他に従属することはすべて苦しみであり
自由(主体性)はすべて楽しみである
(出典 Udana Ⅱ,9)(中村元訳)
これは仏陀が言った言葉です。
パーリ語原典では
Sabbam paravasam dukkha.
Sabbam issariyam sukham.
sabbam は『すべての』
paravasam は『他人の意志にたよる。追従する。従属する。』
dukkha は『苦しみ』
issariyam は『統治者の主権。支配管轄。』
sukham は『楽しみ』
パーリ語原典を直訳すると、次のような言葉となります。
他への従属はすべて苦しみであり、主体の確立はすべて楽しみである。
今までの仏教のイメージからは程遠い言葉です。
日本仏教の『わたしたちはすべて他の存在によって生かされているの。他の存在がなければ自分なんか存在しない。あらゆるものの関係性によっている。それを縁起というの。人は皆、縁起によって生かされている。ありがたいありがたい。』という言説とは、真逆のように感じます。
どちらが仏陀の真意でしょうか。
仏陀は、王族の皇太子、ひとり息子でした。妻との間には生まれたばかりの息子がいました。しかし、妻を捨て、生まれたばかりの子供を捨て、王である父を捨て、継ぐべき王位を捨て、家臣を捨て、領民を捨て、宮殿を捨てて、一介の修行者となりました。
これは、王である父親が最も怖れていたことでした。しかし、すべてを捨ててしまいました。国の統治者となるべき責任を放棄しました。父親としての責任、夫としての責任もすべて放棄しました。仏陀の弟子たちもそうでした。家族などすべての関係性を断ち切って出家しました。子孫が絶えるということで、両親が子孫を残してくれと泣いて頼んだために捨てた妻と性交した弟子を仏陀はサンガから追い出しました。
すべての関係性に何の価値も見出さなかったのです。自由への希求こそ、仏陀が望んだことでした。すべての関係性を捨てた人の教えが日本ではなぜか『あらゆるものの関係性によって生かされている』ということに変化していきました。
仏陀が選んだ出家とはあらゆる関係性をすべて断ち切ることでした。仏陀の弟子たちもそうしてきました。捨てられた、王である父親、妻であるヤショーダラー、息子であるラーフラはそれはショックだったはずです。
あらゆる関係性を断ち切り、自分の弟子にも関係性を断ち切らせた人が、『あらゆるものの関係性によって生かされている。ありがたいありがたい。』というような教えを説くはずがありません。もしそんなことを説いたらヤショーダラーは『どの口が言ってる?』と怒るでしょうね。実際、原始仏典には関係性によって生かされているという言説はありません。むしろ『愛する人をつくるな』と説きます。
さきほど、『日本ではなぜかあらゆるものの関係性によって生かされていると変化した』と書きましたが、龍樹から縁起の意味が仏陀とは変化したからです。
『他に従属することはすべて苦しみであり、自由(主体性)はすべて楽しみである』
これが仏陀が言ったことなのです。