koboyukiさん、こんばんは。
仏陀が成道したときに、その最大のヒントがありました。
律蔵大品が最も詳しく成道の時の様子を伝えています。
それによりますと、
仏陀は菩提樹の下で悟りを開きます。
その悟りの境地を1週間楽しんだ後、1夜をかけて十二縁起を順逆徹底的に瞑想します。そして『すべての疑問がなくなった』と宣言します。
熱心に瞑想しているバラモンにdamma(理法) が顕わになった時
彼は「縁って起こるところ」(縁起)を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る
熱心に瞑想しているバラモンにdamma (理法)が顕わになった時
彼は「縁の滅」を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る
熱心に瞑想しているバラモンにdamma (理法)が顕わになった時
彼は、太陽が天空を照らすかのように、悪魔の軍勢を打ち破って立つ
ここに最大のヒントがあると思っています。
無量なるものに目覚め、圧倒的な無量感を楽しむこと、これは今まで体験した人はいるでしょう。
しかし、ゴーディカのように、あるいは玉城康四郎博士のように、見性したり悟りを開いたりしても1週間で元の木阿弥になってしまう。
仏陀が他の人と違うのは、悟った後に、徹底的に十二縁起を瞑想したことです。
これによって太陽が輝きだしたのです。
智慧が輝きだしたのです。
十二縁起は、本来の無量の状態から私たちが自我を形成して(私という中心を形成して)苦の集積へと向かう有り様を洞察することです。
これを徹底することで、強烈に慚愧懺悔が湧き上がってきます。
これによって、汚水の水たまりのような記憶の束、このようなものがdeleteされていきます。
ここが核心部分です。
今までの仏教には全く抜け落ちていた部分です。
この核心部分がないために、仏教はどこにも行き着かない虚無論になってしまったのです。
いくら『無~ 無~』と言って無を瞑想したところで、思考を全部切っていったところで、虚無そのもの、怖るべき暗黒思想に入り込んでいくだけです。自我はそのままドロドロとしたものが厳然としてあって、社会にも適応できない者を量産するだけです。
いくら頭の上っ面で『自我なんてないんだ。無我が真理なんだ。』と言っても、そう言っているその人の心深く深く記憶の束が厳然としてあって、そのために感情的になって振り回されているのです。
時代はどんどん安易な方へと流れて行っています。
仏陀が残してくれた筏を人類は捨てたために、その筏の代わりをいろいろ発明していきました。薄いビニールで出来たカラフルでチープな浮き輪を量産していきました。
波の全く無いプールで一時のお遊びで使えたとしても、洪水や津波のような激流では役に立ちません。
やはり今こそ、仏陀が残してくれた筏を甦らせなければいけないと思っています。