禅の話

 とある禅愛好者 (182.165.187.188)  
>禅愛好者とのことですが、それであれば、数多くの禅者を近くで見ることも多いでしょう。
>はっきりいって『あれ?』と思うようなことはありませんか?
>普通の人より人格が低劣だな、とか。
 
私は、先に次のように書いていますよ。
「2021-09-01 瞑想と人格」の記事についての私のコメントです
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座禅における神秘体験は、魔境といって切り捨てるものと聞いています。
神仏と会ったというのは妄想なんだそうです。
しかし名僧・高僧の悟り体験を読むと、悟り体験は凄いものだという話が多いように思います。
だから悟りを開いた俺様は、凄いだという感じです。
ともすれば新興宗教の教祖と似たりよったりです。
ここが私にはよくわかりません。
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禅に限らず各宗派の名僧・高僧の悟り体験は、悟りという神秘体験をした俺様は凄いんだぞ。 体験していない凡人とは違うんだ。お前ら凡人も難しいけど、体験してみろ。 という感じに見えてしまうということです。
それから禅に限らず、どの宗教であっても、熱心な信者は、『あれ?』と思うことは少なくありません。
素晴らしい宗教の信者である自分は、信者であるだけで素晴らしい人間であるという感じですね。
本人は何の修行もせず、信者になる前と後では変わっていないのに、信者になっただけで、素晴らしい自分であると主張するという感じでしょうか?
 
 
 
確かにそうですね。
私は禅批判ばかりしているように見えるかもしれませんが、そしてその通りなのですが(笑)、でも、本当は禅の話がとても好きなのです。
ただ、自称禅で悟ったと思い込んでいる人とのギャップが凄いので、何故かなとその原因を探求して、いまその理由を見いだしたところです。
禅定だけに特化してしまって、智慧によって自我の成り立ちを洞察しないと、悟ったという体験がそのままそっくり強固な自我=『悟った俺様は偉い』を形成してしまうのだという結論です。
他の宗教すべてにも言えますが。
やはり、自我の成り立ちを洞察することを経ないと、いかに禅定をしてもどんなに瞑想をしても『私という中心』は消滅しないでかえって自我に新たな体験をつけ加えるようになって強固になる、ということだと思います。
 
 
私が最も好きな禅の話は、長沙の三黙といわれるものです。『南泉遷化』とも名付けられています。
 
 

長沙因三聖令秀上座問師曰、南泉遷化向甚麼處去。

師曰、石頭作沙弥時参見六祖。

秀曰、不問石頭見六祖。南泉遷化向甚麼處去。

師曰、教伊尋思去。

秀曰、和尚雖有千尺寒松。且無抽條石筍。

師黙然。

秀曰、謝和尚答話。

師亦黙然。

秀回挙似三聖。 聖曰。若恁麼猶勝臨済七歩。然雖如此、得我更験看。

至明日三聖上問、承問和尚昨日答南泉遷化一則語。

可謂光前絶後今古空聞。

師亦黙然。

 

 

秀上座は三聖の命を受け、

長沙に『南泉は遷化してどこに行ったのか』と問うた。

 

長沙『石頭和尚は沙弥のとき六祖慧能に参見した。』

 

秀 『石頭が六祖に会ったことを聞いているのではありません。

   南泉は遷化してどこに行ったのですか?』

 

長沙『彼に考えさせよう。』

 

秀 『和尚には、寒さに聳え立つ千尺の松はあっても、

   石を割って伸びる筍の働きがありませんね。』

 

長沙は黙っていた。

 

秀 『和尚のお答えに感謝します。』

 

長沙はまた黙っていた。

 

秀上座は帰って三聖に報告した。

 

三聖『もしそうなら、長沙和尚は臨済に七歩も勝っている。

   そうはいっても、わたしが確かめてみよう。』

 

次の日、三聖は長沙を訪ねて言った。

三聖『昨日の南泉遷化のお話、全く空前絶後(光前絶後)で、

          古今に聞いたためしがありません。』

 

長沙はまた黙っていた。

 

 

この話は私の中では最高です。

臨済をまねる人は出てきても、長沙をまねることはできないでしょう。

 

 

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マニカナで芳和さんが、このブログの上の公案を見て、自分の『一言』を書いていただいたようですね。

確かに、『南泉遷化』だけならその通りなのですが、この公案は『長沙三黙』でもあるのです。

 

秀上座が長沙に『南泉は遷化してどこに行ったのか』と問うたとき、

長沙は『石頭和尚は沙弥のとき六祖慧能に参見した』と答えます。

何ともぬるい答えです。

石頭が小僧の時に慧能に会ったという、別に見たわけでもなく、文献上で読んだだけのことを答えとしました。

もちろん、秀上座は(多分むっとして)『石頭が六祖に会ったことを聞いているのではありません。南泉は遷化してどこに行ったのですか?』と再び聞きます。

答えは『彼に考えさせよう』です。

何とも鈍い答えです。

禅は、直接自分の言葉で答えなければ意味がありません。

それを『彼に考えさせよう』です。禅の答えとしてはあり得ないですね。

答えとしては、臨済なら喝をするか、殴るか、でしょう。徳山なら棒でたたくでしょう。

それを『彼に考えさせよう』ですからね。

 

しかし、秀上座も大したもので、

『和尚には、寒さに聳え立つ千尺の松はあっても、石を割って伸びる筍の働きがありませんね。』

といいます。

こんな生ぬるい答えをした人に向かって、『寒さに聳え立つ千尺の松』と評しています。もちろん、筍が持つ活発な働きがないとしましたが。

ここで、長沙は無言です。

 

秀上座が帰って三聖にそのことを言ったら

『もしそうなら、長沙和尚は臨済に七歩も勝っている。』と言うではありませんか。

あのあほみたいな生ぬるい言葉のやりとりで、なんと、禅界のスーパースター臨済に七歩も勝ってるというのです。

そして、光前絶後とまで言います。

しかし、そう言われても長沙は無言です。

 

 

この公案の眼目は、このような何とも生ぬるい答えをした長沙を、三聖はなぜ『臨済より七歩も勝れている』と言ったのか?です。

 

『南泉は遷化してどこに行ったのか』の答えは、各人、それぞれあるでしょう。

しかし、長沙の答えほど鈍い答えはないでしょう。

しかも、3回も黙ってしまいます。

さて、これのどこが臨済よりも勝れているのでしょうか。

何とも難しい公案です。

臨済は、何かを問うて、一瞬でも黙っている僧に対して、殴りながら「この役たたずめ」と罵倒します。

何とも生ぬるい答えか、黙ってしまうだけの長沙がなぜ臨済よりも勝れていると、後に臨済の法を継ぐ三聖は言ったのでしょうか。

 

 

 

 

確かに長沙は擦り切れてると思います。

臨済より優れているかもしれません。

 

こういう禅の話を聞くと、禅はいいなあとは思います。