牛過窓櫺

たーぼー (126.247.102.162)  

ショーシャンクさん、こんばんは。 牛過窓櫺の一転語が今日の仕事中に浮かびました。 上四恩(国の恩、社会の恩、父母の恩、衆生の恩)に報いる為、三界(欲界色界無色界)の衆生を救う為に私は絶対的主体性を確立します。牛過窓櫺の公案の答えとしてどうでしょうか?というより、こういった公案の答えが正しいかどうかショーシャンクさんに聞く事自体が絶対的主体性ではない様な気がしますが(笑 そう考えると臨済宗の公案禅の師弟のやり取りの中で絶対的主体性が確立されるのかなと思ったりします。
 
 

三十八 牛過窓櫺

五祖曰く,譬えば水牯牛の窓櫺を過ぐるが如く,頭角四蹄都べて過ぎ了る,甚麼に因ってか尾巴過ぐることを得ざる。

無門曰く,若し者裏に向かって顛倒して,一隻眼を著得し,一転語を下し得ば,

以って上四恩に報じ,下三有を資くべし。

其れ或いは未だ然らずんば,更に須らく尾巴を照顧して始めて得べし。

 

頌に曰く,

過ぎ去れば抗塹に堕ち,回り来たれば却って壞る。

者些の尾巴子,直に是れ甚だ奇怪。

 

 

たーぼーさん、こんばんは。

水牯牛の尾巴とは何か、これに尽きますね。この公案は。

つまり、牛のしっぽとは何を表しているのか。

また、なぜ、この牛は、頭や体全部は牛小屋の窓から抜け出ているのに、しっぽだけ抜けてないのか。

しっぽの正体、如何。と言ったところでしょうか。禅臭く言えば。

 

この公案、実は百丈野狐の公案と全く同じことを言っています。

 

私は禅の門外漢ですから、あの禅のブログの人たちに、『水牯牛の尾巴とは何?』と聞いてみられたらいいですよ。どのように答えられるか、興味あります。

 

 

 

たーぼー (126.247.102.162)  

牛の尻尾とは世間の目だと思います。 私が見たという私が残ってしまうという所謂鑑覚の病と言われるものだと思います。
 
 
 
これは違うと思います。牛の尻尾とは世間の目ではありません。
牛の全体は格子窓を抜けて牛小屋の外にあったとしても、尻尾は牛小屋にあるのです。あらねばならないのです。
牛の尻尾は牛小屋にあって、牛小屋で自由自在、縦横無尽に働かないといけないのです。
 
 
 
 
たーぼー (126.247.102.162)  
>また、『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』、そして、『不昧因果とは因果に落ちることである』というなら、なぜ、『不昧因果』で大悟したとたん野狐の身を脱して野狐は死骸になったのか、を聞いてみてください。 因果だけがあってなるようにしかならないのであれば、そして、因果によって野狐に生まれたのであれば、野狐のまま楽しく生きていけばいいのではないのですか?なぜ、野狐は死んだのですか?なぜ、因果である野狐の身を脱したのでしょう? なぜ無門は『不昧不落 千錯萬錯』と言ったのでしょうか?これも聞いてみてください。
 これは私自身が過ぎ去れば塹壕に堕ちていたからですね。やっと分かった。愚さん=私だ。愚さんが引っかかっていた尻尾だから、ずっと反発していたんだ。 現象に振り回されて自分の足元を見れてませんでした。
 
 
 
牛の尻尾とは何かを探求してみてください。
形骸化した禅問答では、身体全体で尻尾が振られる真似をして認可を受けるかもしれません。
一度、禅の人に、牛の尻尾とは何かを聞いて見られたらいいですよ。
 
 
 
 
たーぼー (126.247.102.162)  
最近、物にも意識があるように感じるんです。 物が私の意識とリンクするように壊れたり直ったりします。 怖いです。 今日もトラックの仕事中に、トラックにバックモニターがあるんですけど、それが急に映らなくなって、その時に自分で内省して見ると、心の深い部分で過去のことを考える事をタブー(してはいけない事)視している事に気づいて、そのバックモニターが壊れた時に過去のことを考えていたんです。それで仏陀の掌を開いて石を見るようにそのタブーに気づいたらバックモニターが直りました。何度かトラックや携帯や色々な物体が私の意識とリンクしているように感じるようになって気味が悪いです。
 
 
 
それでいいと思いますよ。
仏陀も言っているように、ものごと=現象=環境 は、心にもとづき、影のように心につき従うのです。
現象は心の影です。
仏陀は『因果』などという言葉を使ったことはありませんが、それが『原因と結果』を表しているとすれば、仏陀が考えた原因とは、kamma(想いと想いに基づく言葉、想いの基づく身体の行為)であり、結果とはものごとであり現象であり環境です。
 
私は自分が経営する会社が倒産寸前だった時、会社の2億円の借金を全部返し蘇らせようと決意しました。周囲の誰からも倒産確実と思われていましたが、短期間のうちに奇跡的に復活して無借金となりました。
現象など、環境など、泡のようなものです。
心が主です。
決意こそすべてです。
何とでも変えられるのです。
 
『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』というようなことを言ってる人を見ると腹立ってきますね。
まあ、それもその人の人生ですから、そうやって、因果とやらの奴隷、運命の奴隷、環境の奴隷になって、ひたすら自分の悩みをなくすことだけに専念していたらいいと思いますよ。
 
しかし、自分が経営する会社には従業員が何百人もいる、資金繰りが行き詰ってる、倒産すると、代表である自分は連帯保証人なので無一文になるし、従業員とその家族は路頭に迷うし、取引先に大きな迷惑をかける、ひょっとするとその何社かは連鎖倒産するかもしれない、というような困窮した状況で、『因果だけがある。自分も自由意思もない。責任もないんだ。』と思い込めば罪悪感から解放され悩みはなくなったように感じるかもしれませんが、坐禅から起き上がると困窮した状況は何一つ変わっていません。ただの現実逃避です。
それで満足ならそれもその人の人生です。
 
 
 
たーぼー (126.247.102.162)  
ショーシャンクさんおはようございます。 ただ危ないなとも思っているんですよ。 今のトラック業界は飲酒に厳しくて、毎朝アルコール量を測る機械に息を吹いて飲酒検査するんですよ。 それで4日前くらいに私出ちゃったんです。 しかも0.5とか異常に高い値が出たんです。 前の晩確かに少し飲み過ぎたなという感じはあったのですが、こんな数値が出る量を飲んではいないんですよ。今の会社で出たのは2回目で前回は0.15でした。 半年前くらいだと思うんだけど、前回の方が量を飲んでいるんです。今までの経験からして、まぁ大丈夫だろうなという線だと思ったんですが、0.5でした。 それで仕事に遅れてしまうから、30分くらい水を1リットル飲んだりトイレに行ったり色々やったんですが、全然数値が下がらないんです。 数値も高すぎるし、おかしいなぁと思って内省したら自分の悟り臭さを心の奥の方で引っかかってるということに気づいたんです。それで仏陀の掌の上で石を見るように見て、もう一度測ったらなんと数値が0だったんです。びっくりして、ちょっと思考を出すとカルマに翻弄されて危ないなと思って、あまり思考を出さないようにと思っています。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
心が身体にそして身体の数値に作用するいい例ですね。
 
心が整ってきたら、環境も身体も徐々に整ってくるようになると思います。
身体にいいものがおいしく感じるようになります。
ジャンクフードからは徐々に遠ざかるようになりますし、タバコもこの十数年間やめて1本も吸ってません。酒も味わうというか嗜む程度というか、あまり飲まなくても、ほんの少量でとても美味しく楽しくなります。
 
私は自分で驚くほど取り柄のない人間ですが、たった2つだけ取り柄があります。
それは、食べ物に好き嫌いが全くなく何でも美味しく食べられること。
もうひとつは、食べ物は残さずに全部食べることです。
臨済も『食を思えば百味具足す』と言っています。
 
瞑想で精神が広がってよかったことは、クラシック音楽が心の底からわかるようになったことと、食べ物の好き嫌いが全くなくなったことです。
 
やはり、心と体は密接に関連してますね。
 
 
 

>何でも質問していいなら、この公案の牛の尻尾とは端的に言えば何だと思いますか?
>愚さんなら室内でどう答えますか?

室内のことは、さすがにオープンにできませんが・・・・
見方は、大悟徹底して、悟り臭さもなくなったとき、なにが残るか、ということですね。

拶所としては、
その牛はどこにいるか?
その牛をここに引き出せ
その牛いつの時代に生まれたか?
その牛、東に過ぎたか、西に過ぎたか?
牛、ソウレイを過ぎる
公案の全体
その牛、おすかめすか?
子を産んでみよ

一応難透になっていますが・・・・その境涯になるにはなかなか大変ですね

 
 
たーぼーさん、ブログ主さんに牛の尻尾とは何か聞いてくれたのですね。
うーん、しかし、牛のことしか答えてないですね。尻尾が出てきません。
牛は簡単なのです。十牛図にあるように、牛は悟りの当体で最もわかりやすいのですが、牛過窓櫺の公案が難透なのは、牛でなく牛の尻尾が何かということが難しいからです。
また、窓櫺の意味も人によって全く違います。
よくある解釈は、窓櫺は家の窓(格子戸)のことで、家の中から窓の外を見ていたら、通りを牛が通っている、牛の頭や角や体全体は右から左へ(または左から右へ)通り過ぎたけど、牛の尻尾だけは通り過ぎない、ということです。
これだと意味が全く分からない。
私は窓櫺は牛小屋の窓と考えていますが、その解釈は少数派だろうと思います。
ですから、禅の印可を受けた人に牛の尻尾の意味と窓櫺の意味を聞きたかったのですが。