十二縁起を瞑想するということ

koboyuki (27.82.211.253)    

ショーシャンクさんこんばんは。 私たち普通の人間が、普通の生活を送りながら、感覚を持ったままで、理法を念じて、揺るぎない無量に達する、具体的な方法が知りたいです。 今はただ、スッタニパータ、ダンマパダ、仏陀最後の旅を、よく読んで、自分なりに、よく考えていこうと思います。
 
 
 

koboyukiさん、こんばんは。

仏陀が成道したときに、その最大のヒントがありました。

律蔵大品が最も詳しく成道の時の様子を伝えています。

それによりますと、

仏陀は菩提樹の下で悟りを開きます。

その悟りの境地を1週間楽しんだ後、1夜をかけて十二縁起を順逆徹底的に瞑想します。そして『すべての疑問がなくなった』と宣言します。

 

 

熱心に瞑想しているバラモンにdamma(理法) が顕わになった時

彼は「縁って起こるところ」(縁起)を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る

 

熱心に瞑想しているバラモンにdamma (理法)が顕わになった時

彼は「縁の滅」を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る

 

熱心に瞑想しているバラモンにdamma (理法)が顕わになった時

彼は、太陽が天空を照らすかのように、悪魔の軍勢を打ち破って立つ

 

 

 

ここに最大のヒントがあると思っています。

無量なるものに目覚め、圧倒的な無量感を楽しむこと、これは今まで体験した人はいるでしょう。

しかし、ゴーディカのように、あるいは玉城康四郎博士のように、見性したり悟りを開いたりしても1週間で元の木阿弥になってしまう。

仏陀が他の人と違うのは、悟った後に、徹底的に十二縁起を瞑想したことです。

これによって太陽が輝きだしたのです。

智慧が輝きだしたのです。

十二縁起は、本来の無量の状態から私たちが自我を形成して(私という中心を形成して)苦の集積へと向かう有り様を洞察することです。

これを徹底することで、強烈に慚愧懺悔が湧き上がってきます。

これによって、汚水の水たまりのような記憶の束、このようなものがdeleteされていきます。

ここが核心部分です。

今までの仏教には全く抜け落ちていた部分です。

この核心部分がないために、仏教はどこにも行き着かない虚無論になってしまったのです。

いくら『無~ 無~』と言って無を瞑想したところで、思考を全部切っていったところで、虚無そのもの、怖るべき暗黒思想に入り込んでいくだけです。自我はそのままドロドロとしたものが厳然としてあって、社会にも適応できない者を量産するだけです。

 

いくら頭の上っ面で『自我なんてないんだ。無我が真理なんだ。』と言っても、そう言っているその人の心深く深く記憶の束が厳然としてあって、そのために感情的になって振り回されているのです。

 

時代はどんどん安易な方へと流れて行っています。

仏陀が残してくれた筏を人類は捨てたために、その筏の代わりをいろいろ発明していきました。薄いビニールで出来たカラフルでチープな浮き輪を量産していきました。

波の全く無いプールで一時のお遊びで使えたとしても、洪水や津波のような激流では役に立ちません。

 

やはり今こそ、仏陀が残してくれた筏を甦らせなければいけないと思っています。