備忘録(71経~)

中部経典第71経『三明ヴァッチャ経』

仏陀が、自分自身で『一切知者、一切見者というべきではなく、三明者と言うべきである』と語ります。

また、アージーヴァカ(邪命外道)という運命決定論者、自由意思がないという考えの派では、一人を除き天に行ったものはいないと説きます。その一人も、業論者になり作用論者になってから死んだので天に行けたということです。

 

中部経典第72経『火ヴァッチャ経』

十無記が出てきます。

『世界は永遠か』『世界は永遠でないか』(時間的に無限か否か)

『世界は有限か』『世界は無限か』(空間的に無限か否か)

『霊魂と肉体は同じか』『霊魂と肉体は異なるか』

『タターガタは死後存在する』『タターガタは死後存在しない』

『タターガタは死後存在し存在しない』『タターガタは死後存在しないし存在しないのでもない』

このような見解はもっていないと説く。

それは、見に赴き、見の密林、見の縛りであり、苦をともない、厭離にためにならず、正しい覚りのためにならず、涅槃のためにならない。

五蘊がこうでありこう生起しこう消滅することを見ている如来はそのような見から解脱している。

 

そして、そのように心が解脱している比丘は、『生まれかわる』も『生まれかわらない』も『生まれかわり生まれかわらない』も『生まれかわらないし生まれかわらないでもない』とも言えない。

 

それは例えば、草や薪によって燃えている火が消えた場合、その火はどこに行ったのか、薪という燃料によって燃えていて燃料がなくなったら消えた場合、どこに行っているのではなく消えている。

如来について、色によって、受によって、想によって、行によって、識によって述べることはできるが、如来はそのような色・受・想・行・識は断たれている。

色・受・想・行・識という呼称から解脱しており、深遠、無量にして、深入しがたく、大海のようなものである。

 

中部経典第73経『大ヴァッチャ経』