仏陀の真意について(ヤフー掲示板『仏教についてのひとりごと』の総括として)

今までの仏教知識を白紙にして、最古層の仏典から歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求する、というのがヤフー掲示板の私のスレッド『仏教についてのひとりごと』の主旨でした。

ヤフー掲示板が消滅するまであと3日となりましたので、ここで長文にはなりますが、ここまでで到達した結論を書きます。その結論に到達した経緯や文献などはまた、このブログや自費出版で詳しく書くことになろうと思いますが、いまはなるべく結論部分だけを書いていきます。

最初期、仏陀がいう究極の境地、不死の境地、ニルヴァーナ(涅槃)は、無量心でした。

しかし、ある理由により、無量心は、仏陀の死後時間が経つにつれてどんどん低い境地とされていきます。解脱にまでは達せない、色界最下層の境地という解釈にまで落とされていきます。

替わって仏教の中心概念となったのが無我でした。仏陀の真意は諸法非我であったのですが、すでに初期段階において諸法無我としてすべての存在には実体がない、主体がないという考えになっていきました。

第二結集からの根本分裂で部派仏教時代になってからは、無我であるならば何が因果を受けるのかという論争に明け暮れるようになります。極めて煩瑣な思弁に耽るようになります。

その部派仏教への批判勢力として同時多発的に出現したのが大乗仏教です。仏陀の真意を本当に知り大いなる境地まで到達した人々が、各地で様々な大乗仏典を生み出していきます。そして、自分たちを大乗(大きく優れた乗り物)、部派仏教を小乗(自分だけの小さな劣った乗り物)と呼びました。

大乗仏教は、失われた仏陀の真意、失われた主体、失われた無量心の復興運動でした。

しかし、部派仏教の人たちからは、『そんなものは釈尊の教えではない。仏説ではない。』『第一結集で確定した教えに基づかず勝手に創作したものだ。』という強い非難を受けます。

そのままでは、大乗仏教はマイナーな思想のままでいたでしょう。

仏陀が生前説いたことを仏陀の死後2か月後に直弟子500人を集めてひとつひとつそれが仏陀が説いた言葉で間違いがないかお互いに確かめていった第一結集は、生前の仏陀が説いたものか違うのかの絶対の拠り所であり、はるか後世に第一結集と関係なく勝手に創作したものが認められるわけがないのですから、論争をすれば『それは仏説ではない』で終わりでした。

そこに登場したのが龍樹です。龍樹は『言葉は世俗諦であり究極の真理をあらわすものではない』『真理は言葉を超えたもの』『言葉は例えば長いという言葉は短いものによって成立しているだけの相対的なもの』という持ち前の論理を駆使し、その言葉が生前の仏陀が言った言葉かどうか以前に、言葉そのものの虚妄性を強調することで、小乗仏教の人たちを論破していきました。

これにより、大乗仏教は興隆することになり、龍樹は大乗仏教の祖とされていきました。

龍樹は、般若経典の『空』を、自らが創作した理論で解釈して、それが仏教の根本教理となっていきました。

すなわち、

すべてのものは他のものに依存してある⇒自性がない⇒実体がない⇒空である

このようにして、すべてのものは他のすべてに縁起して成り立っているものだから無自性であり実体がなく空である・・・というのが仏教の根本とされるようになりました。

大乗仏典創作運動が、部派仏教のアンチテーゼとして生まれたことは確かです。仏陀の真意は、論争に赴かず、形而上的な議論をせず、究極の境地を目指すことでした。しかし部派仏教時代には煩瑣な形而上学に耽り、他部派との論争に明け暮れるようになっていました。大乗仏教は、在家中心で煩瑣な形而上学を排し極めてシンプルに『大いなる境地』を称賛するものでした。しかし、龍樹によって出家中心そして煩瑣な哲学にまた赴いてしまいました。それに、これを機に、仏陀の本当に言いたかったことは龍樹独自の理論に変貌していくこととなりました。

歴史上の仏陀はほとんど『空』を説いていません。

スッタニパータで出てくるのは『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない。』という箇所です。

これは、世界を、泡沫や陽炎のように、生じてははかなく消えていくものと観なさい、という意味です。『空』の意味は、極めてシンプルな、『滅していくはかないもの』というだけの意味です。

『縁起』も原始仏典では必ず、十二縁起(五支縁起や十支縁起など短縮形はあったとしても)のことで、苦の縁って起こる原因のことです。

 縁起とは苦の縁って起る原因のことですから、仏陀は、菩提樹下で目覚めて7日後の初夜中夜後夜に縁起を瞑想し、『縁の滅を知って』 すべての疑問を消滅させ成道したのです。

しかし、龍樹は独自に、縁起を『あるものは他のすべてに相依してなり立っているもので、その自体の性質つまり自性はなく、実体がなく、空である』という理論に作り上げました。

龍樹が解釈した『縁起』『空』『無我』によって、日本仏教は形作られます。

 

すなわち、現在、日本のお坊さんが宗派を問わずに共通して言ってること、

瀬戸内寂聴の言葉で言えば

『私たちは他のすべての存在に生かされているの。だってそうでしょ、食べているお米も農家の人が作ったものだし、作るには水や空気や日の光や土やいろいろなものが縁となってはじめてできるの。いま着ている服でもそう。いろんなものが縁となってできているの。人は一人では生きていけない。それを縁起というの。縁というのはありがたいものですべての縁に感謝して生きていくの。人は縁によって生かされている。ありがたいありがたい。』

感謝の念を出すことはいいことで、欠乏の方向に向くのではなく、充足の方向に向いているのですからそれ自体は望ましいことです。ですから、日本のほとんどの仏教宗派でこれが仏教だと考えています。

しかし、歴史上の仏陀の教えとは全然違います。今の仏教が言っている、お米によって生かされている、服によって生かされている、というのは肉体です。

しかし、仏陀は、肉体も心も『私ではない』と言います。これを五蘊非我といい、最も基本的な四念処観は、身(肉体)・受(感覚)・心(心)・法(観念)は私ではない、非我であると観想するものです。

非常に多くの要素によってお米などの食料ができ自分の口まで届くのは事実です。肉体が多くの要素によって存続できているのは当然その通りでしょう。

しかし、仏陀の教えとは明らかに違うものです。

仏陀は『他者に従属しないこと』『自己を確立すること』を説きました。『他との関係性によって生かされている。ありがたい。』というようなことは仏陀は言いませんでした。