たきさん、私は、涅槃に到達しているわけでもなく、解脱しているわけでもありません。
ただ、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったかを探求しているだけです。
本業は他にあり、プロの宗教家では全くありません。
自己満足ですね。
ですから、坐禅や瞑想を学ぶときには、プロの宗教家、禅僧や上座部仏教の比丘たちに習ってください。
私個人としては、歴史上の仏陀が本当に言いたかったことは、いまいわゆる仏教と言われている構築物とはかなり風景が違っているような気がしてならないのです。
因果の法にしても縁起の法にしても、あまりにも物理現象や自然現象に沿って誰から見ても異論がないところに迎合してしまって、仏陀の真意からはかけ離れている言説になっている感じです。
因果の法にしても縁起の法にしても、物理的に種が原因となって果実が果となるような、あるいは私以外のすべてのものが縁起して生命が生かされているというような、そういうものが仏教だとなってしまっています。
しかし、仏陀は物理的な因果を説いたわけではありませんし、縁起の意味も全く違います。
結局、形成されたものへの自己同化を外していくのが、仏陀の道ではないかと思っています。
四念処は
身⇒受⇒心⇒法
の順に自己同化を外していき、中心をdeleteしていき、ついに中心の消滅へと至る行法だと考えます。
故に、仏陀は、四念処は涅槃に至る一乗道と呼んだのです。
四念処の最初、白骨観は、墓場で死体が腐っていく様を観察するのですから、肉体が自己と言う自己同化がなくなるようにするものだということは明らかです。
身⇒受⇒心⇒法 すべてにおいて、そのような中心を形成しているものをdeleteしていくものだというのが私の考えです。
ただ、私の考えが正しいとは限りません。
今まで言われてきたことと違うことばかり言っていますから、とんでもない間違いである可能性も高いのです。
まあ、こういう考えをする変な奴もいるというくらいで、読んでもらったらいいと思います。