中心を消滅させる理法

さて、どのような宗教であれ、その教義や体験が自我に取り込まれより強固な自我を形成することを見てきました。

私が言う『自我』とは、『私という中心がある』『守るべき中心がある』という思い込みのことです。

なぜそれがあるといけないのでしょう。

無量感でいられないからです。

中心が形成されたとたん、限定が起き、欠乏感が起きます。

無量感から離れてしまうのです。

私たちは生まれた瞬間から感覚器官によって様々なものを感受し経験します。

そのうちはっきりとした『私という中心』が形成されていきます。

この中心こそ毒矢です。

貪瞋痴という三毒が塗られています。

なぜ毒というかというと、苦しみをもたらすからです。

 

仏陀は、『私は矢を抜く最上の人である』と言いました。

仏陀は矢を抜く、つまり自我という中心を消滅させる最上の人なのです。

 

こういうと、いわゆる仏教徒、特に大乗仏教徒はこう言うでしょう。

『諸法無我が真理だから自我なんてない。自我を消滅させようとするも自我だ。』

このような言辞のために、仏陀の真意は失われていきました。

諸法無我と言い回っている人に限って、自我や我執が他の人よりも強固なのは、このような言辞が仏陀の理法とはかけ離れているからです。

いくら頭の中で『諸法無我』と思い込もうとしても、自らの心の中の『私という中心があるという感覚』はなくなりません。何かを感受するたびにそれまでの記憶の束がそれに反応してしまうのです。

諸法無我といくら念仏のように唱えても、何の役にも立ちません。

今まで仏教は、仏陀が説いた理法を無視し、十二縁起を解明することもなく、自我の成り立ちを洞察することがありませんでした。

言葉や思考をなくそうとする修行に明け暮れるのが仏教だという宗派もあります。

45分間の坐禅の間は思考を減らすことはできたとしても、日常生活に戻れば、元の木阿弥です。

何かを感受するたびにそれまでの記憶の束が反応します。

それが連想になり、激流となります。

 

さて、仏教は、仏陀が本当に言ったこととは異なり、後世になればなるほど、抽象論、形而上学的理論、煩瑣な哲学にふけるようになりました。

自我に実体があるのかないのか、ないとしたら輪廻する主体は何か、ということばかり論議するようになりました。

仏陀はそういうことは涅槃に解脱に赴かないから無記としました。

 

あるいは、逆に、言葉では解き明かせないとして、理法を説かず瞑想の技法に専念する宗派も出てきました。

仏陀の理法を説くこともない宗派がはびこりました。仏陀の真意は失われていったのです。

 

仏陀の真意を解き明かすには、三明から解き明かさなくて行けません。

今の仏教にはこの視点が決定的に欠けています。

 

ブログでは詳しいことは省きますが、

三明によって、仏陀は、四諦の法を見、十二縁起のような自我の成り立ちを洞察したと考えます。

つまり、苦と苦の生起、苦の消滅、中心と中心の生起、中心の消滅を見、そして実際に消滅させ、解脱したのです。

 

中心を消滅させるには、自我の成り立ちを洞察するしかありません。

その理法を説いたのは仏陀だけです。

ここではじめて『天上天下唯我独尊』の言葉の本当の意味が分かりました。