たーぼーさん、こんばんは。
長くなりそうなので、何回かに分けて継ぎ足しながら書いていきますね。
まずは、ざっとした大まかなところを書きます。
私は四無量心を非常に重要視しています。究極の境地だと思っています。そして、まだ四無量心の解説はしていませんが、今までの仏教とは全く違う解釈を私はしています。四無量心こそ本来の心を表したものです。ですから、四禅定などのカテゴリーには入りません。私が考える、四無量心は、涅槃と同義の究極の境地であり、自費出版で明かそうと考えているところです。たぶん、誰の解釈とも全く違うと思います。
四無量心が究極の境地ということでさえ、いまの仏教の解釈とは全く違います。
ある理由があって、仏陀の死後、四無量心はどんどん貶められ、色界最下層の境地とされ、涅槃には至らないとされました。
梵天の住む色界最下層に生まれ変われるだけだとされました。
今の仏教解釈は、どれも仏陀の真意を捻じ曲げています。
次に、色界の禅定(四禅定)も無色界の禅定も、しょせんは無思考型の瞑想であり究極ではありません。
色界と無色界の定の最高は、無所有定と非想非非想定です。どちらも、出家したばかりの釈尊が習った瞑想ですが、釈尊はすぐその境地に到達したものの、『これは私の求めているものではない。涅槃にも解脱にも行き着かない。』として捨てて去ります。
これでわかるように、色界定も無色界定も涅槃に到達するような瞑想ではありません。
いまの私の結論では、無思考型の瞑想は、雑念を少なくすることには効果があるものの、無思考だけであればどこにも行き着きません。まして涅槃というような究極の自由な境地には行き着くはずもありません。
四諦十二縁起や四念処のような理法を徹底的に瞑想しなければ、智慧は生じませんし、精神の転回は起きません。
また慚愧懺悔が起きなければ、中心を滅することなどできるはずもないのです。
無所有定も非想非非想定も釈尊が捨てた瞑想です。
しかし、釈尊は、悟った後も、頻繁に禅定(四禅定や無色界定)に入ります。
それは、無思考の境地を楽しむためです。修行ではありません。
言葉を使って教えを説くには思考をフルに使わなくてはいけません。
膨大なエネルギーが必要な作業です。
悟った釈尊にとって、無思考である状態は、何より安楽な状態だったのでしょう。
入滅するときも、四禅定や無色界定に入っていきます。
しかし、われわれ普通の人にとって、無思考の瞑想など、座禅をしている1時間だけのことであり、座禅から立って日常生活に戻ったとたん元の木阿弥です。
禅には臨済禅(公案禅)と曹洞禅(黙照禅)がありますが、臨済禅が公案を考えに考え抜いて無思考に到達するのに対し、曹洞禅は最初から無思考です。特に黙照のほうが危険だと思います。
いまは、瞑想と言えば無思考型ばかりなので、それで本当にどこかに行き着くんであろうかと思っています。仏陀が言ったようにどこにも行き着かないのではないかと思います。
道元に関しては、私は学生の時は正法眼蔵を読んで感動しましたが、いまは、道元を見ると、精神ががんじがらめで自由な境地にないような窮屈な感じを受けます。
『心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず』という禅語に対し、
道元は『法華転法華』と言いました。これは素晴らしい言葉です。
道元が正法眼蔵で言った『色即是空の転法華』『空即是色の転法華』については、ものすごく長くなりそうですので、稿を改めて書きます。
六祖慧能が言った『心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず』は、法達という法華経専門の仏教学者が教えを請いに来たときに言った言葉です。
あなたは法華経にがんじがらめになって縛られ心迷っている、悟って主体を確立すれば法華経を自由自在に駆使することができる、ということです。
同じ法華経を読んでも、そのために心が法華経にがんじがらめに縛られるか、自由な境涯でスラスラと行くことができるか、です。
このエピソードを引いて、道元は、『法華転法華』と言いました。
主体となって法華経を転じているものがすなわち法華だと。主体である法華が法華を転じるのだ、と。
つまり、ワンネスです。主体も客体もワンネス。主体も客体も法華なのです。
だから道元は人気があります。
道元の言葉を読むと、今でも、純白を感じます。雪のような純白。
銀椀裡に雪を盛るという禅語がありますが、まさしくそのイメージです。
私もワンネスの世界は好きです。いつまでもその境地に浸っていたい感じです。
いまは、ワンネスといえばノンデュアリティですが、日本で最も先駆的なのは道元かもしれません。
しかし、これからが大切なのですが、確かに道元の本を読んでいる間はワンネスに浸ることができるのですが、日常生活に戻ると元の木阿弥です。
何一つ変わらない。
記憶の束が厳然としてあり、その束を『私』と呼んで生活している。その『私』と『私のもの』を必死に守るべく一生懸命になっているのです。
どこにもワンネスはありません。
道元もそうです。
北条時頼が道元の弟子の玄明に寄進状を持たせます。玄明はそれを永平寺に持って帰ります。
それを見た道元は、すぐ玄明を破門して永平寺から追い出します。
そこまではいいのです。
玄明の勝手な判断で寄進状を断るわけにもいかなかったとは思いますし、玄明も私腹を肥やしたわけではなく永平寺のためを思って寄進状を持ち帰ったのですから、即刻破門するという処置はあまりにも厳しいとは言えますが、まあ、そこまで厳しい人だったんだな、という感想で終わるでしょう。
しかし、道元は、玄明が座禅していた床まで壊してしまい、あろうことかその床の下の土まで掘りおこして捨てさせたということです。
これはもう潔癖症すぎてちょっと病的な感じがします。
大らかさや優しさ、包容される感じが全くしません。
ワンネスを唱えながら、ノンデュアリティを説きながら、人の攻撃や非難ばかりする人のように、明らかに口と行ないが違います。
禅でもよくいますね。
『わたしはあなたなんだ。』『あなたはわたしなんだ。』『目の前のパソコンはわたしなんだ。』と盛んに言っている人。
そして、それは口だけ、頭だけの理解なのです。
そうであれば、見も知らない私がその人の家に勝手に入り込んで冷蔵庫のものを取り出して料理して酒盛りしはじめたら、その人はそれでも『あなたはわたしなんだ』と言ってくれるでしょうか。
害がない範囲内で、イメージの中だけで『あなたはわたしだ』と言っているだけです。
本当にワンネスと口で言うためには、記憶の束である中心を洞察し、その中に埋め込まれている感情、欠乏感、愛憎の膿を洞察し、deleteしていかなければ何も変わらないのです。
禅やノンデュアリティやスピリチュアルで、いくら『わたしはあなた』『わたしは世界』『ワンネスしかない』などと言っても、自分の中の我塊が何も変わってないどころか、ますます増大し繁殖しているのです。
ですから、『どこにも行き着かない』ということです。
どこにも行き着かないどころか、仏陀が言うように、苦の集積に向かって激流に流されているのです。
たーぼーさんの質問に答えますと、
①の質問にはすでに答えました。
私が考える四無量心は、本来の心の状態そのままですから、四禅定の段階の問題ではありません。
②の質問は、『物が物として認識できなくなる(泡みたくなる)のは四禅定のどこでしょうか? 』ですが、仏陀はこう言っています。
『世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。』
泡沫もかげろうもはかないものの喩えです。
すべてのもの、すべての形成されたもの、すべての認識されるものは、生じては滅するはかないものだと観じよ、ということです。
これも、智慧が必要です。俯瞰して見ることが必要です。
いくら無思考の座禅、禅定を行なっても、それを止めた途端、この世はいつものように硬い鋼鉄で出来た堅固なものとして自分の周りを圧迫しているでしょう。
泡、泡沫のように見るためには、無常の理法、つまり生滅の理法を徹底的に瞑想するべきです。
再び言いますが、色界定も無色界定も仏陀が出家後すぐ到達した境地です。
しかし、仏陀は、
『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない。私はこの法を捨ててさらに無上安穏の涅槃を求めるべきである』と思って去ったのです。
仏伝でははっきりと、色界定も無色界定も智慧にも悟りにも涅槃にも導かない法だと仏陀自身が言っているのです。
それなのに、特に大乗仏教になってからは、この無思考の瞑想ばかりを重要視するようになっています。
③の質問は、『一境性だけの四禅になっても、まだ色界なんでしょうか?なら色界を脱するのは何禅ですか? 』ですね。
公案禅などは四禅定に近いと思います。
尋と伺があって、最終的に一境性に到達します。
公案をひたすら考えるのが尋と伺に当たると考えると、そうやってどんどん思考や感情をなくしていき、(禅では奪い尽くすとかすべてを放下するとか言います)、最終的にはワンネスつまり一境性になるとすれば、かなり近い感じです。
ただ、これも、禅定している時間だけのワンネスですね。
理法を洞察しなければ、中心はそのままの状態でありますから、色界も無色界も脱することなど出来ません。三界から出るには、智慧が必要です。
仏陀は、禅定は『この法は智に導かず、覚に導かず、涅槃に導かない。』と言っています。
④の質問は、稿を改めて、時間があるときに書きます。