梵天の地位

 高原 (60.153.108.172)    
ショーシャンクさん、こんにちは。
たきさんの投稿を読みながら考えていました。
たきさんの疑問における「無記」についてはショーシャンクさんのおっしゃっている通りだと思います。
スッパニパータは、「歎異抄」における唯円の役割を、弟子のアーナンダが記録しています。地獄、前世、梵天などを、あらかじめ架空だと疑って読んでは、アーナンダは見たまま、聞いたままを記録しているので、アーナンダに失礼かなとついつい思います。 梵天勧請は、我々が梵天に会ったことがないだけで、釈迦くらいの人になら、天から降りて来られて話をされたとしても別におかしくないような気がします。
スッパニパータには、聖人の相の証明を見せてくれと言われ、釈迦は長い舌で自分の顔をペロリと舐めたり、自分の性器を見せたり、ちょっとびっくりするようなことをしたりします。
小さな章、四で「父母につかえること、妻子を守ること、これがこよなき幸せである」とありますが、父母も妻子も捨てて家を出たお釈迦さん、あんたが言うか、ということも釈迦は言ってて、少し首を傾げざるを得なかったり。
古い仏典だけに、事実だけを嘘無く書かれたはずのスッパニータのはずですが、書かれていることは疑惑を持たずに読めば良いのかなと思います。
「歎異抄」とか「正法眼蔵」なら、すべて事実と疑いはないですが。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定住処ぞかし」(どんな修行をしても離れられない煩悩の身ならば、どうやっても地獄しか住処のない自分である)とは「歎異抄」の一説ですが、痺れませんか?「歎異抄」は名文で、読んでいて凄いと思うことがあります。まるで麻薬のようなクラクラとしてきます。この「歎異抄」に酔ってしまいます。しかし、冷静になれば、この地獄の話もただの言い訳で、「どうせ地獄に行くしかない身だから、例え法然にすかされ(騙され)ても、もとから地獄へ行くんだから、それが極楽に行けるんなら無茶苦茶ラッキー」とうまくまるめこまれてる感じ。 唯円「私は念仏を唱えても、喜びが起こりません。浄土への憧れさえも起こりません。情けなや」 親鸞「私も同じことで悩んでいた。本当なら我々、救われるはずのない者が救われるとしたら嬉しくて踊りだしてるはず。嬉しくてんらないことが嬉しくないとは、煩悩が邪魔してるからであり、いよいよ救ってくださる約束である」とこの唯円と親鸞の話はほとんど無茶苦茶です。マルチ商法の話術みたいなものです。
ちょっと話が外れましたが、スッパニータは仏典の最高峰にあるとぼくは思っています。以前、「とある禅愛好者」さんの投稿に、小説家の立松和平さんが講演でスッパニータのことを話しているURLが張ってあって、立松さんはそれが釈迦の生の言葉ということがご存知なく、仏教の短い詩句を集めたものだと思っていらしたようですが、それでも「とても良い本でずっと読んでいます」と話しておられたほど、仏教に関心のない人にでも伝わる真実が書かれている素晴らしい書物だと思っています。

 

 

 

高原さん、こんにちは。

梵天については、仏陀の教えから仏教への変遷を解き明かす鍵だと思っています。

 

偉大なるものは、実に、ブラフマンの中から湧き出て来た神々である。 

                      - 『アタルヴァ・ヴェーダ

 

ブラフマンとは、宇宙存在の根源のことです。最高の霊格です。

すべての神々はブラフマンから湧き出ます。

そして、ブラフマーとは、ブラフマンが人格化したものであり、創造神です。

ちなみにバラモンとは、ブラフマンに属するもの、ブラフマンの親族という意味です。

つまり、バラモンとは最高の階級ということです。

 

このように、ブラフマンは、最高を意味しました。

梵天とはブラフマーのことです。

ですから、仏陀が成道したときは、勧請した梵天は、宇宙最高の創造神であったのです。

ところが、後世になるに従い、梵天の地位はどんどん下がっていきました。

そして、結局、色界最下層の神にまで落とされてしまったのです。

ここに、仏教の変遷の謎を解く鍵があると思っています。

 

成道の時、仏陀は、説いても誰も理解できないだろうから無駄だと思いました。

それを見た梵天が『ああ、このままだと世界が滅びる』と思って仏陀を説得します。

世界が滅びるかどうかという瀬戸際に、なぜ色界の最下層の神が来たのでしょうか。

これは、仏陀の耳に世界の根源、宇宙の根源の声がしたと見るべきでしょう。

仏教の初期段階までは、梵天は、インドの常識通り、宇宙最高神であったと私は思っています。

時代が下るにつれ、バラモン教なるものの要素はすべて排除され、価値をなくしていったと思っています。

 

このことが、仏教最大のキーである、無量心を解き明かすものになると考えます。

 

 

 

親鸞に関しては、やはり、過大評価のような気がします。

法然が実は仏教の革新なのですが、こちらは親鸞に隠れて過小評価です。

『善人なおもつて往生す。いわんや悪人をや。』は、親鸞の言葉ではなく、法然の言葉でもなく、たぶん、源信あたりか、天台本覚思想からの口伝でしょう。

法然上人伝記にはすでに出ていますし、そこに口伝と書いてあります。

これは本覚思想の究極とも言えるすごい言葉なのですが、親鸞と言えばこの言葉だと思われていて、そのことが親鸞の評価をかなり実際より上げている気がします。

また、歎異抄は、息子善鸞を義絶破門した後ですから最晩年です。

しかし、そのころでも、信心による深い喜びは全く湧き上がっていないと言っています。

つまり、救いの歓喜を体験していないのです。

それを、親鸞は、頭の中だけの理屈で自分を納得させています。

心に信仰の歓喜が生じないのは煩悩が多いからだ、煩悩が多い凡夫をこそ阿弥陀仏は大悲により救おうとされている、だから信仰の歓喜が湧かないほうがいいのだ、これでいいのだ、という理屈です。

そして死ぬまで膨大な著作を書き続けています。

ずっと自分の救いを頭で考え続けた人なんだろうという気がします。