高原さん、こんにちは。
梵天については、仏陀の教えから仏教への変遷を解き明かす鍵だと思っています。
偉大なるものは、実に、ブラフマンの中から湧き出て来た神々である。
- 『アタルヴァ・ヴェーダ』
ブラフマンとは、宇宙存在の根源のことです。最高の霊格です。
すべての神々はブラフマンから湧き出ます。
そして、ブラフマーとは、ブラフマンが人格化したものであり、創造神です。
ちなみにバラモンとは、ブラフマンに属するもの、ブラフマンの親族という意味です。
つまり、バラモンとは最高の階級ということです。
このように、ブラフマンは、最高を意味しました。
梵天とはブラフマーのことです。
ですから、仏陀が成道したときは、勧請した梵天は、宇宙最高の創造神であったのです。
ところが、後世になるに従い、梵天の地位はどんどん下がっていきました。
そして、結局、色界最下層の神にまで落とされてしまったのです。
ここに、仏教の変遷の謎を解く鍵があると思っています。
成道の時、仏陀は、説いても誰も理解できないだろうから無駄だと思いました。
それを見た梵天が『ああ、このままだと世界が滅びる』と思って仏陀を説得します。
世界が滅びるかどうかという瀬戸際に、なぜ色界の最下層の神が来たのでしょうか。
これは、仏陀の耳に世界の根源、宇宙の根源の声がしたと見るべきでしょう。
仏教の初期段階までは、梵天は、インドの常識通り、宇宙最高神であったと私は思っています。
時代が下るにつれ、バラモン教なるものの要素はすべて排除され、価値をなくしていったと思っています。
このことが、仏教最大のキーである、無量心を解き明かすものになると考えます。
親鸞に関しては、やはり、過大評価のような気がします。
法然が実は仏教の革新なのですが、こちらは親鸞に隠れて過小評価です。
『善人なおもつて往生す。いわんや悪人をや。』は、親鸞の言葉ではなく、法然の言葉でもなく、たぶん、源信あたりか、天台本覚思想からの口伝でしょう。
法然上人伝記にはすでに出ていますし、そこに口伝と書いてあります。
これは本覚思想の究極とも言えるすごい言葉なのですが、親鸞と言えばこの言葉だと思われていて、そのことが親鸞の評価をかなり実際より上げている気がします。
また、歎異抄は、息子善鸞を義絶破門した後ですから最晩年です。
しかし、そのころでも、信心による深い喜びは全く湧き上がっていないと言っています。
つまり、救いの歓喜を体験していないのです。
それを、親鸞は、頭の中だけの理屈で自分を納得させています。
心に信仰の歓喜が生じないのは煩悩が多いからだ、煩悩が多い凡夫をこそ阿弥陀仏は大悲により救おうとされている、だから信仰の歓喜が湧かないほうがいいのだ、これでいいのだ、という理屈です。
そして死ぬまで膨大な著作を書き続けています。
ずっと自分の救いを頭で考え続けた人なんだろうという気がします。