不善の法と善法

 くり (58.188.173.251)  
たきさまの質問と、ショーシャンクさまのお答えに感謝申し上げます。頭の中がスッキリしました!!

 

 

 

くりさん、おはようございます。

 

不善の法の捨離は、仏陀の教えの最初に来るものです。

それでは、善法とは何でしょうか。

善法とは面白いことにほとんどの場合、不善の法をしないことなのです。

例えば、こんな言葉があります。

 

 

もろもろの不善の思惟とは何か。

欲の思惟、怒りの思惟、害意の思惟です。

 

それでは、もろもろの善の思惟とは何か。

欲のない思惟、怒りのない思惟、害意のない思惟です。

            (サマナムンディカ経)

 

 

ただ、別の経典で、dosa(嫌悪)やdosaから来る沈鬱という不善の法を消滅させるのには、慈しみの想いをすればよいとあるものがあり、はっきりと積極的な善法というのは、『生きとし生けるものが幸せでありますように』という慈悲の想いがあるくらいです。

そういう意味で慈悲の瞑想は極めて重要なものと考えています。

 

 

 

 

 くり (58.189.36.232)  
ショーシャンクさま おはようございます。
さらなるお言葉、有難うございます。
お蔭さまで当方の仏教への理解がまた一つ深まりました。
ショーシャンクさまが挙げられた、先の「大愛尽経」、今回の「サマナムンディカ経」、共にネットにあります『光明寺経蔵』にて拝読させて頂きました。
こういう機会でもない限り決して読むことのなかったであろう大事な経典、この「縁」を頂いたことに改めて感謝申しあげます。有難うございました。
 
 
 
くりさん、こんにちは。
五蓋を滅することの一つにこういう言葉があります。
 
怒りと憎しみを捨て、怒りのない心をもち、すべての生き物を益し、同情して住み、怒りと憎しみから心を浄めます。
 
怒りや憎しみ(これはdosaから来る)を滅するには、すべての生き物を益し(生きとし生けるものが幸せでありますように)=慈しみ、同情して住み=悲 という、つまり慈悲の想いで心を浄化するとされています。
 
 
 
 
 
 くり (58.189.38.141)  
ショーシャンクさま こんばんは。
またしても善き言葉を教えて頂きまして有難うございます。
仏教では心を浄めるというところにいつも焦点が当てられているのですね。
「はっきりと積極的な善法というのは、『生きとし生けるものが幸せでありますように』という慈悲の想いがあるくらいです。」とショーシャンクさまは仰ってましたが、その「慈悲の瞑想」の中に、アヒンサーと申しましょうか、あらゆる生物を区別しない、不害の心に貫かれたインド宗教文化の大きな伝統が、ブッダの悟りへの「方便」としてしっかりと息づいているのだなって感じました。
わたしも『生きとし生けるものが幸せでありますように』と、気づいた時に、心の中でお唱えすることにしました。
この度は善きことを教えて頂きまして、有難うございました。
 
 
 
くりさん、こんばんは。
実際に唱えてみると、『生きとし生けるものが幸せでありますように』は、非常に強力な効果をもたらす感じです。
dosa(嫌悪)から来る、怒り、憎しみという煩悩に対しては、絶大な効果があるのは実感します。
raga(貪り)に対しては、そんなに便利な唱えごとはありません。
ragaに対しては、四諦、つまり苦を見ることが最も効果があるように思えます。
愛着する対象に縛られることが苦であると本当に見たときに、依存から脱することができます。
まだまだ完璧には程遠いですが、かなりの部分、人や物に依存することはなくなりました。
 
 
 
 くり (58.189.38.141)  
ショーシャンクさま こんばんは。
 
>ragaに対しては、四諦、つまり苦を見ることが最も効果があるように思えます。
>愛着する対象に縛られることが苦であると本当に見たときに、依存から脱することができます。
 
ここですよね。
簡潔な言葉の中に、ショーシャンクさまの深い洞察を経た叡智を見ることができます。
そして四諦を発せられたお釈迦様の心はほんとうに自由で何の覆うものも無かったということですよね。
 
「空をとぶ鳥に跡なきごとし」
九三 ひともし漏(まよい)すでに尽き 食(かて)において箸(とらわれ)なし その心境(おもい)は空(くう)にして 形相(すがた)にとらわれず かつ 解脱(げだつ)をえたり かかる人のゆく跡は たずぬるによしなし まこと 空をとぶ鳥に 跡なきごとし    「法句経」 毎朝仏壇で読んでいる「法句経」から引用してみました。
有難うございました。