やまびこさん、こんにちは。
そうですね。
今の日本の仏教では、『すべての存在は、縁起によって成り立っているから、自らの固有の性質というものはない。つまり自性がない。無我である。実体がない。空である』という理論です。
縁起というのを関係性という意味に解しており、縁起すなわち関係性によってのみ存在しているのだから、自性がない、固有の我(アートマン)はない、無我である、という理論展開です。
ただ、歴史上の仏陀が、『すべての存在は縁起によって存在しているから自性がない、空である。』というように『縁起』という言葉を使ったことは一度もありません。
原始仏典を開けばわかっていただけるでしょうけど、仏陀が縁起を説くという場面では、必ずと言っていいほど十二縁起を説いています。(五支縁起などの省略形はあるにしても)
つまり、歴史上の仏陀は、『縁起』を苦の縁って起こる原因という意味で使っているのです。
ところが、後世の仏教では、この『縁起』という仏教用語を、無我や空を結論付ける理論展開にもっぱら使うようになりました。
それが日本でさらに発展して、『私たちは一人で生きていられない。無数の関係性によって生かされている。それを縁起という。縁起によって生かされている命だからありがたい。』というような言説をほとんどの僧侶がするようになりました。瀬戸内寂聴もよくそういうことを言っていました。
もちろん、周囲の人たちやあらゆるものごとに感謝するのは大変いいことなので、いい説法だとは思いますが、しかし、歴史上の仏陀が言った意味の『縁起』ではありません。
私は、『歴史上の仏陀は本当は何を言ったのか』ということをテーマとしているので、後世に付加され変化させられた意味ではなく、本来の意味を探求しています。