この世は奇跡で溢れている

 
高原 (126.42.33.248)    
ショーシャンクさん、こんばんは。 奇跡というか、あり得ない不思議。会社四季報のアドテックプラズマのページだけが何度見ても光っていて、驚いてアドテックプラズマの株を買ったら、その株がそれから上がりに上がって行った話。 女子サッカーの丸山桂里奈がワールドカップの準決勝ドイツ戦で途中交代で入ってボールを貰ってドリブルしてゴールを見た時、ゴールの一ヶ所が光っていて、その光に向かってシュートすると、それが決まって決勝ゴールになりました。しかも、その丸山が蹴った場所がいつもの彼女なら絶対に蹴ってないコースで「あの光がなければ、あそこには蹴ってなかった」と言ってます。 同じワールドカップで日本のエース澤穂希は「ドイツ戦に勝ってホテルに戻ってから、(神頼みなんかしてはいけないと思いながら)初めてサッカーの神様に決勝のアメリカ戦にどうか勝てますようにとお願いしたんです」と言い、そしてあの奇跡との言われた後ろ向きのバックキックで瀬戸際で同点ゴールを決めた時「あの瞬間に、神様のような存在が私のすぐ近くまで降りてきてたような感じがしたんです。ふわふわした不思議な感じで」と言っていて、あのワールドカップ優勝は、丸山桂里奈と澤穂希の二人に奇跡のようなことが起こって優勝したんです。 ぼくは寝ている朝方、耳元でうるさいほど大きな音で鳴る錫杖の音色を聞きました。錫杖は、ぼくが目を覚ましても遠ざかりながら鳴り続けていました。住んでいる所は寺町でもなく、錫杖など聞こえるはずもなかったのですが。 そして、不思議なのは、奇跡よようなことが起こった後、そのどなたの人生も共通して大きく変化していることです。アドテックプラズマの株が上がって、それから借金が2億円もあったもう破産寸前だったのに、見事に株で借金を返し切りプラス1億円を得ておられます。 澤穂希は年度MVPにも選ばれ、世界を代表するプレーヤーとして尊敬されるようになり、丸山桂里奈と一緒に国民栄誉賞を授与され、丸山もそれまでは目立たない控えのサッカー選手でしかなかったのに、今は売れっ子のバラエティタレントとして活躍されています。 ぼくも、色んな変化が起こったのですが、それまで十数年はほとんど年間マイナスばかりだったのですが、その夏の年から4年ほどになりますが、株はすべて年間プラスで、これは口で言うのは簡単ですが、ぼくにとっては奇跡的なことでした。今年もプラスです。ぼくは株は下手なので、今でも株は怖いのですが。 こういう不思議な奇跡って、何なんだろうと思います。澤穂希が「神様が近くに降りてきてた」と言いましたが、そういうことってあるのかも知れないと思います。

 

 

高原さん、こんにちは。

この世は奇跡で溢れています。

想いが因で現象は果なのです。

無量の想いを抱けば現象にも無量が現れてきます。

最古の仏伝「マハーヴァッガ第一部」には、仏陀の成道の時の詳しい記述とともに仏陀の神変が数多く記されています。

仏陀は豊穣なインドの精神フィールドを否定などしていません。古層の仏典になればなるほど神々は数多く出てきます。バラモン教やジャイナ教の言葉や慣用句も肯定的に頻繁に出てきます。

仏陀の本当の教えは可能性に開かれたものだったと言えます。

それを後世の凡庸な頭の者たちが、どんどん卑小に、矮小にしていきます。

灰身滅智に突き進み仏教を唯物論にしてしまいました。

大間違いです。

 

精神が無量に触れると現象にも無量の兆しが現れ始めます。

人間は瞬瞬刻刻、自らの想いで自らの環境を創造しつつあるのです。

卑小な想いは卑小な環境となります。

とりとめのない想いはとりとめのない環境となって現れます。

想いをなくせばいいんだという今の風潮では、最も大事な創造性を捨ててしまうと言うことです。

そのような間違った教えからは一刻も早く離れるべきです。

布団をかぶって「バカヤロー」と叫んで怒りと一体になれば苦しみが消える、などというなんとも馬鹿げたことを禅と思っている人もいるようですが、布団をかぶって「バカヤロー」と言って一時的に気分はすっきりするかもしれませんが、その想いによって環境はますます困窮します。

想いの創造性を知らないのです。

いまこそ、仏教に蔓延る虚無思想から離れなければなりません。

想いこそ環境を作るのです。

これこそ、仏陀の真意です。

禅でも、臨済や白隠などの本当にわかった人は、自らが創造の主体であると悟っていました。

無量というのは、様々な世界に開かれた心でもあります。

神仏の加護は実際にあります。

そのような可能性を閉ざすような考え、唯物的なのが仏教だとする考え、からは遠ざかるのが一番です。