が、誰も消化できないものになるのであれば、今もさかんに行われている仏教のお布施はすべて
チッチタ、チッチタと音を立てて湯煙を出してしまうことになります。


 

  [No.17890] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/29(Tue) 11:43:27

石飛先生の解説によってはっきりわかったことは、
仏陀とは、福田、よき田であることです。
衆生が布施をするのは、田に種を蒔くこと。
大きな収穫が得られる田がよき田であり、福田です。
この場合の収穫とは功徳のことです。

故に出家者は、良き田になるべく精進しなければならないし
衆生は多くの功徳をもたらす出家者を選んでお布施をする、というシステムなのだということです。

ここにおいて、お布施をする衆生は大きな功徳を求めてするのです。
なぜ功徳を求めるかというとそれが良い生、今世か来世か、どちらにしてもその人が望む良い生を願っているからです。

仏陀は『悪い行いをする者には、5つの禍いがふりかかる。まず、財産を失う。次に、悪い評判が広まる。それから、人と会えばおどおどしてしまい不安が離れず、死ぬ時には恐怖で精神が錯乱する。そして、死後は地獄に堕ちる。
これが、悪い行いをする者にふりかかる5つの禍いである。それとは反対に、善い行いをする者には5つの善果がもたらされる。
まず、品行が善いことで富を得る。次に、善い評判が広まる。それから、どのような人と会っても堂々としていて、
死ぬときも恐怖にのたうちまわることがない。そして、死後は天にのぼる。』と言っており
自分に利益があるから善行をしなさいと説いています。
自分の利益を考えるのは我執だから駄目だということはありませんでした。

同じ大パリニッバ-ナ経には、遊女と貴公子が、仏陀への食事の供養を自分にやらせてくれと譲る譲らないで争う場面があります。
争ってまで、『自分が』仏陀に食事を提供しようとしているのです。
それは、遊女も貴公子も同じく良き生(今世か来世かはわかりませんが)を望み供養をしようとしているのです。
それは我執と言えば我執でしょう。
我執が全くないなら、他の人が仏陀に供養してもいいはずですから。

自分や自分のものという見解をすっかり滅ぼした人はすでに解脱しているのです。
その人そのものが『福田』『良き田』になっているのです。
それはもう供養される側、応供となっています。
ですから、そこまで解脱することをお布施をする側には求めていません。
仏陀は、お布施をする人の中の『自分のものを差し上げたい』そして『大きな功徳を得たい』という心を咎めたりしてません。
むしろ奨励したからこそ、このシステムは今も仏教を支えているのだと、石飛先生の解説で気づきました。


 

  [No.17905] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/30(Wed) 07:06:15

どこを目指しているとか、そういうことを言っているのではありません。


なぜ乳粥が、湯煙を上げて仏陀以外には食べられないものとなったのか?について話し合っています。

石飛先生の解説では、
仏陀が詩句を唱えたので受け取らなかった、
そして、乳がゆはすでに、バラモンであるバ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、
本来であれば、仏陀が食べるべきものとなっており、そのために仏陀以外は消化できないものとなった、
つまり仏陀以外には捧げられないほど崇高なものとなった、ということでした。
崇高という言葉は私が勝手につけたのですが、つまりは、ブッダにささげられて特定され特別なものとなった、みたいな感じです。

芳和さんの説では
布施をしたバ-ラドヴァ-ジャに『自分がした』という我執があったので、その我執(エゴ)の熱により
乳粥は湯煙を上げ食べられないものとなった、ということでした。

この2つの説はまさしく正反対なので、その違いについて語れば新たな気づきもあると思います。
正反対の解釈なので、『正しく見ている』のはどちらか、が知りたいのです。


もし、自分の功徳を求めてお布施をすることが我執であり、
そういう我執が少しでもあれば湯煙を立てて食べられなくなるのであれば
いま特に東南アジアで行なわれているお布施などは、すべて湯煙を立ててしまう、と書いたのです。

お布施に自分の功徳などは求めないことが本当で心の底にでもそんなことがあると
食べられなくなるほど駄目なものだ、という結論は、仏陀が在家に説いた教えの数々からするとあり得ないような気がします。
現実の世界を見ない空論のように思えるのです。

よって、湯煙を立てたのは、石飛先生の解説の『ブッダに捧げられたものだから』というのが正しいように思えたのですが
どうでしょうか、と問題提起してみたのです。


 

  [No.17911] Re: ヤ-ジュニャヴァルキヤとゴ-タマ・シッダッタ 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/30(Wed) 12:11:23

芳和さん

そうですか。わかりました。前と同じスタンスですね。
大乗仏教や唯識論の理論をもって、『スッタニパ-タ』などの古層の原始仏典を解釈するというスタンスです。

原始仏典の中でも『スッタニパ-タ』は非常に難解です。
その難解さは、まだ理論が整っていない最初期の段階の仏教が生々しく描かれているからだと思います。
歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求している私にとっては、そういう難解さは貴重です。
まだ後世の手があまり入っていないからです。

何度も言いますように
『スッタニパ-タ』にしても『法華経』にしても、百人いれば百通りの読み方があっていいと思っていますよ。

ただ、単純にパ-リ語の読み間違いなどで私自身、全く違った解釈をしていることはままありますから
いろいろな人の意見を聞くのは非常に参考になることだと感じています。

ヤフ-掲示板の『東哲板』には私はヤフ-掲示板が終了する直前の1年半くらい前にはじめて自分のスレッドを立てました。
それまでは、ヤフ-掲示板の株式板と映画板に長く自分のスレッドを持っていました。
哲学カテゴリ-にいたことは1年あまりの短期間でしたが、いろいろな人が私のスレッドに来てくれました。

その中で、人の話は聞かずに、自分の理論だけ滔々と投稿する人も何人かいました。

異なった意見でもいろいろやりとりしていれば非常に参考になるのにもったいないことだと思っていました。


『この経典にはこうあるから、仏陀はこう考えたのではないか』というようなやりとりができれば面白いと思っていましたが
そういう場でないのかもしれませんね。

 

 

  [No.17893] Re: 布施について 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/09/29(Tue) 16:22:11

芳和さん、はじめまして。
といっても、はじめましてではないですね。
ヤフ-掲示板のとき、よく私のスレッドに来られていましたよね。
春間さんもよく来られて、ジャンヌダルクのことなどで言い合ったりしました。
春間さんも芳和さんもご自分の理論を披露することが多かったので
それほど会話はなかったかもしれませんが。

乳粥が湯気を出した件については、私は中村元の説の通りと思っていました。
バラモンは詩句を唱えて布施をもらうので、バラモンからは受け取らないのだという説です。

しかし、石飛先生は、そうではなく、
仏陀が詩句を唱えたので受け取らなかった、
そして、乳がゆはすでに、バラモンであるバ-ラドヴァ-ジャの感銘とともに、心を込めてブッダに捧げられているので、
本来であれば、仏陀が食べるべきものとなっており、そのために仏陀以外は消化できないものとなった、
つまり仏陀以外には捧げられないほど崇高なものとなった、
と言う解釈なのです。

たぶん、この石飛先生の解釈を芳和さんも、春間さんもあまり読んでなく、
この説と正反対の、
バ-ラドヴァ-ジャの我執(エゴ)の熱により、この乳粥は湯気が出て食べられないものになったということを
書かれました。

スッタニパ-タを読んでも法華経を読んでも解釈は百人いれば百通りあっていいと思います。
私は元々、中村元の説と思っていましたから、どちらでもこだわりはないのです。

ただ、石飛先生が、中村元先生の説を否定しても自分はこう思うと言われたのですから
『芳和さんの解釈はそうなのですね。私の解釈はこうです。』と
きちんと説明されるのが、自分の思うところに真摯であるということではないかと思ったので書きました。

自説と違うことを隠すよりも、違う点をいろいろ話したほうが、より理解も深まるでしょうし
止揚することができるかもしれませんから。