『毒矢の喩え』で仏陀が言いたかったこと

仏陀が言った『毒矢の喩え』は非常に有名です。

仏教を少しでも知っている人なら誰でも知っているほどです。

『毒矢に射られた人が、毒矢を射ったのはどんな人か、どのような弓で射ったのか、その矢はどんな形だったのか、それがわかるまでは毒矢を抜いてはいけない、と言ったらどうなるか?その人は死んでしまうだろう。』という喩えです。

 

しかし、この部分だけ切り取られて伝わっていてその前後はほとんど知られていないために、仏陀がこの喩えで何が言いたかったのかが伝わってない気がします。

 

仏陀の弟子で

『世尊は次の質問に絶対に答えてくれない。もし、今度問うて答えてくれないのであれば、私は修行を捨てて世俗に戻ろう』と決意した人がいました。

 

その疑問とは、

①世界は終わりがあるのか、永遠であるか

②世界は有限であるか、無限であるか

③霊魂と身体とは同じであるか、別なのか

④人間は、死後も存在するのか、存在しないのか

この4つでした。

 

仏陀はその質問にたいし、毒矢の喩えを説いて、こう言います。

 

世界が終わりがあるとか、永遠であるとかの見解があっても、清浄の行が成る道理はない。

むしろ、それらの見解があるところには、いぜんとして、生老病死、愁悲苦悩がとどまり存するであろう。

わたしは、この現在の生存において、それらを征服することを教えるのである。

 

その故にマールンクヤよ、わたしの説かないことは説かれぬまま受持しなければならぬ。

わたしの説いたことは、説かれたままに受持せねばならぬ。

 

マールンクヤよ、世界の常住・無常、有辺・無辺などのことは、私はこれを説かない。

なにゆえ説かないのであるか。

実にそれは、道理の把握に役立たず、正道の実践に役立たず、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たないからである。

これ故に、わたしは説かないのである。

 

マールンクヤよ、それではわたしが説いたものとはなんであろうか。

『これは苦である』とわたしは説いた。

『これは苦の集起である』とわたしは説いた。

『これは苦の滅である』とわたしは説いた。

『これは苦の滅に至る道である』とわたしは説いた。

 

では、なにゆえにわたしはそれらのことを説いたのであろうか。

実にそれは、道理の把握をもたらし、正道の実践に基礎を与え、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立つからである。

 

その故にマールンクヤよ、わたしの説かないことは説かれぬままに受持するがよい。

わたしの説いたことは、説かれたままに受持するがよい。

 

 

ここで、仏陀は、知っていても涅槃に役立たないものは説かない、と断言しています。

 

そして、仏陀が説いたこととは四諦だと言っています。

 

 

大乗仏教の人たちは、仏陀のエピソードをさかんに引用しますが、自分たちに都合が悪いものはすべてカットしています。

たとえば、この毒矢の喩えでも、仏陀自身が『それでは、わたしが説いたこととは何であろうか』と言って、四諦の法だけを言うのですが、これでは都合が悪いと思う人たちがほとんどなので、この部分はカットされていることがほとんどです。

 

仏教解説書は、特に大乗仏教側の仏教解説書は、このようなことだらけです。

自分の理論の都合のいい部分だけ切り貼りするのです。

かならず全文を読まなければ、仏陀の真意は絶対にわかりません。