善人がなぜ悲惨な事故に遭うのか

 やまびこ (180.146.67.75)  
ショーシャンク様 お世話になりありがとうございます。
最近 テレビを見ていて またこんな疑問を持ちました。
また甘えさせて貰っていいでしょうか ごめんなさい。
もし「仏陀の真意」に書かれているようでしたら その時は結構です 
明日アマゾンから本が届く予定です。
知床観光船の沈没事故 ニュースを見るたびに可哀相でご本人遺族様のことを思うと気持ちが沈んでしまいます。
あの事故で思ったことなのですが・・。
「因果律」「業」「宿業」です。 これらの教えは仏陀に関係があるのですよね?。
あの観光船に集まって乗船した人たちは「宿業」と片付けられてしまうのでしょうか?。
そんな業の持ち主が あの欠陥ある観光船に一堂に会することになる 大変不思議しか思えません 
これだと超越的な力の仕業と理解しなければ結論は得ませんね。
だとすれば人間には「自由意志」と言うものは無いのでしょうか。
神様の世界観であれば それも理解できるのですが、仏教の世界観も同じなのでしょうか?。
この辺のところ どう解釈すればよいのか サッパリわかりません。
それと「業」のエネルギーが「輪廻」に反映さるるとか。
輪廻で人間に生まれ変わるには 業としては成績の良い業(善行)の積み重ねがあったから そうできたと思っているのです。
その人間が それに反して娑婆で惨い結果を得ることが これまた理解できないです 幼い子供さんも犠牲になっていますね。
科学的に物事を考えられた仏陀さん。 
「仏陀の真意」 必ずや何かありそうでお尋ねした次第です。

 

 

 

やまびこさん、こんにちは。

ご質問は、まさしく、『仏陀の真意』で言いたかった根幹の部分です。

今までの仏教解釈では、業、宿業や因果などおどろおどろしい色合いになっていました。

善因善果、悪因悪果も、およそこの世の出来事を説明することのできないものでした。

どう見ても悪人が元気いっぱいに暮らしていますし、北海道の観光船事故で亡くなった人たちは、そのかわいそうな事故に遭わなければいけないほどの悪業をしたわけではないはずです。

今世の業では説明つかない場合に、前世の業などと言ったりしますが、それもあり得ない話です。例えば、殺人事件の被害者になった人は、前世で殺人犯であったという、何とも馬鹿馬鹿しい説明にしかなりません。そんなことではないはずです。

このことを、『仏陀の真意』第7章で詳しく説明しています。

もし、読まれた後、疑問がありましたら、ご質問ください。

ここは大変大切なことですので、分かりやすく説明しているつもりです。

どう見ても善人そのものの人が不幸な事故に遭い、どう見ても悪人なのに幸せでいる、というようなことは数多くあり、そのため、仏教も結局その理不尽さを説明できないものと考える人も多いでしょう。

私もそうでした。

しかし、やはり仏陀の理法を今までの解釈に捉われずに紐解いていくと、氷解したので、その本を書いたのです。