相応部経典4

菩提樹下での仏陀成道の時のエピソードとして、梵天勧請だけでなく次のようなことも「梵天に関する集成」に書かれています。

 

菩提樹下で悟りを開かれたばかりの時(悟りを開いて5週間目)、

仏陀にこういう考えが起こった。

「他人を尊敬することなく、長上に従順でなく暮らすことは、やりきれないことである。わたしは、いかなる道の人またはバラモンを尊び重んじたよって生活したらいいだろうか。」

「しかし、私より以上に、戒め、禅定、智慧、解脱の体系を達成している人を見ない。

むしろ、わたしは、わたしが悟ったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう。」

 

最初のこの決意により、仏陀の教えは、人に頼らず、理法にのみ頼っていくという道ができたと言えるでしょう。

 

 

「バラモンに関する集成」には、罵る人に対しての説法があります。

 

「友人・知人があなたのところに来ることがあるか?」

「あります」

「あなたは客に料理を出すだろうか?」

「出します」

「もしも彼らがその料理を受けなかったならば、その料理は誰のものになるだろうか?」

「わたしのものです」

「あなたが出した罵りも、わたしが受けなければ、あなたのものとなる。」

 

 

罵りに対して反論したり反応することは、出された料理をいっしょに食べることになる。罵りに対して反応しなければ、その罵りの負のエネルギーは全部罵倒した人に返っていくということです。

 

 

生まれを尋ねるな。行ないを尋ねよ。

火は実に微細な木材からも生じる。

たとい賤しい家からの出身であろうとも。

毅然として、慚愧の念で身を防いでいる。

聖者は、高貴な人となる。

               (バラモンに関する集成)

 

ここで、「慚愧の念で身を防いでいる聖者は高貴な人となる」と言う文が出ました。

「慚愧の念」というのは、今までの仏教では全く重要視されなかったものですが、最古層の仏典では重要なものだったと考えられます。

 

 

 

真実と法と自制と清浄行、

これは中道によるものであり、ブラフマンを体得することである。

                   (バラモンに関する集成)

 

これもびっくりするような言説です。

ここで仏陀は「ブラフマンを体得」と言っています。

後世の仏教では、アートマンもブラフマンも全否定しています。

最古層(相応部経典の第一集「詩句をともなった集」は、スッタニパータとともに古層の仏典の中でも最古層とされています)の仏典では、ブラフマンは肯定され、体得されるべきものと考えられていました。

 

 

 

慚(はじること)が鋤棒である。

                   (バラモンに関する集成)

 

さて、ここでも、慚愧の慚が出てきました。

無量の見地から自分の心を照らしてみると、懺悔慚愧の念が沸き上がってきます。これが沸き上がらない限り、慧は訪れません。180度の回心がなされなければ、正見=正見解=智慧 にはならないからです。

仏教は因果だから縁起だから自分なんてない、無我なんだから、因果でそうなるしかなかったんだから脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるんだからそうなるしかなかったのだから自分を悪いと思うことも自分を責めることもなくなって楽になって苦から脱する・・・これが仏教だと言っている人がいましたが、全く違います。そんなものを仏教と言ってる時点でとんでもないことです。

人を5人殺して「環境のせい、親のせい、遺伝のせいだから俺は悪くない」という人は罪悪感で苦しむことはないです。しかし、「自分が人を殺したのは人のせい、親のせい、遺伝のせい、環境のせい、世間のせい、社会のせい」というのは真理とは真逆です。

仏陀が言ったのは、想いが主であり、環境はそれに従う、ということです。すべての原因は想いだということです。

 

懺悔慚愧とは自分を責めることではありません。自分の心が無量に照らされたときに、その卑小さをはじる気持ちのことです。いかに、今までの想念が、肉体に、感覚に、記憶に紐付けられた想念ばかりだったかをありありと見せられて愕然とする感じです。そこでdeleteが起こります。これを経ないと、いくら頭で「空だ。無だ。無我だ。」と言ったところで、記憶の束、感情の束は厳然としてあり、ことあるごとに連想の元となります。『無我』『無我』と言ってる人に限って、自我が強く感情的なことがあるのは、潜在意識の中の記憶の束はそして感情の束がそのままあるということを示しています。

 

 

次に「おおいに富める人」という節で、仏陀が現世的な知恵を授けて男を救った話が出てきます。これを見ると仏陀が「世間解」と呼ばれた理由がわかるような気がします。

 

むかし大いに富んでいたあるバラモンが、みすぼらしい恰好で、仏陀のもとにおもむいた。

「バラモンよ。大いに富んでいたあなたがなぜそんあみすぼらしい恰好をしているのですか?」

「わたしには、4人の子息がいますが、かれらは妻と相謀って、わたしを家から追い出したのです。」

「それでは、バラモンよ。あなたは次の詩句を、公会堂に大勢の人々が集まっているときに、来ている子息たちに対して唱えなさい。」

 

詩句『わたしは子供の生まれたのを喜び、成長を願ったが、かれらは妻たちと謀って、犬が豚を追い立てるように、わたしを追い出した。実は子のかたちをした悪鬼だったのだ。かれらは老いぼれたわたしを捨て去った。・・・・・(以下略)』

 

公会堂でこの詩句を唱えたところ、子供たちは、そのバラモンの父を家に戻した。

 

 

仏陀が人生相談にのっている場面です。世間解と言われるだけはあります。