なぜ宗教は人を腐らせるのか

ネットでもリアルでも、ずっと感じていたことがあり、それは宗教をするとかえって人が悪くなることが多いということです。

ヤフー掲示板では、私は、株式板や映画板にいました。株の世界などは大金をやり取りする戦争であり魑魅魍魎が跋扈しているイメージが強いのですが、実際は、頭のいい人、マナーがある人、ユーモアのセンスのある人が圧倒的に多かったですね。

アラシているだけの人はごく短期間で消えていきました。結果を出し続けなければ生き残れない、頭がよくなければ生き残れない世界だからでしょう。

ヤフー掲示板がなくなる2年前に、私は自分のスレッド『仏教についてのひとりごと』を仏教板(東洋哲学板)に作りました。作る前に、仏教関係の掲示板を見て本当にびっくりしました。罵詈雑言に溢れていたからです。『何だ、これは?』と驚愕しました。

極めて悪質なアラシたちが何人もいて、連続投稿、多投稿していました。

『宗教は人を腐らせるのではないか』と強く思った瞬間でした。

 

何か月か前から、マニカナに投稿し始めたメッターと言う人がいます。

最初から、貶しの短文ばかりを投稿していました。

仏教の人のように見せかけていましたが、実は、ヤフー掲示板にいたオリ、マルコというクリスチャンのようです。

私は、ヤフーの時は自分のスレッド『仏教についてのひとりごと』にしか投稿しませんでしたから、私のスレッドに投稿したことのないオリ、マルコというクリスチャンはほとんど覚えていません。特にマルコと言う名前の投稿者は全く見たこともありません。

クリスチャンであることをひたすら隠して仏教者を装って他を貶しマウント取ろうとすること自体、『本当に真摯なクリスチャンなの?』という大きな疑問が涌きます。

私はキリスト教者に対しては、とてもいいイメージしかありませんでしたが、メッターと言う人のマニカナでの行いで一気にその幻想は崩れ去りました。

本人は、スマナサーラなど上座部仏教の瞑想も習熟していると盛んにアピールしています。

これを見ても、どのように宗教に詳しくても、瞑想に秀でていても、ただ自我を膨張させて人を腐らせるだけ、というのがここでもはっきりとわかりました。

やはり宗教は、自我をなくす方向へは行かず、その宗教の知識や瞑想体験が、普通の日常生活をしている人たちよりも格段に強固な自我を形成してしまうことがはっきりしました。

 

特に、メッターという人が、他人のことを貶すのはしょっちゅうですが自分のことを指摘された時の怒りや取り乱しよう、精神の錯乱状態を見ると、完全に普通の人以下です。

ヴィパッサナー瞑想や敬虔なキリスト教信者であることが、この人の精神の安定に何ももたらしていないということです。

この人は、女性蔑視も酷すぎます。聖母マリアは女性であるのに。

口を開けば他人の貶ししか垂れ流さないような人格では、ヴィパッサナー瞑想をいくら習熟してもキリスト教をいくら熱心に信じても何の意味もなくかえってその人の自我を強めているだけと言うことです。

 

宗教には客観的な物差しは何一つありません。

すべてがすべて主観です。

『私は悟った』『私は目覚めた』『私は救われた』『私は瞑想の達人だ』と言ったところで、それを証明するものなど何もありません。否定するものもありません。

しかし、現実社会ではそうではありません。

結果がすべてはっきりと表れるからです。

会社員の人はその営業成績は数字で表されるでしょう。

経営者は会社決算数字によってはっきりとその実績が表されるでしょう。

資格試験も、その試験の合格不合格によってあらわされます。

どんなに『自分はこの資格分野で優秀だ』と言ってみても、試験が不合格になれば誰もそうは思いません。

入学試験もそうです。落ちればだれの目にもそう見えます。

スポーツ選手なら、大会において目にはっきりと見える形で結果が出ます。

 

ところが、宗教だけは、どんな人でも『私は悟っている』と言えば、それを証明することも否定することもできないのです。

ですから、最後の最後として、宗教の世界に自我の満足を求める人が出てくるのです。

しかし、それはその人の精神にとって極めて危険なことです。

 

 

自らクリスチャンであることを隠して仏教者を装っていたメッターという人に最初から抱いていた違和感は、仏陀のことが全く出てこない事でした。

その秘密がはっきりとしました。

もともとクリスチャンであった彼は、キリスト教の瞑想に飽き足らなくなり、スマナサーラのヴィパッサナー瞑想を取り入れただけだったのです。

つまり、仏陀の教え、理法と関係のない、瞑想の技法のひとつとして、スマナサーラのヴィパッサナー瞑想を捉えているということです。

ですから、メッターという人の考えには全く仏陀は影も形もないのでした。

これは、スマナサーラのヴィパッサナー瞑想の長所と短所をよくあぶり出しています。

長所としては、仏陀の理法と関係ないために、どのような宗教の人も実践できる『技法』であるということです。

短所としては、全く仏陀の理法と関係のない技法となっているために、仏陀の真意を伝えているとは言えないということです。

 

仏陀が在世中には、『生じるものは必ず滅する』という理法を説いただけで悟る人が続出していました。

仏陀の根本は、理法なのです。

ただの瞑想技術、技法を説いたのではありません。

それは仏陀が出家した最初の時に2人の仙人に弟子入りして技法、技術を習ったけど『これは解脱、涅槃には赴かない』と言って捨てていったことからもわかります。

 

仏教を仏陀の理法抜きの瞑想技術、技法にしてしまうのは、とんでもない間違いです。

 

 

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まだマニカナでメッターという人、石飛先生と井筒のことでやり合っているようですね。

クリスチャンのオリという人が、マニカナに仏教者を装って貶しの投稿をしはじめたのですが、結局、熱心なクリスチャンがキリスト教の瞑想に飽き足らず、今はやりのマインドフルネス瞑想をスマナサーラの本から学び、キリスト教以外のものに手を出した背徳感から免れるためにその正当性を裏付ける理論的背景として井筒のメタ宗教を拝借しただけのことです。

その正体がわかったので、いくら弁明しようと何かしらけてしまいます。

瞑想技術としてのマインドフルネス瞑想と井筒だけで仏教者を装っていたのですから、肝心の仏陀の影も形もないのは当然のことでした。

むしろ、正々堂々とクリスチャンの立場から、マインドフルネス瞑想の聖書の裏付けなどを語ったほうが心に響くと思います。

 

 

このメッターという人は、オリという熱心なクリスチャンらしいですが、七十才近い年齢らしいです。

つまり、非常に長い間、キリスト教を信じてきて、マインドフルネス瞑想も達人らしいのですが、口から出る言葉は貶しや罵詈雑言ばかりです。

女性への偏見も根強くあります。それは仏教でいう痴です。

また、他人のことは口汚く攻撃しますが、いざ自分のことを言われると取り乱し、精神錯乱状態になります。

このオリ、メッターという者を見る限り、宗教などやらない方がずっとましのような気がしてきます。

 

 

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ヤフーの人たちやマニカナの人たちが、このブログを熱心に読んでいただいているのは前から気づいてましたが、ただの一個人のブログですから気にかけすぎですよ(笑)

人間的評価最低とか人間として終わりの人間のブログをなぜ読むのでしょう?

人間的評価最低なのであれば、私以外の人は少なくとも私より評価上のはずですから、その人たちのブログを読めばいいだけですね。

最低とか終わりとか言いながらかなり気になっているようですね(笑)

 

メッターさん、いい加減、クリスチャンを隠して仏教者を装うのはやめて、正々堂々とクリスチャンの立場から、マインドフルネス瞑想や井筒を論じたらいいと思いますよ。

いまは、キリシタン禁止令の時代ではないのですから、クリスチャンであることを隠す必要など全くないですよ(笑)

 

そういえば、クリスチャンに会ったらどうしても聞きたいことがありました。

イエス・キリストがイチジクの木に実がなっていないので木を枯らしたことがあります。あの理由がどうしてもわからないのです。

この文章も読んでいるでしょうから、教えてくださいね。

 

 

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メッターとかいうものが、『道場では聖書のことは言わないようにします』と書いてますね。

何ともです。そこまでクリスチャンでいることを恥じているのでしょうか。

石飛先生も言われていたけど、メッターという者は『つまらない』。

何でしょう。この一言に尽きますね。逃げまくっていて、自分を明かそうとしないからかもしれませんし、深みやタメがないからかもしれません。

他人の貶し言葉ばかりで、ユーモアも全くなく、人間的に『つまらない』ですね。

自分を明かさず斜に構えているのは自信がない証拠です。